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どのくらい馬を走らせたのだろうか。あの斥候の人は一時間半くらいだと言っていたが、実際どのくらいの時間が経過しているのか玲子にはわからなかった。
正直に言えばもうお尻が痛いし、これ以上進みたくない。一人になると、恐怖がひたひたと足元から這い上がってきそうだ。すると、いきなり馬が止まった。
「ど、どうしたの…?」
何とか進もうとするのに、馬は嫌がって今にも逃げ出しそうだ。そして魔物がこの馬も怖いのだと気付いた。
「そう、だよね…怖いに決まっているよね…」
自分の所為でこのような場所まで連れてこられたのだ。本来ならば、騎士たちと一緒に戻ってもおかしくないのに。玲子は人に優しくしようとは欠片も思わなかったが、せめて動物には優しくしたいと思った。というより、そうしなければかつて日本で暮らしていた自分の何かが壊れてしまいそうだった。
「ごめんね、ここまででいいから…」
玲子はそう言いながら馬から降りる。正直に言えば一緒に来て欲しい。だが、それは我儘というものだ。ここからは自分の足で行くしかあるまい。それに馬が怖がるほどの距離ということは、そこまで離れていないのだろう。馬は降りた玲子を一度見ると、ヒン、と鳴いて来た道を戻っていく。そうして玲子は本当に一人きりになった。
「……絶対、絶対に赦さない」
玲子は自分を鼓舞するようにそれを口にする。だって、考えなくてもわかることだ。玲子には何の力もない。聖女と勝手に言われ、呼び出されただけのただの女。その女に揃いも揃って過剰な期待をしたあの第一王子たちが憎くて憎くて仕方ない。そう考えていなければ、今にも逃げ出したくてたまらない。
本当は玲子だって死にたくない。叶うなら、あの世界に帰りたい。でも、きっとそれは叶わないのだろうと心のどこかで理解している。だからこそ、せめて一矢報いたい。まぁ、ここでドラゴンに食い殺されればそれも叶わないのだろうけれど。
そうしてどれくらい歩いだのだろうか。不意に森が開けた。
「―――あれが」
そこには、小山のようなドラゴンが丸まっていた。鱗は黒く、艶々としている。本当にファンタジーの世界なのだと玲子は改めて思い知った。
そしてそこからどうしようと考えた。玲子は剣もろくに振るうこともできなければ、攻撃魔法も彼らが望むほどの力量ではない。魔力量はあるらしいのだが、何故かうまくできないのだ。玲子は諦めにも似た境地で仕方なくドラゴンへと近づく。
すると玲子の気配に気づいたのか、ドラゴンがのそりと顔を上げた。
「―――っ」
目はルビーのように赤く、爬虫類のように瞳孔が縦長だった。
そして、その目を玲子は綺麗だと、思った。そう思っていても、恐怖からか身体は小刻みに震える。それくらい、怖かった。叶うなら泣き叫びたかった。返して欲しいと、あの世界に戻して欲しいと怒鳴り散らしたかった。
でも、それ以上の恐怖によって玲子の身体は硬直する。
すると、聞きなれない声が玲子の頭に響いてきた。
『―――なんだ、人の子か』
「……え?」
『こんな場所にまで来るのか…? 全く、ただ休むだけでもすぐに寄ってたかって攻撃してきおって…面倒なことこの上ない』
「え、ちょ、ちょっと…」
『それにしても一人…しかも女子か…? 最近の人間はようわからぬ。はぁ、こちらから攻撃せぬと言うても言葉が通じぬからなぁ……面倒だ』
「ちょ、ちょっと待ってください!」
『―――ん?』
玲子は口をあんぐりと開けながらぶつぶつ呟いていたドラゴンに話しかけた。
「あ、あの、話せる、んですか…?」
『―――!?!?』
玲子は、魔物には意思も会話するほどの知能がないと教えられていた。その中で、魔王だけが別なのだと。魔王は魔物たちを統率できる唯一の存在。その存在さえ斃してしまえば、魔物たちはただの有象無象となる。だから魔王を斃さなければならないのだと。
『ふぅむ…確かに我ら魔族は人間と言葉を交わすことはできぬ。魔王様だけが唯一、人間と会話することができるが、だからと言って我らが言葉を解さないわけではない。魔族同士では普通に会話をしておる。そもそも、魔物と魔族とでは異なるのだがなぁ…』
「…ならどうして魔王は人間と争うことを決めたんですか?」
『そもそもそこが間違いよ。魔王様は人間と争うことなど望んでおらぬ。故に我らも人間を殲滅しようなどと考えておらぬ。だが、我らにも仲間が、身内がおる。身内が殺されれば復讐に走る者もおろう…。しかし魔王様は無駄な殺生はするなとご命令なのだ。故に人間はまだ滅びていないだけの話だ』
ドラゴンは話の分かる相手だった。そのことに玲子は驚きつつも質問を重ねていく。正直、この世界に来て誰よりも優しくしてくれた相手だった。そして人間側の恐怖による身勝手な行為に嫌気すらさした。
『ほう…其方は異世界から召喚された女子だったか…。人間は相変わらず珍妙なことをしようなぁ…。そういえば、少し前にもおったなぁ…』
「そうなんです…それであのクソ…第一王子に名前で縛られて、あなたに食い殺されて来いって…」
『本当に人間は恐ろしい…同族をそのように扱えるのは人間だけだ……ん? そなた、名を縛られたと言うたな? ……ふむ、隷属の契約か』
「え、隷属…? そんな、ものに…?」
王家のものと結ばれたと言われていたが、まさかそんなものを契約させられていたなんて、と玲子が絶望していると。
『―――いや、全てではないようだぞ』
「えっ!」
『名を全て教えておらんかったのか…? 少なくとも全て縛られた者の色をしておらぬ』
「―――そういえば」
そして玲子は自分が苗字しか名乗っていないことを思い出した。しかし名字だけであの痛みだとすれば、全て教えていたらどうなっていたのだろうと考えてぶるりと身を震わせる。そしてそんな酷いことを簡単にする第一王子たちへの憎悪だけが強くなった。
そんな玲子の様子を見ていたドラゴンは、気遣わし気に覗き込んできた。人よりもよっぽど優しいドラゴンに、玲子は初めてこの世界でほっと息を吐く。
『なれば、どうする、人の子よ。其方を見る限り、その国に居れば辛いことしかないのだろう』
「でも、名字だけとはいえ縛られています…。私にあいつらから逃げる術はありません…」
『いや、あるぞ』
「! ど、どんな方法ですか!?」
『その者より強い魔力を持つものに強制的に上書きさせるのだ』
「上書き…?」
それはつまり、結局玲子は解放されないということではないだろうか。期待したそれでなかったことに玲子が落ち込んでいると、ドラゴンは慌てたように続けた。
『上書きと言ってもな、その御方は其方を従えようなどとお考えにはならぬ! 安心いたせ!』
「ありがとうございます…」
流石にその言葉を鵜呑みにできるほど、玲子はこの世界を信じてはいなかった。そんな玲子の心情に気づいたのか、ドラゴンは更に焦ったように続ける。
『言ったであろう? 魔王様はそもそも争いなどしたくないのだと。それに其方の境遇を知ればかの御方も其方に同情を禁じえぬだろう』
「魔王、様が、私を助けてくれますか…?」
『あぁ、あの御方は無暗な殺生は好まん。それに其方のその力に興味が持つだろう』
「私の、力に? ……あ、でも…」
叶うならばあの人間たちから逃げ出したい。しかし玲子は自分を後で探しに来る斥候のことを思い出した。自分がここで食われずに消えれば、斥候は攫われたと報告するかもしれない。そうしたらあの王子どもはここぞとばかりに魔物を攻撃するだろう。それくらいは簡単に想像できた。
そのことをドラゴンに説明すると、それは少し面倒だと言って何故か自分の腕を切り裂いた。
「!? 何を!?」
『問題ない、かすり傷だ。しかし其方がここで死んだと偽装しておいた方が都合が良いのであろう? 其方には悪いが衣類を多少破ってもらいたい。それにこの血をつけて放れば、多少なりの時間稼ぎにはなろう。流石に偽証することはできぬがな』
「どうして、そこまで…」
玲子にはどうしてドラゴンはそこまでしてくれるのか理解できなかった。自分とドラゴンは初対面だ。それに自分の境遇を彼は一度として疑っていない。どうして、玲子を信じてくれるのか。戸惑う玲子を見たドラゴンは、わかり辛いが笑みを浮かべたように見えた。
『何、永く生きて居るが人の子と話したのは初めてでなぁ…。それに其方は今にも死にそうな顔をしておったゆえに、気になってしまったのだ』
「っ…」
その優しい言葉に、玲子は涙ぐんだ。この世界に無理矢理連れてこられてから、一度もそのような言葉をかけてもらったことがなかったから。
『辛い思いをしたのだな…。安心いたせ、人の子よ。我らが魔王様は其方を無下に扱ったりなどせぬ』
「はいっ…」
『決まったのであれば急ごう。もし其方が生きていることがバレれば痛みを与えられてしまう。恐ろしいやもしれぬが、我の手の内に入れ。我の翼であれば魔王様のおわすところまですぐだ』
そうして玲子はドラゴンに言われた通りに偽装すると、ドラゴンの手に優しく包まれながらその場から飛び立った。
*****
「あぁ…やっぱり…」
斥候は予定通り、マジマが消えてから四時間後にドラゴンのいた場所にいた。そして残された血痕のついた衣類を見て、やはり食われてしまったのだと悲しみを覚えた。いくら何でも、あの態度は酷すぎる。
今回同行した騎士たちは、予めマジマのことを側近から聞いていた。異世界より召喚された女。聖女として召喚したにも拘らず何一つできない役立たず、と。魔物との争いを身近に知っている騎士たちからすれば、職務放棄した聖女として評価は最低だった。聖女さえちゃんと機能していれば、魔物との争いに終止符が打てるかもしれないのに。
しかし、生身の彼女を見て、本当にそうだろうかと騎士の誰もが思った。顔色は悪く、酷く怯えているようにすら見えた。第一王子の側近の一挙一動にびくりと肩を震わせ、まるで小動物を苛めているようですらあった。少ししか会話をしなかったが、それでも彼女は礼儀正しかった。本当に、側近や第一王子が言うような人物だったのだろうか。
「……とりあえず、確認しなければ」
斥候はそう言いながら周辺を探索する。マジマの姿はおろか、ドラゴンの姿も見えない。つまるところ、マジマの血は魔物に効かず、ただ彼女は無駄死にしただけ。
「本当に、あれでよかったのだろうか…」
斥候は呟く。彼女が何をしたのだろうか。いや、確かに何もしていない。だが、よくよく考えればいきなり異世界から召喚されて聖女だと祭り上げられ、能力を示さなければこのような扱いをする。事実だけを見ればこちらがしたことの方がよっぽど酷いのではないだろうか。
だが、いくら斥候が考えて疑問に思ったところで何かできるわけでもない。斥候はあくまでも国の騎士団の一騎士でしかない。権力とは無縁なうえに、下手に言葉を発すれば不敬罪で罪に問われる可能性だってある。というより、あの第一王子では確実にそうなるだろう。王は比較的にまともな判断を下してくれるかもしれないが、第一王子がマジマを召喚することを許可しているあたり、期待できそうにはない。
「…しかし、隊長も疑問に思っていることだろうな」
自分に命令をする隊長の表情は優れなかった。当たり前だ。国民でないとはいえ、一人の女性を見殺しにしたのだから。もし、可能性があるとすれば隊長が団長に直に話すくらいだろう。だからと言って、喪われたマジマの命が戻ることはないが。
「戻ろう」
斥候は残されたマジマの服を回収すると、近くに止めていた馬の元へと足早に向かった。