第09話 城下 滋之 3 もうけもの
「ええ、どうも、ありがとうございます。
…ええと、マスター…?」
そのお客様はまだ確信を抱いてはいないけれど、と言った風に僕に呼び掛け、小首を傾げた。
黒髪がさらりと音を立てるように流れる。
僕がその動きに気を取られたのは半瞬の事で、僅かに浮かんだ戸惑いに、次の句を継げなかった。
「あ、いえ、あの…」
そう間違われる事も初めてでは無く、ごくたまにある事ではあったけれど、だからと言って慣れようものでも無い。
「…あら」
と言ったのは母。
お客様の脇に立つ僕に母の表情は見えなかったけれど、どんな顔をしているかは分かる。
「マスター、ですって。嬉しいわね?」
そう言った母に、お客様は何か気付いた顔になった。
僕はちらと振り返り、自分の方が嬉しそうな母を見る。
「あのね、母さん…」
「折角お客様が呼んでくださったのよ?
ご好意には甘えておきなさい」
「そう言う問題じゃないよ、これは…」
「マスターと呼んで頂けるなんて儲け物じゃないの。
ほら、きちんとお礼を申し上げなさい」
僕が一つ言うと二言返ってくる母の言葉。
なかなか反論の糸口が掴めない。
しかも相手は上機嫌なのだから始末に終えない。
僕が困惑している間に、弾むような足取りでこちらへと歩み寄ってきた母が、お客様へ向かって一礼した。
「ありがとうございます。
当店のマスター、城下滋之と、その母でございます。
滞在中はどうぞご贔屓に」
満面の笑みを浮かべる母は、お客様の目にはどう映っただろう?
一重目蓋の瞳がぱちぱちと瞬く。
僕は、笑みを湛えてお客様と僕を見比べている母をこそばゆい思いで見下ろしながら、心中で歎息した。
そしてお客様へと控えめに主張する。
「あの、僕はまだマスターではありませんので…」
そう呼ばれる事が決して不快では無いのだけれど。
分不相応なようで、照れてしまう。
お客様は表情は落ち着いて僕ら親子を見つめていた。
けれど瞳はくるくると踊り、口元には快活そうな笑みが浮かぶ。
「良く分かりました、マスター」
僕はますます面食らい、はにかみ笑いを噛み殺した。
今日の夕食の席の話題が、この一件で占められるであろう事は、隣に立つ母の表情から想像に難くなかった。