第08話 遠野 涼子 3 木々のせせらぎを背景に
りん、と鈴が鳴る。
その喫茶店のドアを開けて中に入ると、間髪入れず歓迎の言葉を聞くことになった。
「いらっしゃいませ。」
女性の明るい声。
「いらっしゃいませ。」
落ち着いた男性の声、…マスターだろうか。
彼女は、ドアを音を立てず閉めた。
気ぜわしい大きな音は、どうやらこの店には似つかわしくない。
落ち着いた雰囲気の店内には、他に2,3の人がいる。
音楽のない静かな店。
良く片付けられた、だが、樹のぬくもりのする店の雰囲気が遠野はとても気に入った。
彼女は店内を一瞥し、真っ直ぐに窓際の一人席のひとつへ向かう。
理由などなくても、店に入った瞬間、気に入る席というのは分かるものだ。
彼女はそこへ腰を下ろすと、手に持ったままであった羽生の地図を再び広げた。
「いらっしゃいませ、メニューをお持ちしました。」
そう、声がかかる。
先ほどの男性だ、小さな喫茶店、若く見えるがきっとマスターなのだろうと彼女は思う。
それが誤解であることを知る術はまだ無い。
やさしい、柔らかな顔立ちをした人だと思う。
まるでこの羽生の街のように。
彼女は差し出されたメニューに目を通す。
お茶は様々な種類があったが、彼女はフレーバーティーなどの香りの独特なものより、ごく普通の紅茶の方を気に入っていた。
「温かい紅茶をお願いします。茶葉は…アールグレイで。」
「畏まりました。」
注文を終わろうとした瞬間、ふとあることに気付き、メニューをもう一度開く。
「こちらは、ケーキがご自慢のお店なのですか?」
メニューの中にケーキがとてもたくさんある。
青年が胸を張る、にこやかに。
それが彼にとって、的を得た質問だったのだろう。
「そうです。」
ケーキが自慢の店に立ち寄ることになって、それを味あわずに立ち去るのは勿体ない、と彼女はケーキも注文することにした。
お勧めを尋ねると、アップルパイだと、闊達な女性が答える。
それを注文することにして、彼女は今度は窓の外に視線を移した。
地図を見て、大体城から降りてきたこの辺りだろうと、見当はつけた。
が、この店は地図に載るような大きさではない、むしろこの店の雰囲気からして、掲載してやろうと言われても断るのではないかと思った。
窓の外に見える樹はまばらな雑木林、思い思いの色に紅く色づいている。
その瞬間風が通ったらしい、樹から何枚かの落葉があった。
自然林の、とりどりの紅葉。
「お待たせ致しました。」
そして、紅茶が運ばれる。
茶葉の、良い香りがした。
「ありがとうございます。」
どうやら青年は、彼女の持っていた地図に目を留めたようだ。
「羽生城をご覧になられた帰りですか?」
その通り、堂々と観光地図を広げていれば誰にでも分かるだろう。
「ええ、この辺りを散策して来た所です。」
「観光の方でしょう?」
「そうなんです。ここは静かで、良い所ですね。」
お世辞ではなかった、彼女にとってこの街はひどく居心地がよい。
会話は、青年と彼女のものだったはずだが、嬉しそうな相づちはよそから来た。
最初に「いらっしゃいませ」と言った、年配の女性。
「良い所でしょう。のんびりしているし、景色も綺麗だし。
散策する場所もたくさんあるし…。
この辺りは特に、お散歩には最適ですものね。
夕暮れ時も綺麗なんですよ、お暇がありましたら、是非。」
不愉快ではない鷹揚さで、ごく自然に語られる羽生の良所。
「是非、ゆっくりしていらしてくださいね。」
彼女が本心からそう言っているのは確かなことで、最後の言葉は微笑みとともに彼女に向けられた。
だが、ほんのわずか、青年の口の端に苦笑が浮かぶ。
言うべき言葉を全て先駆けられてしまっては仕方がないだろう。
青年は、それでも心のこもった様子で、最後の言葉を継いだ。
「当店でも、是非ゆっくりしていってくださいね。」
素敵なお店だこと。
彼女はそう思った。
「ええ、どうも、ありがとうございます。
…ええと、マスター…?」
礼を言おうと思って疑問系になったのは、青年がマスターであるという確信がなかったからだ。
本来のマスター、青年の父親はケーキの販売の方へ入ってしまっており、姿が見えなかったため、遠野はこの青年がマスターかと思ったのだ。
「あ、いえ、あの…。」
「…あら。」
遠野が言葉を発した瞬間、青年に表情にわずかに困惑が浮かび、年配の女性が立ち働きながらも、面白がっているような悪戯っぽい表情を浮かべた。
どうやら何か間違ったらしいわ。
遠野はそう思ったが、訂正はせず、成り行きを見守っていた。