第07話 城下 滋之 2 ご来店
高く結い上げた母の髪が、不意に揺れた。
その直後、りん、と鈴の音が響いた。
何時もの事だけれど、母がご来店されるお客様に気付くのは早い。
ドアの鈴が揺れる前に反応するのは、どうしてなのだろう。
今日みたいに店内が空いていれば、近付いて来るお客様の足音が僕にも聞こえる事はあるけれど、その時にはもう母も気付いていて、ドアの方へと目を向けている。
『慣れれば分かるものよ』
と母は言うけれど、僕だってこの店で働くようになってからもう五年が過ぎていると言うのに、一向に『慣れる』気配が無い。
何時か、母よりも早く気付いてみたいものだ。
そう思いながら、僕は開いたドアを見遣った。
「いらっしゃいませ」
母の明るい声が響く。
僕も続く。
「いらっしゃいませ」
ふわり、と微風が店内に吹き込み、お客様が品のある動作できちんとドアを閉めた。
僕とそう年の変わらないくらいの女性だった。
涼しげで理知的な面差し、切れ長の瞳がちらりと店内を見回す。
初めてのお客様だ、と僕は直感した。
少なくともこの辺りの人では無いと思う。
お客様は落ち着いた佇まいからは少々意外な律動的な動作で、こつこつと靴音を静かに鳴らしながら、窓際の一人席へと腰を下ろした。
そこは普段、常連客である近所の高校生、紗耶さんが好んで座る席だったけれど、今日は学校があるから、彼女はまだ来店していない。
尤も今日彼女が来店した所で、お気に入りの席が空いていないからと言って機嫌を損ねるような少女でも無い。
大人しいけれど、とても良い子だ。僕は幼い頃から彼女を知っていた。
だからだろうか、紗耶さんが気に入っている席を、店内には他にも空いている席があると言うのに、ぱっと一目で選び抜いて座ったお客様に、僕は何とは無しの親近感を抱いた。
気に入って頂けたのかな、そう思うと、やはり嬉しい。
母がちらりと僕を見る。
僕は目で頷くと、お冷とメニューを持ってお客様へと歩み寄った。
「いらっしゃいませ、メニューをお持ちしました」
静かに声を掛けると、彼女が顔を上げた。
見入っていたらしく、手元に小さな本が見える。
メニューと、レモンを一切れ入れた水をテーブルに置きながら、僕はその本が羽生市の地図である事に気付いた。
お客様は一旦地図を膝の上に置くと、メニューを開いた。
窓の外で、色付いた葉が一枚、ひらひらと落ちた。
お客様は、メニューを開くと、さっと一度目を通した。
漆黒の髪が一房、肩から滑り落ちる。
僕が傍を離れようと一礼する前に、彼女は顔を上げて言った。
「温かい紅茶をお願いします。茶葉は…アールグレイで」
「畏まりました」
一旦メニューを畳もうとした彼女は、ふと何かに気付いたように今一度、開いた。
そしてもう一度眺め遣った後、ちらと僕を見て尋ねて来た。
「こちらは、ケーキがご自慢のお店なのですか?」
恐らく、メニューの中のケーキの種類豊富さに気付いたのだろう。
「そうです」
僕は胸を張った。
店の奥にあるガラス戸を手で指し示し、教えて差し上げる。
「隣では、ケーキの販売も行っております」
お客様は納得したように二度、頷いた。
微かに笑んで、更に尋ねた。
「では何か、お薦めのケーキを頂きたいのですが」
「お薦め…ですか」
言いながら、僕は考えを巡らせた。
今日は何が良い出来だと、父は言っていただろうか?
このお客様は何がお好みなのだろう?
僕が答えを出す前に、少し離れた所で食器を片付けていた母が口を開いた。
「先程、アップルパイが焼きあがった所ですよ。
アイスクリームを添えて、焼き立てを如何ですか?」
お客様は母へとにこり、微笑を向けて、それから僕へと告げる。
「では、アップルパイもお願い致します」
「畏まりました」
今度こそ一礼し、僕はお客様の席を離れた。
静かな店内。
他に三人のグループのお客様がいらっしゃる以外は、あの観光客と思しきお客様しかいらっしゃらない。
この時間帯は何時もこんなものだった。
夕暮れ時にはごくたまに混み合う事もあるけれど、そもそもこの店に、
『混雑』が訪れる事はそう無かった。
紅茶を用意しながらちらと見る。
お客様は、地図を手にしたまま窓の外の光景を眺めていた。
外にある立木を見ようと少し顎を上げた、真っ直ぐな姿勢。
紗耶さんと同じ仕種だ、僕は密かに微笑した。
「お待たせ致しました」
温かい紅茶と、アップルパイのアイスクリーム添え。
それをお客様への席へと運ぶ。
彼女は顔を上げ、切れ長の瞳を細めて会釈した。
「ありがとうございます」
僕は微笑を返しながら、ふと彼女の手にしている地図へ視線を向ける。
「羽生城をご覧になられた帰りですか?」
そう尋ねると、お客様は地図をテーブルに置き、静かに頷いた。
言い当てられた事に、特に驚いた様子も無かった。
「ええ、この辺りを散策して来た所です」
「観光の方でしょう?」
「そうなんです。ここは静かで、良い所ですね」
お客様はそう言って、ティーカップに触れた。
持ち上げて唇に近づける。
『静かで良い所ですね』
その言葉はこの店に立ち寄った観光客の皆さんが、口を揃えて言ってくださる言葉だった。
僕はそう言われるたびに、まるで自分が誉められたような、くすぐったいような、けれど嬉しい気持ちになる。
生まれ育った街を誉められるのは嬉しい事だった。
「良い所でしょう。のんびりしているし、景色も綺麗だし。
散策する場所もたくさんあるし…。
この辺りは特に、お散歩には最適ですものね。
夕暮れ時も綺麗なんですよ、お暇がありましたら、是非」
母が立ち働きながらも、お客様へとのんびりとした声を掛けて来る。
「是非、ゆっくりしていらしてくださいね」
にっこりと笑む、母。
しかし、僕が言おうとした事を皆言われてしまった。
苦笑が浮かぶのを噛み殺しながら、僕は取り敢えずお客様にこう言った。
「当店でも、是非ゆっくりしていってくださいね」
お客様は母と僕を見比べ、それからもう一度だけ微笑んだ。