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たまゆらの街  作者: 高梨 蓮
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第06話 韮川 誉  2 前夜

 羽生の夜は早く、星は明るい。

九時も過ぎれば商店街の灯りは落とされ、人気もなくなった路地に、かさこそと枯葉が滑る。

街灯も少なく、軒下に立て掛けられた自転車がなす術なく闇に飲まれているのを目にすると、あの影が自分にも迫ってくるんじゃないかと思う。

それでも一人で夜道を歩く事ができるのは、その存在を美しく、それでいて控えめにあらわし始めた、星のお陰だ。


 秋の夜空はいい。

空は澄み渡り、光は冴える。夏に眺めた鬱陶しい天の川などどこにもなく、そこには濡れたように深みを増した、黒の腹が横たわる。

夏はそれこそ宇宙のようだった。青と紫、群青。

夜空は一辺倒でなく、地平線は薄ぼんやり、鈍い黄色にも、不吉な桃色にも、先があるような白にもなった。

 けれども秋は、瞬く間に闇を纏った。すっと昇る朝日と同じく、一日は音もなく暮れる。

夏には誉が帰るのを待っていてくれた夕陽も、冬に移行するにつれ、探検帰りの道を染め上げてはくれなくなった。

ちらちらと瞬く星は、冬の眩しさに比べれば落ち着いていたし、どことなく、女性を思わせるしとやかさがある。

しとやか、という語彙をまだ知らぬ誉にとっては表す術のない輝きだが、その穏かな、少し憂いを含む光に無意識に母親を重ねてしまえば、夜道も怖くなかった。



 清流荘へは、誉の家から二十数分かかる。

近くも、遠くもない。

グレーのパーカーを着込んで、ジッパーを首元まで引き上げる。

母親は夜道でも目立つように白を着ろ、と言ったが、白だと汚れが目立った。

息子の日課が「探検」という名のほっつき歩き――しかも道なき道を行く――というのを真っ黒になった上着で知ってから、母親は何も言わなくなっている。

 元々細い道が多く、車の往来も激しいわけではない。

夜ともなれば尚更で、繁華街はまだしもここらでは、昼よりも夜の方が安全だった。


 才覚寺に背中を向けて、そのまま清流荘の門をくぐる。

従業員用の裏の勝手口から入ろうと思ったが、今日は何故だかそのまま、表玄関から入ってしまった。

年月を経た木の匂い。よく母親の首元からする香りは、この宿の息だ。

宿の者の証ともいえるその香りを纏う母親を、誉は少し、誇らしく思っている。

 この時分、小さな宿に今から入るお客はないようだ。

よく磨かれた床板が灯りに照らされ、靴を脱いで一歩をのせれば、きし、と小さく、彼を迎えた。


 それなりに客は入っているようだ。どの部屋からも柔らかい灯りと、人の気が漏れる。

顔見知りの仲居一人と行き逢って、母親をたずねると、もうすぐあがるはずだと言う。

 「誉君、奥で待ってなさいね。お風呂行くお客さんもいるから」

 言外に邪魔だと言う。勿論、それは当然だ。ここは子供の遊び場ではない。

うん、と頷いたものの、しかし誉は仲居を見送った後、そのまま廊下を進んだ。



 こーんと、筧の音が中庭からする。

庭はひっそりとしていて、昼間であれば落ち着いた、それでいて目を吸い寄せる深い苔の緑がある。

今は全く姿を変えて、窓から漏れる宿部屋の灯りが暖かいだろう。

内側では障子の格子が規則正しく、光を真四角に区切って、ほたりと廊下に落としている。

それを踏むようにして進む。

 母親はどこにいるのだろう。どこの部屋で、お客さんのお世話をしているのだろう。

それともこの時間なら、もう引っ込んでいるのだろうか。

判断つかぬまま、しかし大きな宿ではないし、日頃から出入りして造りは知っている。

特別不安にもならぬまま、無意識にきゅ、きゅ、と、足で床を擦った。



 「誉、摺足で歩くの止めなさいと言ったでしょう」

 動きを止める。母親だ。

振り向く前に分かって、しかし姿を認める前にもう一度、音を立てる。

 きゅ、きゅ。

 「この音好き」

そう言って、今度こそ振り向く。

しかし母親は怖い顔をして、駄目、と言った。


 「お客さんがいるの、知ってるでしょう。お部屋に響くわ、奥に行ってなさい」

 「お客さんも、この音好きかも」

 「あなただけよ。靴下も汚れるし。ね、奥へ行っていて。お母さん、すぐにあがるから」

 「はあい」

 返事をして、母親が踵を返すのについていこうとする。

 その時、背後の部屋が開いた。

気配でそれを知って、なんとはなしに振り返る。



 庭に面した、眺めのよい部屋に今現在いるのは、若い女性だった。

すらりとした体は廊下に出ていて、部屋から漏れ出でる明かりに打たれ、くっきりと影を浮かしている。

 それに驚いた。綺麗なコントラスト。

光と影に分かれて、半身を影に費やし、宿の廊下、障子の格子柄の光の紋を踏んで立つ。

浮かび上がった明るい半身は、羽生の人間にはない、不思議な匂いを放っている。


 涼しげな目元が印象的な、黒髪のきれいな女性。

 こーんと、筧が水を割る音がする。


 「誉、早くいらっしゃい」

 振り向くと、母親は誉を通り越して女性へと、会釈していた。

女性を振り返る。

女性も会釈を返して、それから誉にも、そっと笑みを送った。

 「誉、ご迷惑でしょう」

 しかし女性は、面白そうに誉を見た。

なんだろうと、目を瞬かせる。

通勤鞄で学校に通う子供として彼女に認知されているとは知らず、細い視線をそのまま、不思議そうに受け止めた。


 「誉」

 「うん」

 再度母親に呼ばれて渋々踵を返せば、女性もまた反対側へと歩みだす。

その途中、聞きなれた床を擦る音がして、振り向いた先で女性が足を擦っているのを目にする。

誉のものと違って、あまり響かない。女性も僅かに、首を傾げる。


 大人なのに、そういう事をする。

誉が彼女を気に入ったのは、その時からだ。

名も知らぬ女性に対して尊敬にも似た好意を抱くのは、そうある事ではない。

かっこいいものを、見たと思う。



 再度床を擦る。

 きゅっきゅ。

 こうやるんだよ。

そう、伝えるつもりで。



 女性が誉を見て、また笑んだ。

言葉は何も発されなかったけれど、その代わり彼女はもう一度誉の真似をして、きゅ、きゅと、床を擦った。

 古い床の、良い音がした。






 「おじいちゃんね、お風呂入って寝ちゃったよ」

 「そう。お夕飯、ちゃんと食べた?」

 「食べた。おじいちゃん、椎茸残してたよ」

 月に後ろから照らされて、母子の影は並んで歩く。

長く伸びたそれは時折家々の塀の影に入っては、またにょきりと出てきた。

実物より随分背の高いこの影を、母親は「つくしんぼ」と呼ぶ。


 「あのお姉ちゃん、床擦ってたよ」

 「あなたが変な事するから」

 「コツ飲み込むのが早い」

 「おじいちゃんみたいな言い方するわね」

母親は苦笑し、それから、手、繋ごうか、と誘いをかける。

誉は首を振った。


 自分の手は冷たい。母親を迎えに出る時、手袋をしなかった。

だから手を繋ぐと、母親の手の皺に、冷たさが移ってしまう。

冷たくなると皺がよけい濃くなる気がして、ただでさえ皮膚の薄い人だから、怖かった。

 母親は誉のそんな横顔を見て、それからそっと、手で口を覆う。



 「お母さん、少し寒いなあ」

 母親の狙いは分かったけれど、それでも、だから、誉は手を差し出した。


 「冷たいねえ」



 母親は、離そうとしない。

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