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たまゆらの街  作者: 高梨 蓮
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第05話 奥本 紗耶 1 黄昏色の帰り道

学校から家へと帰る道すがらのこと。


奥本紗耶は公園のベンチに腰かけ、秋の色に染まる木々を眺めていた。

イチョウ、トチノキ、ソメイヨシノ、イロハモミジ、ハウチカエデ。

幹にかけられた名札を、ひとつずつ声に出して読んでみる。

トチノキ、の音が気に入った。それだけもう一度くり返す、トチノキ。


いずれも黄金色に、あるいは紅色に、あるいは橙に染まる樹木の根元で、

ひっそりと紫の実をつけているのはコムラサキ。

南天を紫色にしたような実が、つやつやと光っている。

ぶどうガムみたいな色だけど、それよりもっと、ずっときれい。



おだやかな秋の夕暮れ刻。

朱鷺色の陽ざしを受けてやわらかに色をなす木々を眺めていると、

五時間目の古典でならった『古今和歌集』の一首、

「ちはやぶる 神代もきかず竜田川」が思い出される。


唐紅の葉が流れいく細い川。

優雅でうつくしい光景ですねと古典の教師は目を細めて言ったけれど、

本当にそのとおりだと思う。



静かで明るい山の情景を脳裏に思い描きながら、

しかし、そこでうっかり落語の「千早振る」――業平の歌に、

奇天烈な解釈をこじつけたおかしな話――を思い出してしまったのが失敗。


雅びだったはずの思考はまたたく間に横へと逸れ、

家の近くにある『プロムナード』の扉を開いたときには、

同じ落語つながりで思い出してしまったのだろう、

妙に真剣な顔つきで「寿限無、寿限無、五劫のすりきれ」などと

ぶつぶつ唱えているありさま。


りんと響いた鈴の音と「いらっしゃいませ」の声で我にかえり、

あわてて口をつぐんだのだった。



「こんにちは、紗耶ちゃん。外は寒かった?」

カウンターの奥からほがらかな声が聞こえる。店長の奥さんだ。


そうでもありませんと首をふりながら、紺色のベレー帽を脱ぐ。

紗耶の学校では校則で着帽を義務づけられていたけれど、

本当は高校生にもなってベレー帽なんてと思わないでもない。



そのとき会計を済ませた若い女性が数人、

談笑しながら連れ立って外へ出て行った。

さらさらした茶色の髪。お化粧した白い顔。女性らしい細身の洋服。


野暮ったい三つ編みに編んだ黒髪と、

四十年前から変わらないのだとシスターがことあるごとに自慢する

ボレロの制服(それのどこが自慢になるのかさっぱりわからない)を

着た紗耶は、すこしだけ気後れがしてうつむいた。


『プロムナード』は、紗耶の家の程近くにあるちいさな喫茶店だ。

子どものころは母に連れられて、高校生になってからはひとりで訪れるようになった。

店長さんの一家とも顔見知りで、お茶代もすこしおまけしてもらっている。


単身で飲食店へ入店するのは紗耶にとってひどく緊張することだったが、

この店だけはしかし、そんな気遣いとは無縁なのである。

やわらかな空気の満ちるひっそりとした空間が、紗耶はとても好きだ。

店内のいたるところに漂っている、「むかしの気配」も心地良い。



お気に入りは、窓際のひとり席。

なかでも隅の方にある、ごく目立たない席が良い。

そこへ座ってお茶を飲んでいると、

店の空気に溶け込んでしまったような気さえする。


紗耶はまるで自分用に誂えたみたいな席だと思っていたから、

そこにだれかが座っているときはすこしばかり落胆した。

幸い、今日はだれも座っていない。

まっすぐに向かうと、店員さんが注文をとりにきてくれる。



「本日は何になさいますか」


おだやかな口調で尋ねる彼は、城下滋之さんという。

店長の息子さんだ。

男の人が苦手な紗耶だったが、この青年にはさほどの苦手意識はない。


「レモネードをお願いします。温かいほう」


学校指定の紺のコートを脱ぎながら、

すっかり覚えてしまったメニューから今の気分に合うものを選ぶ。

青年は「承知しました」とにこやかに微笑むと、カウンターへ戻っていった。



それから紗耶は、鞄から図書館で借りた色図鑑をとりだす。

続いて、表紙にオールドローズの描かれているB5サイズのノート。


紗耶のひそやかなる趣味は、「きれいなものを集めること」だ。

きれいな絵、風景、言葉、名前、写真、ありとあらゆるもの。

集めたものは、この薔薇の表紙のノートに整理していくのである。


今日集めるのは、色。

気に入った色や、印象的な色、趣き深い名前をもつ色などを集めるのだ。

昨日は歳時記から秋の言葉を拾った。明日は素敵な人名を探そうと思っている。



秘色ひそく。これは、青磁の色。

東雲色。これは、夜明けの空の色。

朱華色はねずいろ。これは、紅花染めの薄い赤。

柑子色。紺瑠璃。ヘリオトロープ。……。



濃紺の細いペンで丁寧にノートへ書き出していく紗耶のテーブルに、

城下青年がそっとレモネードを置いていった。

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