第03話 韮川 誉 1 放課後の過ごし方
韮川誉は困っている。
作文の宿題が出たからだ。タイトルは「ぼくの名前・わたしの名前」。
空が高くなった、秋のこと。
蒼穹にいちょうの葉が踊る。
風の強い日だった。主にいちょうだったが、近くの山から運ばれたもみじや、その他名を知らぬ葉の数々が、ざあっと空に舞った。
短縮授業の日で、傾いではいたけれど、平常の帰りに比べたら日はまだ高い。
誉の丁度真横で照っていて、黄金の、恐ろしいほどの直線が目を射った。
羽生第一小学校は高台にあった。
町を一望できる、とまではいかなかった。入り組んだ紅葉の丘が、一部眺望を盗んでいる。
けれども夕に入る直前の古めかした陽光が、家々の屋根を照らす様を望めるほどには、きく。
誉は校舎横の坂を降りて、グラウンドに出た。
ここにもいちょうの葉が散っていて、黄色の絨毯を敷いたようだ。
踏みしめればふっさりした感触。誉の大好きなカサカサいう、冬の音には少し遠い。
風が吹くたびにさんざめく梢は、それでもまだ一杯に、輝かしい黄金の葉をつけている。
見上げて思う。
本当に困る。
景子先生は作文が出来なければ、漢字の書き取りをさせると言っていた。
二学期に入って習った漢字を十回ずつ。優に三十は超えるから、少なくとも三百字、書かなくてはいけない計算になる。
それもまた面白くない。
かといって母親に名前の由来を聞けるほど、誉は無心なわけではなかった。
誉の名付け親は父親だった。
父親が町を出て行って、もう二年になる。
母親は帰りをずっと待っているようだったが、誉にはもう、父親が帰ってこないことが分かっている。
祖父が教えてくれたからだ。
今日からおじいちゃんと一緒に寝よう。
そう言った時、祖父はお酒を飲んでいた。麦焼酎が、ぷんと香った。
誉は納得している。
一年も待てば疲れてしまった。今では顔を思い出すことも稀で、その顔も、春の月のように朧げになってきてしまっている。
今この手に握る父親の通勤鞄、それに探検用のリュック。
それらが唯一、父親の手触りを与えてくれるものだ。それで充分だった。
ただ母親にとってはそうではない。
なるたけなら父親について、お母さんの前では触れたくない。
そういう思いがある。
誰かが片付け忘れたサッカーボールを蹴りながら、校庭を横切っていく。
早々に生徒たちが帰宅した、捨てられた、人気のないグラウンド。
その後ろは、林が延々と続く土手。
細長い階段が続いて、これを降りると下の住宅街に出る早道なのだが、生徒は立ち入り禁止だ。
階段には手すりがない。
エメラルド色の安っぽい塗装に覆われたフェンスが高々と立ちはだかり、しかし足をかければ何のことはない、飛び越せる。
馴れた手つきで昇り、てっぺんで通勤鞄を放る。
もう少し飛距離が長ければ土手を滑り落ちてしまったろう、そのギリギリのところで鞄は止まった。
ランドセルは大分前に、探検時にどこかに置き忘れてしまっていた。
それ以来、通勤鞄が誉のランドセルだ。
しかし扱いが荒くなるのは、この年ではしょうがないのかもしれない。
続いて自分も飛び降り、そうして階段を軽やかにくだる途中で、足を止める。
羽生の町が、階段の下方から唐突に現われる。
一段下からにゅっと生える、木立に区切られた細長い町の風景。
眼下に色づく赤い屋根と、対照の青い屋根。記憶に焼きつく、鱗のような瓦の照り返し。
「止まれ」の白い道路標識を、散歩帰りのベビーカーが渡ってゆく。
今日はお母さんを迎えに行こう。
唐突に思って、誉は階段を駆け下りる。
住宅街に出ると、古い家々が並んだ。
中でも一番古いのは、どんすけの住む家だ。
どんすけ――庭先の雀も捕まえられないほど鈍いから、鈍介。
近所の小学生がそうつけた犬の頭を、誉はいつものように撫でる。
「どんすけ」
雑種は耳をそばだてた。誉が茶色い額を掻いてやると、目を瞑る。
犬小屋は古くて、獣臭い。
それでも秋風が入り込んだのか、小屋の奥に色づいた葉があった。
「お前の名前、あんまり良くないね」
失礼なことを言っても、どんすけは怒らない。
途中で抜き取ったねこじゃらしで鼻を擽っても、薄ら目を開けただけだ。
「本当、どんすけだね」
誉は立ち上がって、犬小屋を後にする。
あの犬みたいに、自分の名前にも由来があるはずだ。
それを探しに行かなくちゃ。そう思えば、なんだか探検の大儀名分が出来たようでわくわくする。
名前を探しに行く旅だ。そう簡単には見つからないだろう、用意は万全にしなくちゃいけない。
だから今日も、リュックを取りに家へと帰る。