第18話 韮川 誉 5 芋の行く末
芋は無表情に見えたのに、少女の白い手に包まれた瞬間、紅を一層鮮やかにした。
あの細い指がおずおずと、無骨なさつまいもの表面を覆うと、少女、という言葉が脳裏に突き刺さる。
どうしてかは分からない。ただ何もかもが、彼女が女性である事を、その場で唸るように、耳元で囁くように誉に告げるのだった。
危うさはある意味美しく、落日の中で、それは深かった。
誉の笑みに、彼女が安心したように、口と頬とを、綻ばせる。
そうして全ての芋が行き渡ると、誉の満足は大層なものになった。
ちゃんと芋の面倒をみた――彼らはめいめい大事に持ちかえられ、新たな持ち主達の血となり肉となるだろう。
食べごたえがあるのは、時折誉の家の前にも来る、焼き芋屋さんの味でも知っている。
あつあつのお芋にバターをかけると美味いのだ。とろけるバターの香りの、あんまりにもふくよかな事。
正体を溶かしていくそれを垂れ落とさぬよう、上手に食べるのがまた難しい。
切り口から溢れるほどまで厚塗りすると、塩分の摂りすぎだと母親に怒られるのだけれど、祖父がどこ吹く風で食べるから、誉もそれにならっている。
とにかく、得意になって三つの芋を見渡すと、青年から一つの提案があった。
芋を、預かるという。
なんで、と瞠目してしまうのは、今日食べてもらえると思っていたからだ。
どうして預かるのだろう、食べないのだろうか?
それとも、芋が嫌いで、食べられないのだろうか?
色々交錯させて、それだったらいらないって言えばいいのに、とか、今から持って帰った方がいいのかな、とか、おじいちゃん、分けてこられなかったのを見て、がっかりするかな、とか。
そういった考えを巡らせている間に、青年の言葉はさらに続く。
「今度皆で、このさつまいもを一緒に食べましょう」
皆で、一緒に。
ぱっと開いた瞳の奥で、靴音がこだまする。
去年の秋、校長先生が校庭で催してくれた焼き芋大会を思い出す。校庭の落葉を集めて、全校生徒皆で焼いたのだ。
その年は冷え込みが厳しくて、すでにこの時期コートを着込んでいた生徒も多く、不恰好な影が校庭に集まって、さんざめきながら、落ち葉の爆ぜる音を聞いていたものだ。
北風がぴいぷう言うのと、ぱちぱちと、こそばゆい火の音。あれほど芋を焼くのが、賑やかなものだとは思わなかった。
入り日を眺める頃にはもう燃え屑しかなかったけれど、芋の香だけは、まだほんのりと地より立ち昇っていた。
けれどもそのうち風に連れ去られるようにして消えてしまい、今年の春、校長先生も異動になって、あの恰幅の良い、朗々とした声の人は、以後噂一つ、聞かない。
落陽に染まった廊下を歩く校長先生の、赤い背広。
低い、校舎を労うような靴音。
ふと思い立つ。
そうだ、焼き芋をしよう。
散らかった落ち葉を、いちょう、けやき、朴、柿、つたと、こならにくぬぎ、それぞれ数えて。
いろはみもじとかえで、八重桜の葉はきれいに色づくから、すぐ分かる。
全部集めて、色とりどりの焼き芋をしよう。去年の秋のような、賑やかな、気をつけて食べないと、熱された芋の汁に、舌を焼かれる危険をはらんだものを。
この四人で。
けれども青年が提示したのは、スイートポテトだった。
誉は驚いて、取り消すように首を振る――代わりに、青年を直視する。
「ただ焼くだけでも美味しいよ」
否定したいわけではなかった。プロムナードのスイートポテトは天下一品。
それは誉でも知っているし、間違いじゃない。だから首は振らない。
でも、このお芋は焼き芋じゃなきゃ駄目だ。
「そうよ、焼き芋の方が美味しいわよ」
味方に回ってくれたのはおばさんだった。そしてその手にあるのは、いつもおまけ、と称して戴く、クッキーのつまった瓶だ。
貰うのはいつものことなのだけれど、手渡してくれた人の分までお芋がなかったことが、酷く悲しい。
「私は良いのよ。うちの滋之が貰った分のお礼」
滋之は手が塞がってるから、その代わりにね。
優しい笑みは、少し、母親と被る。
いや、母親よりも、この人の方が笑うのが上手だ。
ナプキンに包まれたクッキーが、母親めいた人の手で大事に仕舞われるのを眺めながら、そんな事を思う。
「どうもありがとう」
「お祖父さん達にもよろしくね」
よく似ている。おばさんと、青年と。
それはとても誇らしいことに思える。
優しいおばさんと、大好きなお兄ちゃんは、親子なのだ。
そうした繋がりが、大事にされる芋と同じように、嬉しい。
そばかすが赤々とした落日の刺しこみに浮いて、はじけた。
「それじゃあ、お芋を焼く日を決めましょうか」
明日か、それとも明後日か。
抱えたお芋を店の奥に仕舞うと、青年は手についた土を洗い落として、きれいに拭った。
「明日だよ。明日は風がないっておじいちゃんが言ってた」
指先に唾をつけて、風の向きを測る祖父。
靴を投げて、天気を占う誉。
二人の占いの結果、明日は青天、風は穏かもしくは無風の焼き芋日和、となったのだ。
そう告げると青年ではなく、遠野さん、と呼ばれた女性が、面白そうに目を細める。
「でしたら、明日で決まりですわね。風がないのなら、火の粉が飛ぶ恐れもありませんし――奥本さん、貴女は明日は平気?」
女性の声は、きりりとした眦で想像するより、ずっと優しく、穏かだ。
耳に心地よい、決して高すぎない声は、とおの、という名の音に、よく似合う。
問われた先の少女ははい、と返事をして、誉はすでにこの二人が知り合いであることを知る。
遠野さんと、奥本さん。
奥本さんは、確かさや、いう名前だったはずだ。
青年が、いつも「さやちゃん」と、そう呼んでいた。
奥本さや。本のお姉ちゃんは、本のお姉ちゃんにぴったりの名前を持っている。
「いいわね。でも気をつけてね、火の始末はしっかりしなくちゃ駄目よ」
「ちゃんとやるから大丈夫だよ」
おばさんが青年へと向けた言葉を、代わりに拾う。
青年はにっこりした。
「そうだね。紗耶さんも、遠野さんもいるし」
さやちゃん、はいつの間にか、さやさん、になっていた。
奥本さやさん。
遠野さんと同じ、大人の女性になってしまった――そんな印象を受ける。
誉も大きくなったら、誉さん、と呼ばれてしまうのだろうか。
余りにも似合わないその響きに思わず首を傾げていると、そんな疑問に気づく様子もなく、青年が尋ねる。
「今日も探検かな?」
誉が頷こうとする、その瞬間を突いて、女性――遠野さんが、目を瞬かせた。
「探検?」
「ええ。誉君は、探検が趣味なんです。もしかしたら、羽生を一番知り尽くしているのは誉君かもしれない――それくらい詳しいんですよ」
他の人が言えば大袈裟な、と思う言葉も、青年の口から出ると、不思議と嫌味でない。
お兄ちゃんに褒められたのが嬉しくて、うん、と胸を張ると、女性が何を思いついたか、涼しげな目元を、また細めた。