第16話 奥本 紗耶 3 慣れぬ出来事
「紗耶さんの物を見る眼、僕は好きなんです」
おだやかな口調で告げる青年。
彼の言葉はかすかな余韻を残しながら、夕暮れの『プロナード』へ溶けていく。
いつもなら紗耶はその気配を好ましく思うところだけれど、
今回に限ってはわずかに居心地の悪さを感じてしまう。
なぜなら他人との「忌憚のない」付き合いが苦手な彼女にとって、
青年の言葉はことのほか耳慣れぬ類いのものであったから、
どう反応すれば良いのやら皆目わからなかったのだ。
もちろん、褒められることそれ自体はまったくないわけでもなかったが、
それは単に「行為を評価される」だけの話であって、
「えらい」といわれることと「好き」といわれることはまた別の話である。
紗耶はだから青年の意外な――少女にとってはたしかにまったく意外であったし、とんでもなく不意打ちでもあった――言葉をとても嬉しく思う一方で、慣れぬ事態に困惑した挙句、思わず彼のことを見上げてしまった。
だが、青年は特別なことを口にしたとは露ほども思っていないらしい。
ごく自然な笑顔を遠野さんに向けて言う。
「貴女も紗耶さんのように、この店にいる時間を楽しんでくだされば、
それは僕にとっても何よりの幸いです」
……こういうときは何て言えば良いのだろう、やはり有難うというべきかしら。
でも、どうしよう、よくわからない。
頬がむやみに火照るのが、一層恥ずかしい。
恥ずかしいと思うと余計に頬が熱くなって収拾がつかなくなり、
しまいには不機嫌そうにうつむいてしまう。
うつむきながら、もうどうして素直に嬉しそうな顔をできないの、
ほんとになんて子供っぽいのかしら、嫌な感じよね、
などとひとしきり葛藤する。
そんな紗耶の脇で、おそらく彼女がかくも些細なことで煩悶しているとは
夢にも思わぬだろう大人たちは、至極ゆるやかに微笑みあうのだった。
一人で勝手に煩悶していたせいで、
そのあとすぐに店の扉がいつもより大きな音をたてて開いたときも、
紗耶はすこしだけそちらを見るタイミングが遅くなった。
顔を上げると、入り口には男の子が立っている。
「誉くん」
振り返った城下青年が、いささか驚いたように彼の名を呼んだ。
そう、あの子はたしか、そんな名前だったように思う。
話したことはないけれど、ときどきお母さんとケーキを買いにきているから、顔だけは見知っている。
でも、どうしたのかな、今日はひとりみたい。
怪訝に思う紗耶の前で「誉くん」はまっすぐな手足をしゃきしゃき動かしながら近付いてくると、やおらリュックからさつまいもを取り出した。
「沢山とれたんだって。あげる」
いかにも子供らしい率直さで、遠野さんと城下青年へ押し付けるように渡す。
少年はそれから、紗耶にも同じようにさつまいもを差し出した。
差し出すというよりはむしろ、突き出すと行った方が適切な所作で。
「お芋、美味しいから、食べなよ」
じつに端的な説明である。
どうやら彼は、たくさん採れた「美味しいお芋」を配り歩いているようだ。
どうしよう。
すこしばかり面食らい、逡巡する。
黒々とした目で、じっとこちらを見る「誉くん」。ぴんと伸ばされた細い腕。
受け取ってもらえると、端から信じて疑わないらしい。
手を出しかねていると、少年は「ん」と言いながら紗耶の目の高さまでそれを持ち上げる。
こうなってしまってはもう、選択の余地はない。
「……ありがとう」
ひんやりとした感触。赤紫のそれは、存外、重い。
かろうじて笑顔をつくりながら受け取ると、少年はいかにも嬉しそうににかっと笑う。
その屈託のなさに、今度は紗耶の表情も自然とほころぶ。
かわいい、と思った。