第15話 韮川 誉 4 三つ目を
「先日の」
思ったより低い声は、彼女の黒髪が笑みにそっと携わるように揺れるのと、とても合う。
一つ分重さが残ると思ったリュックは、どうやら大丈夫そうだ。
差し出した先は目的の人物ではなかったが、それでも食べてほしいと、そう思う人だった。
「…お芋、食べる?」
含み笑った彼女に、その笑みの理由を知ることなく、ただ己の都合を押し付けるようにして芋を差し出す。
旅館にいた人。あの、床を擦った人。小学生の誉の仕草に、呆れる事もなく、同じ仕草で応えてくれた。
たったそれだけの事に感激したわけではない。ただあの時から、誉は彼女を認めている。
突然目の前にあらわれた、まだ土臭い赤紫に、女性の細い眦が心持ち開く。
けれども構いはしない。
「ん」
受け取って欲しいのだ。
それだけを告げるために、伸ばす腕。
「…どうもありがとう」
女性は受け取る。
あの古い床の音を知っている人は、変わらぬ表情で、芋の土衣を珍しそうに眺める。
残るは一つ。店内を探せば、すぐに見つかった。――目的の人物。
自分にとっては全く、不自然でないものだった。
喫茶店のお兄ちゃんには、クッキーのお返し。
本のお姉ちゃん――いつも窓際の席で、暮れの朱に背中を染めて本を読んでいるから、そう呼んでいる――には、とにもかくにも渡すつもりで。
少女とは、何度か顔を合わせた事はある。隣の席に座ったこともあった。
いつも行儀良く膝を閉じて、背筋をつ、と伸ばして、三つ編みにほつれはなく。
きちんと着込まれた制服に、母が行儀の良い娘さんだと、見かける度に誉めそやしたのを覚えている。
だから誉には記憶がある。時折、思い出したように何かをノートに書き込む仕草、彼女の手によく馴染む、薔薇の模様のついたノートも。
ゆえに、プロムナードといえばお兄ちゃんと、そして視界の片隅にそっとある、あの少女の輪郭が浮ぶのだ。
あげる気でいた。芋が三つ余って、プロムナードを思い浮かべた時から、少女の数は頭に入っていた。
親しいわけではないけれど、顔なじみ、ではあるはずだ。
もしかしたら向こうは誉を知らないかもしれない、それでも構わなかった。
「お芋、美味しいから、食べなよ」
おじいちゃんがくれたんだ。
伸ばした腕の先で芋の重さを支えながら、少女の瞳を、じっと見つめた。