第12話 城下 滋之 4 ひとつの出会い
紗耶さん。
彼女の事をそう呼ぶようになったのは、ごく最近の事だ。
何年か前までは『紗耶ちゃん』と、そう呼んでいた。
僕にとっては彼女を含めた十代の子達はとても幼い子どものように思えた。
けれど、僕の倍の齢を重ねた母は言う。
「高校生は、もう大人よ」
そうして僕に、彼女達を大人扱いして呼ぶように、言う。
些かの違和感を感じながらも僕は彼女達を大人のように名を呼ぶ。
『紗耶さん』と。そう呼ぶようになる。
その違和感はごく短い間のもの。
彼女達が高校から羽ばたいて行く頃には、すっかり慣れ親しんでいる。
毎年、この近辺でも年に何人かが僕の中で『大人』になる。
頭を撫でてあげていた子達は、僕と肩を並べるようになる。
別れの挨拶に振られた手が、やがて会釈になる。
母の言う通り、もう大人なのだ。
そう言う母は、彼女達を子どものように、『紗耶ちゃん』と呼んでいるのだけれど、それは母に言わせると母親だから、だそうだ。
「私にとっても、この辺りの子は子どものようなものだもの」
と言う理屈は、僕には良く分からない。
子を持てば分かると言われたけれど、母の勝手な理屈かも知れない。
少なくとも、母がこの辺りの子ども達をまるで自分の子どものように思い、そしてそう思っているのが母だけでは無い事は、事実だった。
大きな、家族のようなものだ。この一帯が。
差し詰め僕は、弟や妹達の成長に驚き、若干の心淋しさを抱く兄だろう。
大人になって行く子ども達にとって、この店は些か静か過ぎるかも知れない。
そのくらいの年頃は、音楽を好む。
光溢れる未来へと駆け抜ける為に、心躍らせる音楽を好む。
ここにあるのは静謐な時と音のみ。
好むのは、心を躍らせるよりも穏やかに保っていたい人だろう。
幼い頃は良く家族と姿を見せていた子達の足は、成長と共に遠退く。
何時か戻って来る時があるのかも知れないけれど、先の事を見通せるほど僕も長く生きている訳では無いから、ただ、淋しい。
紗耶さんが静謐な時と音を好む一人である事が、僕には嬉しかった。
彼女の為に紅茶を用意する。
出来ればこの店が彼女にとって、ずっと心安らげる場であるようにと願う。
彼女の足が、この店を好んでくれている大切な人の足が、遠退く事が無ければ良いと。
紅茶を淹れ、紗耶さんのテーブルへと運ぼうと、トレイに載せる。
彼女は何時ものお気に入りの席では無く、一つ置いた席へと着いていた。
お気に入りの席には、あの涼しげな観光客の女性がいる。
ふと視線を巡らせれば、二人は会話を交わしているようだった。
その事を、僕は意外に思った。
人見知りの紗耶ちゃん…いや、紗耶さんが。
――そうか、と直ぐに思い直す。彼女はもう子どもでは無いんだ。
「貴女の名前は、何と仰るのかしら」
観光客の女性が落ち着いた声で尋ねた。
じっと見つめる視線、それは押し付けがましくも、強過ぎる事も無く、紗耶さんへと向けられていた。
「奥本紗耶です」
紗耶さんが名を口にする。
人見知りの影はそこに無い。
「そう、奥本紗耶さん。私は遠野涼子と申します」
女性も紗耶さんの名前を反芻した後で、自ら名乗った。
僕はその一連の会話を、奇妙でさえある感覚に囚われながら聞いていた。
初対面だとか、人見知りだとか、そう言った事は関係無く。
ただ、同じものを好み、同じ空間を共有する二人が邂逅した、それだけの事なのだろう。
窓の外が見えるその席を間にする二人が。
未だ確信には至らない思いを、僕は腑に落ちた思いと共に抱く。
はっきりと分からなくても良い。
筋道など無くても良い。
嬉しいと、ただ思う。
僕が特に何をした、と言う訳でも無いのだけれど。
自然と浮かぶ微笑を、そのままに。
「…奥本さんは、このお店にはよくいらっしゃるの?」
僕が紗耶さんに紅茶を運んで行った時、観光客の女性――遠野さん、とさっき言った――が紗耶さんにそう尋ねた。
答えを先んじるのは悪いかな、と思ったけれど、僕はつい、言った。
「そうです。良く来てくれるんですよ」
微笑んで答えながら、僕はお客様と、紗耶さんの顔を見比べた。
紗耶さんの月明かりの下のような顔に、ほんの僅かな戸惑いが浮かんだのを見た。
遠野涼子さん、と言う名の、何と言う偶然だろう、まさに名前の通りに涼しげな容貌のお客様は、僕の回答にちらと微笑んだ。
瞳が瞠られ、紗耶さんを見る。
「それじゃ、常連さんでいらっしゃるのね」
「ええ」
僕に問われたのでは無いにも拘わらず、僕は答えながら、紗耶さんのテーブルに紅茶を置く。
何故だろうか、誇りたい気分にさえなりながら。
会釈をした紗耶さんが、続いて答えた。
「そうなんです」
はっきりと答えた後で、紅茶のカップに小さな手を伸ばす。
暖を求めるように。
僕は教えようかどうか迷っている事があって。
それを言えば気を遣われるだろう、と分かっていたけれど、しかしどうしても言わずにはいられなかった。
だから遠野さんにそれを教えた。
「貴女の座られている席、紗耶さんもお気に入りの場所なんですよ」
僕の言葉に、遠野さんよりも紗耶さんの方が、勢い良く顔を上げた。
どうしてそんな事を言うのだろう、と些か怪訝な顔になる。
遠野さんが紗耶さんを見、やがて二人の視線が交ざる。
「そう…でしたの?」
小首を傾げた遠野さんが気遣わしげな顔になる前に、僕は続けた。
「お客様。
貴女はこの店に入られて、直ぐにこちらの席に着かれましたよね?
まるでお気に入りの場所をご存じであるかのように、迷いが無かった」
律動的なあの歩き方が、まだ目に浮かぶ。
「そのお姿を拝見した時、思ったんです。
紗耶さんが好きな場所と同じ席をお選びになられた、
貴女と紗耶さんは、きっと同じ眼を、お持ちなのだろうな、と」
或いは、感性と呼べるのかも知れない。
同じ感性。
同じ眼。
遠野さんにとってはたった一度かも知れない、偶然かも知れないけれど。
この席を選んでくださった、と言う事が。
「紗耶さんの物を見る眼、僕は好きなんです」
何処か、寄る辺無い子どものような目をした彼女を見下ろし、僕はそう告げた。
それから、遠野さんへと視線を戻す。
「貴女も紗耶さんのように、
この店にいる時間を楽しんでくだされば、
それは僕にとっても何よりの幸いです」
会釈をしてから、僕はもう一度微笑んだ。