第110話 遠野 涼子 37 遠い羽生の街 (完)
その日は、朝には曇っていたが、徐々に晴れた。
昨日は見事な月だった、やはり晴れるべくして晴れたものだろう、古人の知恵。
この一週間、歩き慣れた石畳を遠野は歩く。
いつもは城の方向へ、或いは街中へふらりと足が向くものだったが、今日は駅に向かっている。
遠野は今日、羽生を出立する。
急ぐでもない、決して惜しむでもない速さで、小気味良い靴音が石畳に響く。
駅に着くと、到着したときには気付かなかった、あまり上手とはいえないレイアウトの、もみじの写真ばかりが美しい「秋の紅葉フェスタ」のポスターが、確かに掲示板に貼られていた。
羽生は美しい。
駅すらのどかで、木作りのベンチは古びてこそいるもののきれいに拭き清められ、大切に扱われていることが分かる。
駅前に立って、遠野はもう一度ロータリーを見回した。
ロータリーと言えるほどの立派さであるかどうかはともあれ、丈の高い建物の少ないこの街は、遠くに山城を望み、日々それを眺めて暮らす。
起きてまず城に挨拶する、青年から聞いたような気がした。
遠野は、城の見える風景を眺め渡すと、黙って駅の構内に入った。
列車の時刻まで、後いくばくもない。
羽生から、遠野の住む町までの列車は、さほど本数が通っているわけではないのだ。
遠野は、日常に帰る。
射してきた日に暖められたベンチに座ると、遠野は、また読みさしの文庫本を取り出した。
あまり上手とはいえない瓦が描かれた絵葉書。
そして、もうひとつ、懐かしい葉脈のしおり。
遠野は少しだけ考えると、本から絵葉書を抜き出し、しおりだけを残す。
絵葉書は、バッグの中に、そ、と仕舞い込まれた。
電車が来るまでの間、遠野は本を広げていた。
やがて、がたんごとんという音がする。
遠野は、そちらにわずかに目を上げると、ほんの数ページ先の読みさした合間に、丁寧にしおりを挟んだ。
がたん、とふるい音を立てて列車が止まる。
乗り込むと、長い7人座席が向かい合わせた懐かしい車両。
人の少ないその列車の、7人座席の真ん中に遠野は腰掛けた。
やがて動き出すまで、窓の向こうの山々の紅葉を見ている。
山の端に月が浮かべばさぞや綺麗だろう。
そう思って、夕べを思い出し、わずかに目を細める。
美しく、いとおしい風景。
この世ならぬものであるような、かそけき音。
遠野は、昨日宿に帰ってから、もう一度窓を開けてみた。
見事な月はやはり見事な月で。
縁側に出るとひどく冷えた、苔の色はやはり深く、月影に照らされた木々の下植えはまったき闇に融けている。
庭に下りようかと思ってやめておく。
苔を踏めばそれらが傷むだろう。
ただ。
白く高い月を見上げて、縁を、きゅ、と遠野は鳴らした。
一週間ほど前に聞いた音だ、それからまた月を見上げた。
…さすがに、造園技術の粋を集めたと言われる水琴窟の音は再現できない。
それでも月を見れば思い出すだろう、幼い日を、紅葉を、水琴窟を、すべてのいとおしい風景を。
月を見上げていたのは、時間にすればさほど長い時間ではなかった。
ほんのわずか、それだからこそ大切な時間。
がたんと揺れる列車の中で、遠野は組んでいた足を組みかえた。
遠野は日常へ、帰る。
一週間の休暇、一週間のえにし。
良い街だった。
絵葉書を送ってきた友人も、羽生のどこかしらが気に入ったに違いない。
遠野も羽生がとても気に入ったのだ。
会った人々とは、そういえば住所も聞かなかった。
まあ、いい、とも思った。
己が筆まめに手紙を書くような人物ではないのは、一番に自覚がある。
だがなによりも、えにしある人々に必要なのはそんなものではないという思いがあるからでもある。
人は引き寄せられる。
運命などという単語は信じていないが、人は引き寄せられる。
時に。
土地に。
人に。
不思議なめぐり合わせに、何故あの時あんなことをしたのだろうと思わず思ってしまうことすら、後から合点が行くこともある。
忙しいこの時期に、一週間の休暇を取った。
素人の書いた絵葉書一枚で、瓦が見つかるとは思わなかった。
古い古い瓦を見たところでなんになるのかと、そういう話もあるのかもしれない。
だがそのような気分で、そのように動き回って、そのように見つかる。
それそのものが、不思議なめぐり合わせというものだったのだろう。
思えば、羽生にいる間は自分らしくないことも多々していた。
人見知りは持ち合わせていないが、人の好き嫌いはそれなりに激しい方だ。
見知らぬ少年少女と街を探索して回るなど、普段の自分ではなかなか考えにくい。
…或いは、普段こそがいつも慣れた街で見知らぬ人と親しくなりにくいのかもしれないが。
いずれにせよ、穏やかで美しい羽生の街。
そこに住む、いとおしい人々。
そう。
…とても、いとおしいわ。
声には出さず、心の中だけで呟く。
忙しく慌しい日常にささくれ立った気分に、千年の時と、白い月、透き通った蜻蛉の羽をそっと抱いて、遠野は目をつぶった。
ひと眠りすれば、そこが遠野の街だろう。
慌しく忙しく、成長し活気にあふれた街。
けれど、どこか羽生のような穏やかさを持ち合わせる。
羽生が懐かしいのは、遠野の記憶にある街角によく似ているからなのだろう。
出会う、見知らぬ、懐かしい人々。
あれもえにしだろう。
いつか、引き寄せられる。
縁があればまた会うだろう。
羽生にせよ、どこであるにせよ。
人は引き寄せられる、出会いには時があり、そして月の満ち欠けのようにひいては寄せる。
出会いも、旅も、おそらくはやはり自分には必要だったのだ。
目を閉じると、列車の規則的な振動がゆるやかに眠りを誘う。
羽生は既に過ぎた。
だが、遠野は羽生を覚えているだろう。
そしてまた出会うだろう。
懐かしい街と。
懐かしい人と。
どこかで。
いまは城と紅葉と、月の白さだけを覚えていれば十分だと思う。
別れはすべての終わりではない。
遠い羽生の街に、またいつか人が出会う。
それが再び紅葉の季節であるか、それは今は分からないことだとしても。
了