第11話 遠野 涼子 4 あらたなる客
どうやら、何か間違ったらしいわ。
遠野はそう思ったが、特に何を繕うでもなく、事態を静観した。
面白がっているのは青年よりどうやら年配の女性で、彼が店の主人と間違われたことをむしろ喜んでいるように見えた。
「マスターと呼んで頂けるなんて儲け物じゃないの。
ほら、きちんとお礼を申し上げなさい。」
少し困った様子に見えた青年をわきに置いて、軽やかな足取りで、女性が前に出てくる。
「ありがとうございます。
当店のマスター、城下滋之と、その母でございます。
滞在中はどうぞご贔屓に。」
それで謎が解けた。
女性は、彼の息子が店主に間違われたことを、むしろ誇らしく思っているのだろう。
いずれは店主になるだろう青年は、控えめな口調で事実を正す。
「あの、僕はまだマスターではありませんので…。」
遠野は、彼ら親子を見つめる。
知らず、口元に笑みが浮かぶ。
他にどうしようもない。
「良く分かりました、マスター。」
軽やかに告げられた言葉に、青年は、まだ少しだけ困ったような、はにかんだような笑みで答え、女性は満面の笑みを浮かべていた。
いずれ、彼の呼び名は、遠野の中では決定だ。
真偽はさておいて、遠野が羽生滞在中、彼女に青年は「マスター」と呼ばれることだろう。
彼らは目線で笑った後、店の仕事に戻っていった。
遠野は、パイと、お茶の香りを楽しむ。
窓の外には落葉樹が見えて、また一葉はらりと落ちた。
彼女は、ティーカップをソーサーに戻すと、頬杖をついて落葉の行方を視線で追った。
やがて、しばらくそうしていると、りん、とまた鈴の音が鳴った。
反射的に、誰が来たのだろうと振り返る。
詮索するようなつもりではなかったが、物音がすれば振り返る。
なんと話のその行動だったが、振り向いた先にいたのが一人の女子高生だったのが、彼女の興味を惹いた。
遠野が振り向いて視線を向けたことで、彼女は竦んでしまったのだろうか。
入り口で立ち尽くす彼女に、気付いて遠野はに笑みを向けた。
決して驚かすつもりではなかったのだ。
「いらっしゃいませ、紗耶さん。」
脇から、先ほどの青年の声がかかる。
名を知っていると言うことは、少女はこの店によく立ち寄る客なのだろう。
そのことが、興味深いと思った。
この年頃の女の子が、そもそも一人で飲食店に立ち寄るものなのだろうか。
少女は、少し引っ込み思案にも見えて、喫茶店で一人でお茶を決め込むといった風にも見えなかった。
だが、この店には、その彼女をも優しく包む雰囲気が確かにある。
遠野は青年を早速
「マスター。」
と呼び、紅茶のお代わりを注文する。
青年が少女の注文を聞いている、頼んだのはセイロンのミルクティー、自分が予想以上に少女を気に懸けていることに気付いて、遠野はもう一度少女に視線を向けた。
少女は、鞄からノートとペン、そして何かの本を取り出す。
その題名が垣間見えて、とうとう彼女は好奇心を抑えきれなくなった。
「何を読んでいらっしゃるの。」
遠野の声に、少女が顔を上げた。
「赤ちゃんの、名づけ辞典?」
少女が、早すぎる赤ちゃんを産むようにも見えない。
と、すれば身内の誰かに子供が産まれたのだろうか。
学校指定らしい制服はきちんと着こなされて、着崩した様子もない。
一体少女は、何故それを読んでいるのだろう。
彼女は、はにかんだ様子で頷くと、その本を閉じた。
「何方かに赤ちゃんが生まれたんですか。」
「いえ、違います。」
少女の受け答えははっきりしていて、聞き取りやすかった。
いっそ驚きに蚊の鳴くような声しか出ないだろうかと心配していたが、少女の発音は明瞭で、遠野はそれが気に入った。
「貴女の名前は、何と仰るのかしら。」
名は知っている、さや、だ。
青年が先ほどそう言っていた。
けれど、人が人に名乗ることには大切な意味がある、それが挨拶というものだ。
あなたとおはなしがしたいのだ、その意味が、彼女には伝わっただろうか。
「奥本紗耶です。」
「そう、奥本紗耶さん。私は遠野涼子と申します。」
遠野は、少女に自分の名を告げた。
少女は、遠野の名を聞いて、微かに笑った。
何かいいことを聞いたというような、そう言ったあえかな笑い。
遠野は続けて彼女に話しかけた。
馴れ馴れしくしたいわけではなかったが、その少女が、とても興味深いと思ったからだ。
その時、少女に、セイロンのミルクティーが運ばれてきた。
「…奥本さんは、このお店にはよくいらっしゃるの?」
穏やかに、遠野は問うた。