第109話 奥本 紗耶 21 やわらかな祈り
低く垂れこめていた鈍色の雲も、秋の風に吹き散らされて、
午後になると羽生の上空にはすがすがしい青空がひろがった。
刷毛ではいたような巻雲が、空の彼方をすうっと長く横切っている。
霜月も下旬の風はつめたく、竹箒を持つ紗耶の白い指先がかじかむ。
五時間目の授業は「労作」だった。
一般に耳なれないこの教科は、農作物を育てたり植物の世話をするもので、カソリック系のミッションスクールではときどき取り入れられるものらしく、いわゆる総合的な学習の先駆として学校の売りのひとつになっている。
すこし前はみんなで育てたサツマイモを収穫したり、裏の山に入って焚き木を拾ったり、焚き木をたばねる縄をなったりしたものだが――そして最終的には焼きいもをする、どこまでも自給自足だ――一連の作業が終わったいまとなっては、構内の落葉掃除くらいしかやることがない。
構内清掃はほかの仕事が思いうかばなかったときに、シスターがつかう常套手段だった。
紗耶は労作の授業が好きだ。
教室であじけない教科書を読んでいるより、よほど気持ちが良いと思う。
毎朝、生徒たちが眠い目をこすりながらのぼってくる、校舎前の坂道。
その両脇は桜並木が続いていて、落葉がことに多い。
つかいなれぬ竹箒を動かし、紗耶は友人の真由子と一緒に黄や茶に色づいた葉をていねいに集める。
前庭の噴水のあたりから、クラスメイトたちの笑い声が聞こえる。
労作の授業は往々にしてなごやかな雰囲気ですすみ、よほど羽目をはずさないかぎりは、シスターもなにも言わない。
生徒たちはわりあいに素直な子が多かったから、やるべき仕事をおろそかにしてまで騒ぐこともなかった。
午後の日差しがやわらかい。
聖堂前にたたずむ象牙色の聖母像、その静謐な祈り。
はなやかで清楚なコスモスが、そばの花壇で風にゆれる。
この学校の制服のすこし変わっている紺色も、「マリアさまの色」の青からきているのだと、むかし、シスターが言っていた。
シスターのなかにも、善いシスターと悪いシスターがいる。
情状酌量の余地もなしに、ただ規則だけを押しつけて、生徒たちをがんじがらめにするのは、「悪いシスター」。
そして、労作を担当してくれているシスターは紗耶たちにとって「善いシスター」で、この人の話はときにとても印象深い。
絵画や映画に描かれるマリアさまは、いつもきれいな手をしていますね。
白魚のような、ほっそりとした、なめらかな手です。
けれどもほんとうのマリアさまは、きっと荒れた手をしてらしたのではないかと、私は思うのです――。
いったいなんの機会だったろう、シスターは静かにそう語った。
手が荒れる苦しい仕事をも厭わない、奉仕と博愛の精神。
紗耶はシスターの話を思い出しながら聖母像をながめてみたけれど、
そっと合わせられた白い手は、やはりとてもうつくしい。
「紗耶。これ、集めちゃって良い?」
真由子がちりとりを片手に、落葉の山を指す。
ぼんやりしていた紗耶はわれにかえり、「うん」と軽くうなずいた。
ちりとりにのせた枯葉をこぼさぬよう、真由子が慎重な足どりでごみ箱の方へ行ってしまうと、紗耶はひとつ息をつき、遠い空をながめる。
うすぎぬに似た白い雲が、山の彼方をおおっている。
――もう、帰っちゃったかな……。
帰ってしまったに決まっている。昼もとうに過ぎたのだ。
遠い街からきた旅の人。一週間だけの滞在者。
彼女をとおして幾人かの人たちと親しく接した日々。
しんと透きとおった明るい日の光のもとでは、昨夜のお月見など夢のなかのできごとのよう。
茶室で拾った紅葉を紗耶はひみつノートにはさんでいるけれど、それだけがただ、ささやかな交流を現実だと知らしめるよすがだった。
木枯らしが吹き、並木の枝がざわざわと震える。
いま掃いたばかりの坂道に、ふたたび枯葉が降ってくる。
ごみ棄てから帰ってきた真由子が、「掃除したばっかりなのに」と憤慨し、ぷりぷりしながらせわしく桜の葉を集めると、ごみ箱の方へ戻っていった。
そんな友人をからかうように、葉は掃いた先から音もなく散る。
風が吹きやまないかぎりはいたちごっこだ。
あきらめた紗耶は箒を動かす手を休め、葉が落ちるに任せた。
昨夜、月明かりに照らされた彼女が、おだやかにつぶやいたひとこと。
冴えた夜気へ淡雪のようにとけた声が、いまも耳の奥に残っている。
――とても、いとおしいわ。
なにがいとおしいのか紗耶に知るすべはなかったけれど、月を見上げる彼女の瞳は湖のように深く静かで、大切なものを内にそっと抱いているようだった。
住所の交換もしなかった。手紙を書きますとも言わなかった。
どんな職業かも聞かなかったし、どんな毎日を過ごしているかも知らない。
知っているのはただ、彼女の名前と、チェロのような声で話すこと、
それからあの古い瓦を見に秋の羽生を訪れたことだけだ。
再会をすなおに信じられるほど、紗耶は幼くはない。
それでも彼女と過ごした一週間を、紗耶は忘れないだろう。
同じ季節がめぐりくるごとに、喫茶店の指定席から木々の色づきを目にするたびに、ひっそりと思い出すのだろう。
秋の長夜にひとり、お気に入りの本のページをくるように、この数日間のさまざまな記憶を。
少女が住むこの街のなつかしい風景とともに。
そして願うのだ、また会えますように――と。
かすかな風が首すじをなで、おくれ毛をやさしくゆらす。
いつもどおりきちんと清潔に編まれた髪は、人前でほどいたことなどただの一度もないようだ。
無防備なうなじへ何の気なしに手をやって、指先のつめたさに驚く。
あわてて手をひっこめながら、昨夜のできごとを思い出して笑った。
……彼女もつめたくてびっくりしたかな。
学校が終わったら、喫茶店に寄ろう。
あたたかい紅茶を飲んで、青年とすこしだけ話そう。
もしかしたら、元気な小学生の姿を見ることもできるかもしれない。
そう、紗耶は一週間前にくらべて、ほんのすこし交友範囲も広がったのだ。
背後では真由子が、「掃いても掃いてもきりがない」と大仰なため息をついている。
真由子にだってひみつにしておこう、この数日間のできごとは。
涼やかな目元の、横顔のきれいな人のことは。
紗耶は黒い目をまたたかせ、眼下にひろがる羽生の街のむこう、山々の稜線のさらに先を見はるかす。
彼女が帰っていったかもしれない、その遠い方向を。
「涼子さん……て、呼びそこねちゃったな」
どこか頼りなげな少女のちいさなつぶやきは、晩秋の風に吹き散らされ、空の彼方に消えた。