第108話 韮川 誉 31 秋の日の決意と再会
ふと目を覚ますとあたりがいつもより薄暗い。
時計はまだ五時を示したところで当然明やらぬ空だが、それでもこの時期は晴れていれば控えめながらのばら色が、窓から望める時分だった。
なのに今日は窓の外にはほのかな曙光の兆しに代わり、黒々とした闇がわだかまっている。
畳に敷いた布団から半身を起せば、夜の間冷やされた空気が寝巻きの袖や襟口から侵入し、起きぬけの体を無理やり目覚めさせた。
しかし構わず布団をのけて窓を覗く。
街灯が人気ない道を照らし、なにものも見当たらない。
いつもなら何もせずとも暁に染まっていく家瓦も、闇に食われてどの家の瓦だか見分けがつかない。
曇ってる。
昨日、あんなにきれいな月夜だったのに。
それでなくても涼子さんの旅立ちの日なのに。
誉は窓ガラスに小さな額をあてる。
息を零すと、窓の外が一瞬白くかすんで、冷えたガラスが湿り気を帯びた。
鼻の頭が冷たい。
朝食はいつもの通り昨夜の残りに、油揚げとなす、ごぼうの味噌汁、鮭と白飯、それと誉の甘い沢庵、おじいちゃんの渋い沢庵。
母は既に清流荘へと出ていて、おじいちゃんと二人もくもくと飯をかっこむ。
誉は昨夜始終むっつりして、細い手足を持て余すように炬燵でうだうだ、ごろごろしていたので、その変調をおじいちゃんも既に知っている。
けれど彼は別段気にもとめていないのか、食べ終わると早々と自分の食器を引っさげて台所へと消えていった。
誉も誉で昨日の不機嫌さはどこへやら、しっかり身支度も整え、朝食を摂るその背筋は不自然なほどにまっすぐ伸びている。
祖父のいない隙にと誉がチャンネルへと伸ばした腕を、見もしないで相手は「変えるなよ」とすかさず釘を刺す。
もう食べ終わったんだからいいじゃん、という誉と、お前の学校、ちと始まるの遅いんじゃないか。
そう、孫にいつまでもいられるのを迷惑そうに振り向くおじいちゃん。いつもの羽生の朝。
「いってきまーぁす」
草臥れた通勤鞄。
傷んだ皮の表面はてらてらしている部分と磨耗しきってぼそぼそになった部分と、誉の足に負けないくらいの擦り傷を負っている。
誰もが見て一度は眉をひそめる具合のその鞄をともに、今日も誉は学校へ行く。
薄く空を覆っていた雲はしかし、雨の心配はなさそうだ。
申し訳程度のうす雲で、陽の光が雲を透かして白く流れ込む。この分なら午前中にでも晴れるだろう。
荒涼とした畑にそれは寒々しい色を与えたが、竜の道もすっかり冬らしくなり始めて、どんすけが犬小屋の奥に篭る日もそう遠くないのが分かった。
「どーんすけ」
どんすけの飼い主を見たことは殆どない。
確かこの家にはおじいさんが住んでいるはずだが、誉のおじいちゃんよりも年上で、雪のような白髪を生やしていると聞く。
そのくせ誉が毎朝毎夕通っても一度として顔を拝んだことはなく、町内清掃や事あるごとの催しでも姿をあらわさない。
家も持ち主に合わせて小さく、切妻屋根を覆う葉、錆ついた、万年締まっている雨戸、久しく使われていない庭の水道はすっかり枯れあがり、いつでもひっそりと、頑なに人を寄せ付けない風采がある。
新聞だけは毎日抜き取られているからいるにはいるのだろうが、これがたまに家主が家を空けて数日分、郵便受けに突っ込まれたままになっていると、まさかまさかと近所の人たちが浮き足立つ。
それもある日ごっそり抜き取られて空になっているから事なきを得るのだが、だから憚りもなく口さがない誉達、子供等の間では、生きているのか死んでいるのか分からない、と玄関前でもって噂されるのも、当然といえば当然の話だった。
どんすけは相変わらず、犬小屋から情けなく半身を出して寝そべっていた。
その頭には隣の柿の木の葉が落ち、クリーム色の水入れには僅かに砂が溜まっている。
どんすけは呼んでも目を覚まさず、誉が石段をあがって腕をそっと伸ばす頃、ようやく重たげに、声というよりは近づいてきた気配に、片目をあけた。
「どんすけ、お前、もうちょっとこっちに寝てよ。結構こっちも疲れるんだぜ」
そう言うのは、誉が石段以上にはこの家に入れないからだ。
石段はたった二つで、それも門を区切りに終わる。厳密に言えば勿論この石段もこの家の領域に入るのだろうが、誉は勝手に門より外は不法侵入可能にしている。そうでもしないとどんすけに手が届かないのだ。
けれどもいくら子供のずうずうしさがあっても、門より内はやはり区切られ、勝手に踏み入るのは躊躇われた。
ここのおじいさんが全く姿を見せないのは重々承知していたが――それでもそこまで無法にふるまえるほど、厚顔に育ってはいないのだ。
石段に腰掛け、体をできうるだけ伸ばす。
とりあえず足を踏み入れなければいいだけの話で、この場合腰から上はセーフになる。ドッチボールの顔面無効と同じ。
それにこれなら万が一見咎められ叱られそうになっても、素早く立ち上がって逃げることができるのだ。
どんすけの毛の短い、狭い額をなでる。
そのまま、いつもの通りの行動を誰か見ていてくれやしないかとあたりを見回し、近所の中学生と通りを掃きにおばさんが箒を持って出てくるのに気を良くした。
そうしてその姿を印象つけるよう、いつもより若干長く撫で、頃合を見計らって立ち上がる。
「じゃあね」
彼らが聞きとがめやすいように、声を大きくして言う。
どんすけは全く構わずぱったり瞳を閉じ、また己の夢を追いに沈んでいった。
誉は確かに途中まで、羽生小学校への道を辿った。
しかし高台にある小学校の、平たい屋上が見えてきたところで――途端にちらちらとあたりを見回し、人がいないのを確かめるとすかさず体を左に折った。
そのまま雑木林に入り込み、学校をぐるりと周るとあの校舎裏の、禁じられた階段の下に出る。
誉の通勤鞄が幾度となくフェンスの上から放り投げられ、その都度傷を負っていった階段。
放課後の夕映がこれ以上なく美しいところ。
そのたもとで、ゆっくり湾曲した道には家並みが始まって、それを右に行くとこのまま家に帰れるのだが――道路に書かれた「止まれ」の文字を踏みしめながら誉が目指したのは、駅へと向かう真っ直ぐの太い道だった。
この日、誉には人にはそうと言えない企みがあったのだ――それは、涼子さんの見送り。
不審を誘わぬよう途中まではいつもの通学路を辿り、その様を近所の人にも印象づける。
一昨年、初めてさぼった時にはなかった技巧だ。あれはただふらふらと、なんの欲求も目的もなく行った放浪にすぎない。
けれど今回はそうではない。かねてより(というか昨日の夜更け、夜気がしんしんと舞い降りる中、冷えた指先に息をからめてこすりながら)計画された、気まぐれでない、れっきとした計画的犯行だった。
勿論どんなに装ったって所詮ばれてしまえば結果は同じだが、こうした粗末な計略は誉にとっての意思表明だ。
これはちょっとした、不良めいた行為だし、自分にはその認識もある。それを踏まえて行うのが大事で、これは世の中に対する小さな、小さな反抗だ。
大通りをちょっと行ってそのままわき道に身を滑りこませる。
大抵の通学者が表通りを選ぶ中、そうすれば目につかずにすんだ。
新しくも古くもない家並み、適当な処理の垣間見える垣根の列。それをいくたりも通り過ぎる。
犬が誉の後を追って庭をかけてくる音や、遅い朝餉のにおい。それだけで、曇りの日の羽生は静かだ。
玄関脇の蜘蛛の巣がこれでもかとはった植木には、小さな家主が辛抱強く、餌のかかるのを待っている。
しかし誉はそんなにゆっくりしていられない。涼子さんが何時の電車に乗るか知らないからだ。
母親に問うてもそこまでは、と首を振るし、かくなる上は待ち伏せしかない。
大通りを走る車の音が家に隔てられてきこえる。
学校から遠ざかる道は既にいつもの日常とは違って、誉がこんなに決意に身を固めていなければ、心許なさと緊張と、それをを上回る自由への興奮とで、挙動不審になってもっと人目をひいていたかもしれない。
けれど彼は黙々と歩きつづけ、どこにも悪びれた様子がないので、幸運なことにそういった事態にはならなかった。
自分は昨日、きちんとお別れを言えなかった(あれは涼子さんが悪いにしても)。
自分も楽しかったよと伝えることができなかった(涼子さんが踵を返すのが素早いにしても)。
ただ呆けて、立ち去る涼子さんの後姿を眺めていただけだ(やっぱり涼子さんが素っ気無さ過ぎるんだ)。
大人というのは性質が悪くて、子供をいくら置いてけぼりにしようが歯牙にもかけない。
そうした事に誉がどれくらい辟易してるか(どれくらい多くの子供が落胆でなく辟易しているか)、世の中に示してやるのだ。
ただなんとなくさぼるのでなく、真っ向からさぼってやる。
そうして驚く涼子さんに、「さようなら」と告げてやろう――自分には再会を信じられる手立てがなく、お兄ちゃんがああも人の縁を信じられるのは何故なのか。涼子さんもどこまで信じているの――それを問う為に。
けれどその企みは果たされることはなかった。
次の角を曲がれば線路が見えて、その先に駅がある――そう足を早めた瞬間、その角を曲がってきた姿があった。
誉の足が途端に止まる。瞳がしばたかれる間もなく、大きく、大きく見開かれる。
そこにあるのは本来、ないはずの姿だったから。
色づいたイチョウの葉の鮮やかな黄色、駅からアナウンスが風に乗って流れてくる。
もうすぐ来るはずの電車に急がなければならないはずの誉の足は、しかしその場に留まったままだ。
足許にうずくまった落ち葉。帰ってきたの、と言いそうになる。
この街に。
代わりに口をついて出たのは、
「校長先生」
その一言だった。
目の前の好々爺は暫く誉の存在に気づかなかったものの、秋風が梢を揺らしたのに顔をあげ、その時通勤鞄を持った小学生にも目をとめた。
随分と髪が後退して、額が大きく広がっている。自然に微笑んだ顔は、去年と全く変わりない。
「これはこれは、韮川君」
校長先生はちょっと歩みを止めて、静かに言う。
「久し振りですね」
去年、校長先生は他の学校に赴任なさった。
誉はこの校長先生を好いていたが転校して以来、ちらとも噂を聞く事なく、その顔も声も記憶の薄らぎに侵されていた。
けれどこうして再びまみえると、いとも鮮明に蘇る。焼き芋を提案したのは校長先生で、その思い出を大切に抱えていた誉が提案したのも、やっぱり焼き芋だった。
「どうしたのです、こんなところで」
校長先生は問う。血色の良い、深く思いやりのある皺がたくさん走っている丸い顔。
「校長先生もどうしたの」
誉はようやくその親しみの篭った笑顔の下へ歩いて、その時はっとして己の通勤鞄をそれとなく後ろへやった。
校長先生の老いによってか元からか、端の緩んだ眼はそれを見咎め、彼はゆっくりと誉の顔を見回すと質問に答えた。
「今日は以前にいた学校を訪問して、今の校長先生がどのようにやってらっしゃるか、困ったことはないか、そして皆さんがどのように生活されているのか、観させて頂く日なのです」
「そんなのがあるんですね」
「そう、そんなのがあるのです」
二人ともおかしそうに目を合わせる。
久しぶりですね。校長先生が添えた。
「久しぶりです」
「元気そうで良かった。韮川君は相変わらず、探検をしているのですか」
「たまに」
ほぼ毎日のくせして、なんとなく気恥ずかしく、隠してしまう。
うんうんと校長先生は満足そうに頷いて、そのまま一歩先んじた。
「羽生の街は、いつ訪れても季節深い。ついつい、どこまでも足を伸ばしてみたくなりますね」
誉がこの時間にどうしてこんな所にいるのか、問い詰めるそぶりもなくまびさしを作って曇天を眺める。曇りというには雲は大分薄く、ところどころに青の色が透け始めている。羽生の青空。
半歩進んだ状態で、彼は僅かに後ろを振り向いた。
「韮川君、一緒に学校へ行きましょうか」
しかし誉は僅かに体を強張らせる。
「どうしました、韮川君?」
二歩目を刻もうとした校長先生が、賛同の返事のない元生徒を振りかえる。
「私と一緒に学校へ行きませんか?」
誉は黙っている。
校長先生は促すように誉を見つめていたが、それから声をやわらかに、責めさいなむ様子と全く遠いところから尋ねてみせた。
「学校へ行きたくない理由が、あるのですか?」
そう訊ねる口調に厳しいものは何もない。
むしろ常よりもゆったりして、後ろに組んだ手は暖かそうな桃色で、眼は年経た大らかさに纏われている。
そう眺められると隠すのは賢明でなく、また隠すには手遅れなほど相手が全てを見抜いているように思われて、誉は自分でも気づかぬうちに今日学校を振りきってここまできてしまった理由を静かに、拙く話し出した。
出会いの始まり。
蛙祭。
校長先生を真似て焼き芋をしたこと。あんなに悩んだ、宿題のこと。とんぼのような涼子さんの名前。
お兄ちゃんのおばあちゃんのお墓参り。
そして、涼子さんの探し物が、とうとう見つかった事。
たった一週間の滞在。つい昨日目の前から、颯爽と去ってしまった涼子さん。
「ついついで、ここまで来たんじゃないんです。涼子さんがどうしてあんなにすぐ行っちゃったのか、お兄ちゃんはどうしてあっさり見送れちゃうのか。ちっとも寂しくないみたいで、これで終わっちゃうなんて、寂しい」
そう話し終えて、少なからず学校をさぼろうとしたことに対しての叱責を受けるかと不安な面持で顔をあげたが、校長先生はそれには全く頓着しないようだった。
いつの間にかそらした顔を、学校へ続く道へと向けている。
「私はね、今日の日を楽しみにしていました」
静かな声。
「去年皆さんとお別れしてから、新しい土地、新しい学校で一年過ごしました。あそこはなかなか良いところで、生徒さんも良い子達ばかりです。けれどそれでも私の心は羽生に、どこか残っているところがありました」
不思議な面持で見つめている誉に、ゆっくりと顔を戻す。
「焼き芋祭りを覚えていますか。全校生徒皆さんで焼いた芋を、あの味を私は今でも思い出すことができる。夏のプールの君達の声、音楽教室から流れてくるリコーダー、お昼休みのドッチボールの歓声。全部覚えていますよ。あなた達の一日一日を。それはとてもいとしいものだった、だからとても戻ってくるのが楽しみだった」
「そういうものなのです。いとおしいものには、また会いたくなる。どんなに隔てられていても、距離は関係ないでしょう。だから私と同じように、その方もまた、戻ってくるかもしれない」
「例えもし戻ってこなくても――思いを馳せる場所、というのが人には必ずある。ここで結ばれたあなた方とその方の縁は、羽生という地を繋ぐものだ。思い出してくれるでしょう、そして、いとおしんでくれるでしょう。その方は羽生を忘れません。だって、韮川君が案内してくれた羽生なんですから」
韮川君達の縁は、これで切れません。
一陣の風が吹き抜けて、秋の手が誉の頬や額を撫でる。
吹かれた短い前髪がはらはら散って、それが元の場所へ戻る頃、誉の開かれた瞳が少しずつ、落ち着いてきた。
「良い出会いでしたね」
校長先生の言葉に頷く。
「お見送りに行きますか?」
首を振る。
「ううん、いいです」
お兄ちゃんの言った言葉が、やっとわかった気がした。
またの縁を信じるくらいの一週間だった。そうとも、瓦だけには終わらない、そういった縁がそこにはあったはずだ。
とても楽しかったといった涼子さん。
「お見送りするのは、また今度、涼子さんがこの街に来た時にとっておきます」
これで最後だと確かめるために見送らなくても、まだ自分達は繋がっている。
須臾の間の縁は、これからも。
そうですか、と校長先生は満足そうに笑った。
誉が追いつくと、それに合わせて歩き出す。向かうは勿論懐かしの学び舎と、今なおそこに席を置く教室だ。
秋風が走り抜け、散らされた雲がたちまち薄まっていく。
切れ切れとなった合間に想像した通り美しい青空が覗いて、川のようだったそれは、もう一時間もすれば海のように空一面に広がるだろう。
その移ろいゆく空模様の下を、校長先生と歩いていく。
駅からは列車が発車して、ゆっくりと枕木を乗り越える音が聞こえてきた。
空が晴れゆく。
一昨年の、ちょうどこの時期学校をさぼった日に、再び韮川誉は遅刻する。