第107話 遠野 涼子 36 ゆるやかな記憶
白い月の光。
見上げていると、隣で少女が立ち上がる気配がした。
「どうしましたか。」
遠野は問う。
ふ、と少女が遠野の手を掴んだ。
ひやりと、冷えた気配がした。
驚いた。
そうは見えなくとも、とても、驚いたのだ。
一瞬の後、少女は戸惑ったように手を離す。
「あの。」
少女の言葉はそこで途切れた。
遠野は黙って立ち上がる。
少女は、言葉ではなく、どこかへ彼女を導きたかったのだろう、この冴えた月以上に、何かがあるなら。
少女は先に立って、飛び石を辿る。
庭の片隅の石の鉢、本当はそれにも確か難しい名があるのだろう。
遠野はそれを思い出せず、少女がひしゃくを手に取るのを見ていた。
少女はひしゃくの水を、鉢の前の玉砂利にまいた。
何の意図があるのだろう、遠野が注視しているのにかまわず、少女は水を撒いたそのあたりをじっと見つめている。
こん、こん。ぽんぽん、ぽん。
しばらくして。
いや、時間にしてみればほどなく、という程度の時間ではあったのだが、土中から音が響いてくる。
話していれば気付かないほどの、ひそやかなかそけき音。
繰り返す反響音は、いつか聞いたような気にさせられる。
「水琴窟です。」
遠く響く水の音。
ああ、と遠野は思う。
そういったものがあることは知っていた。
聞くのは初めてだ、とも。
けれど、白く冴えた月の光、この遠いたまゆらの音に、遠い記憶に再び出会うようなそんな心持にさせられる。
少女が再び水を汲む。
揺れる水面、揺れる月、揺れる水面の紅葉。
遠いいつかの光景。
遠野は、羽生よりもずいぶんと大きな、人の多い街で育った。
その人の多い街の閑静な住宅街、夜の静けさに冬の月の光が渡る、そこが遠野の故郷だ。
今はずいぶんと夜の灯りも増えて、だんだんと夜の闇も少なくなっている、それはゆるやかな時間が流れている羽生とは対照的に、動きゆき育ち行く街の仕方のない側面で、遠野はそれを悪いことだと思っているわけではない。
ただ、それでも遠野は思い出すのだ、時折夜半に家を抜け出して冬の月を見に、近くの丘まで歩いた。
小高い丘の上から見下ろす遠い街の光、上に冴えた白い月、しんと凍てつく冬の冷たさに夜明けが近かった、息を潜めて風の音を聞いた、露が降りた茅から落ちた水滴の音は、どんな風に響いたろうか。
思えば、あれは今の誉少年ほどの年頃ではなかっただろうか、小学生の女の子が、夜分に家を抜け出すなど声高に語られた話ではない、だが、夜遊びをしていたわけでもない、ただ、あの時は、月が見たかっただけだ。
少女が落とした雫が、また下に落ちたのだろう。
こん、こん、と音がした。
遠く響く音は、かつて聞いた水音と同じではない、だが確かにそこにある、しかし遠い音。
夜に遠く響く。
少女が振り返った。
「ふしぎですか。」
遠野は物思いから醒める、小さなころ訪れた丘の風景と、この茶室は似てはいない。
同じであるものは、おそらく白い冴えた月だけだ。
だが、それでもどちらも美しかった。
「ふしぎですね。」
遠野は穏やかに応えを返す。
とても美しい。
そして。
似つかわしくない言葉かもしれないと思ったが、良い言葉が思いつかなかった。
「…とても、いとおしいわ。」
何もかも。
月も。
水琴窟も。
遠い丘の上の記憶も。
少女も、少年も。
羽生も。
何もかもが。
遠く高く、白い冴えた月が出ている。