第106話 奥本 紗耶 20 遠い世界の音
「とても、美しいわ」
感慨深げにつぶやかれた言葉は、淡い夢の気配をまとう。
遠野さんの切れ長の瞳は確かに月へ向けられていたけれど、本当はもっと別のところを見ているのかもしれない。
たとえば――彼女自身の内側なんかを。
どうやら遠野さんはこの場所を気に入ってくれたようだ。
紗耶はしばらく彼女のことをじっと見つめ、再び月へ視線を戻す。
それからすこし考えて、おもむろに腰をあげた。
「どうしましたか」
問われ、紗耶は一瞬だけためらった。
だが、思いきったように彼女の左手をとる。
たとえ親しい友人であろうと、紗耶は自分からは滅多に人へ触れない。
それは少女にとってある種の越境行為であり、いくばくかの禁忌をはらむ。
細い手首を頼りなくつかんだ指先に、じわりと伝わる体温。
紗耶は自分の指がひどく冷えていることに気がつき、あわてて手を放した。
白々とした月に照らされ、遠野さんが数度まばたきをする。
思いきった行為が失敗したときほど、ばつの悪いものはない。
気恥ずかしさに頬が染まる。
もっとも――月明かりのなかでは、それも見えなかっただろうけれど。
「あの」
なにか言おうとあせるほど頬が火照るのだから始末におえない。
このぶんでは、絶対に耳まで赤くなっていると思う。
彼女はしかし、説明せずとも少女の意を解したらしい。
濡れ縁からすっと立ちあがると、どこに行くのかと目で尋ねる。
紗耶はやっとほっとして、赤い顔のまま飛び石のうえを先導する。
暗くて良かった、と、夜の闇に心底感謝しながら。
紗耶がむかったのは、庭の隅におかれている蹲踞だった。
茶会のときに手を清めるための、水を張った石の鉢だ。
月がうつる黒々とした水面に、紅葉が押し花のように浮いている。
紗耶は脇にあったひしゃくで水をすくい、鉢の手前の玉砂利へまく。
意図をつかみかねたか、遠野さんがいぶかしげに眉をよせる。
少女はしかし、なにも言わない。
水をまいたあたりを、注意深く見守っている。
すると――ほどなくして、地中から鍾乳洞の水滴を思わせる微かな音が聞こえてきた。
こん、こん。ぽんぽん、ぽん。
ひかえめで涼しげな反響音。
ときおり青銅をたたくのにも似た高く澄んだ音色がまざる。
どこか遠い世界から届くようなそれに、遠野さんがわずかに目をみはった。
「水琴窟です」
紗耶がちいさな声で言う。
水琴窟。日本人の感性が生み出した、古い造園技術。
伏せた甕を地中に埋め、水をそそいで残響音をひびかせる。
遠野さんを茶室へ連れてきたかった、これがもうひとつの理由。
紗耶は再び水をくんで、玉砂利の上にこぼす。
今度は指先をすこしだけ濡らしてみた。
水面の月がゆらゆらと揺れる。押し花のような紅葉も揺れる。
じきに、こん、こん、と、透明なしらべがあたりへひびきはじめる。
時間の進みが常よりも遅い。
冴え冴えとした大気の底へ沈みこむように。
しめやかな妙音は、夜にだけささやかれる美しいひみつ。
少女はとなりにたたずむ女性を振り返ると、その横顔をまっすぐ見つめて訊いた。
「ふしぎですか」
じっと耳をかたむけていた彼女は、たったいま夢から覚めたみたいにゆっくりと紗耶を見る。
それから至極おだやかに微笑んだ。
「ふしぎですね」
野辺の小菊を思わせる親しげな笑み。綺麗に弧をえがく口元。
つられて紗耶も、すこしだけ笑った。