第104話 奥本 紗耶 19 静かな宴
人のまばらな城山公園にぽつりぽつりと吊り下げられた提灯が、色づいた葉をぼんやりと照らし出している。
ほのかな明かりが暗闇に浮かぶさまは幻想的で、紗耶はこの光景を目にするたびに狐の嫁入りみたいだと思う。
どこかちがう世界へまぎれこんでしまいそうで、胸の奥がざわざわする。
きれいだけれど、すこしだけ怖い。
それでも現実が遠のくようなおぼつかなさが、紗耶はとても好きだ。
花見のような華やかさとも夏祭りのような熱気ともまるで無縁の、ごく静かな宴。
大々的な告知を行わない紅葉フェスタは、フェスタなどと銘打ちながら露店も出ない地味な催しで、ゆいいつ出店しているのが羽生市の観光協会だ。
主催者だから仕方なく、という気配が漂っていないでもない。
店番の若い男の人がおでんと甘酒を前に、羽生のパンフレットを見るともなく見ている。
「もうすこし先です。坂を上るんですけど」
観光協会の前を通り過ぎながら、紗耶が遠野さんを振り返る。
彼女は先ほどから紗耶の後をのんびりとした歩調でついてきている。
知らぬ道でもいつもは率先して歩く彼女なのに、珍しいことだ。
「そうですか」と、遠野さんの返事は相変わらずそっけない。
全体、遠野さんは、いささかそっけないように思う。
ここだけの話、時々ちょっとだけ突き放されたような気分になることがある。
もちろん、それは「時々」だし、「ちょっと」だけなのだけど。
坂の途中から、羽生城の苔むした石垣が見えてくる。
七、八分ほど上ったあたりで、羽生の町が一望できる開けた場所に出た。
天気の良い休日なら、休憩所が設けられるところだ。
「ここですか?」
尋ねる遠野さんに首を振り、紗耶はそのまま奥へ向かう。
確かにここでも月は綺麗に見えるだろうけれど、目的地はべつの場所だ。
脇道に逸れてしばらく行くと、生垣に囲まれたちいさな建物が姿を現す。
「茶室?」
建物の全景をとらえた途端、遠野さんが意外そうな声をあげる。
紗耶はこくりとうなずきながら、その反応に満足して、悪戯っぽく笑った。
羽生城の何代目かの城主は茶道に造詣が深かったとかで、羽生城ではいまでも頻繁に茶会が催される。
ここはそのときに使われる茶室なのだ。
細い門をくぐり抜けたふたりは、露地とよばれる庭園に出る。
さほど広くないそこには露地行灯が上品におかれ、暗い足元を奥ゆかしく照らしていた。
紗耶たち以外に人影はない。
夜の闇に音もなく散るもみじが、庭を紅く染めあげる。
茶座敷はさすがに戸がたてられていたから、座敷の外をめぐる濡れ縁に腰をおろす。
後ろをついてきた遠野さんも、少女のとなりに並んですわった。
きりりと冴えた夜の空気。ときどき吹く風が思いのほか冷たい。
濡れ縁が手のひらから熱をうばう。まもなく冬がやってくるのだ。
コートの襟を合わせるようにして夜空を見ると、月が驚くほど明るかった。
今度は遠野さんも、「ここですか」とは尋ねない。
皓々と照る月を無言のまま見あげている。
凛と張りつめた穏やかな沈黙が、清冽な泉のようにあたりを満たす。
おぼろに霞む春の月、金色ににじむ夏の月、白々と冴えわたる冬の月。
四季折々に趣きがあるけれど、晩秋の月はことのほか澄明で、清らかとすら言えるほどの風情でありながらどこかやわらかい。
盛りをとうに過ぎたコオロギが、りーりーと弱々しげに鳴いている。
しばらくそのまま月を眺めていた紗耶は、じきに遠野さんへ視線をやった。
銀の光に照らされた彼女は、雲ひとつない夜空をじっと見ている。
横顔が綺麗な人なのだと、今さらのように気がつく。
同じ場所、同じ月。けれども、抱く思いはそれぞれにちがう。
遠野さんは、いったいなにを考えているのだろうか。
羽生の町のことだろうか。これから帰っていく町のことだろうか。
それとも……もっとずっとむかしのこと?
風が吹いて紅葉が散る。
静かな夜に、かさかさと葉の触れ合うささやかな音がひびく。
年上の女性の整った横顔を見つめながら、少女はちいさくて低い、はっきりとした声で訊いた。大切なひみつを打ち明けるときのように。
「きれいですか」
月は、という言葉はあえて口にしない。
主語を欠いた短い問いは、しんとした闇の底へ溶けるように消える。
彫像のように動かなかった彼女はわずかに身じろぎをすると、こちらを見てうっすらと笑った。
深山にたつ霧を思わせる、ひっそりと奥深い笑みだった。
「きれいですね」