第10話 奥本 紗耶 2 先んじた客
その日、いつものように『プロムナード』へ立ち寄った紗耶は、
自分の「指定席」に先客がいるのを見て少なからず戸惑った。
黒のタートルニットを着た細い影。
落ち着いた雰囲気の女性がひとり、紗耶の好きな窓際の席に腰掛けている。
見覚えのない人だから決して常連客ではないはずだが、
頬杖をついて外を眺める姿は不思議と店の空気に馴染んでいた。
あまり自然にその席で寛いでいるものだから、
紗耶はまるで自分の居場所をとられてしまったような、
そんな心細い気持ちになる。
スクールカバンを抱えたまま入り口で立ち尽くしていると、
鈴の音に振り向いた彼女と、計らずも目が合ってどきりとした。
年齢は二十代後半くらいだろうか。理知的な切れ長の目元が印象的だ。
途方に暮れて自分を見つめる少女のことをどう思ったか、
彼女は何かしらと問いかけるように、口元へ微笑を浮かべる。
いかにも大人の女性らしい表情。柔らかな笑み。
慌ててうつむいた紗耶の頬へ、硬く結んだ三つ編みが触れた。
「いらっしゃいませ、紗耶さん」
進退を決めかねていると、穏やかな声がかかる。城下青年だ。
手を伸べるように名を呼んでくれた青年を、一瞬、縋るように見てしまったが、すぐに自分の子供っぽさが恥ずかしくなった。
こんなことで困惑するなんて、小さな子じゃないんだから。
羞恥で赤くなった顔を隠すように「こんにちは」と会釈したのだが、
……見透かされてしまったかな。
ともかく、早いところどこかの席に座らなければならない。
いつまでも所在なく突っ立ってるなんて、それこそおかしいもの。
あの席が駄目なら、ではどこに座ろう。
やはり窓際が良い、夕暮れが見たいから。
迷ったものの、結局、件の女性からひとつおいた席へ向かう。
座席に荷物を置きながら、紗耶は横目でこっそり女性を盗み見る。
本へ視線を落とす知的な横顔。お化粧は、あまり濃くはない。
落ち着いたトーンの服。バッグの模様の紅葉だけが、ひどく鮮やかで目を惹いた。
頭から爪先まで――これは決して比喩ではなく――学校指定の紗耶とは、随分とちがう。
テーブルの上に乗っているのは、アップルパイと紅茶。
本はこの街の地図らしい。旅行者のようだ。
一体、どこから来た人なんだろう?
地図を見ていたその女性は、
暫くするとカウンターへ向かって「マスター」と低く呼びかける。
抑え目な声は、店内の雰囲気を損ねぬよう配慮したのか。
今日はおじさんもいるのかと思ったが、
どうも「マスター」とは城下青年のことらしい。
苦笑してこちらへ向かう彼のことを、おばさんがカウンターでにこにこと見送っている。
紗耶は不思議に思う。
昨日まで城下さんは確か店長じゃなかったと思うんだけれど、
もしかしたら、今日からマスターになったのかしら。
おかわりを頼んだらしい女性のカップへ紅茶を注いだ後、
注文を取りに来てくれた青年にセイロンのミルクティーを頼みながら、
マスターになったのなら就任祝いを述べるべきかとも思ったが、
結局、何も言えなかった。
城下青年がカウンターへ戻ると、紗耶はおもむろにノートを取り出す。
続いて、「赤ちゃんの名づけ辞典」。先日、古書店で購入した物だ。
今日は名前を集めるつもりなのである。
一緒にいた妹には、「そんな本を買って恥ずかしくないの?」と呆れられた。
確かに、紗耶くらいの年齢の少女が購入するには、用途が皆目不明な代物である。
店員に訝しげな顔をされるという意味では少しばかり恥ずかしくはあったのだが、電話帳をひっくり返して膨大な人名の中からお気に入りのそれを探す苦労に比べればずっと良い。
神話や昔話の類から拾ってきた名が書き込まれているページを開き、
ペンを片手にぱらぱらと「名づけ辞典」をめくっていると、暫くして、
「何を読んでいらっしゃるの」
と横から話しかけられた。
顔をあげれば、二つ先の席にいる件の女性が、
僅かに身を乗り出すようにして紗耶を見ている。
「赤ちゃんの、名づけ辞典?」
表紙に記された書名を、なぞるように呟く。
低められた声は、楽器に喩えればチェロくらい。
紅茶の香りへ溶けるように響いたその声は、
そぐわない本を手にする女子高生を揶揄するでもなく、
初対面の相手の出方をうかがうような気遣いも感じさせず、
かといって決して馴れ馴れしいものでもなく、いかにも自然だったので、
人見知りをする紗耶もさほどの警戒心をもたなかった。
紗耶はさりげなくノートを閉じると、僅かにはにかんで頷く。
女性は「面白いものをご覧になっているんですね」と少し笑った。
「何方かに赤ちゃんが生まれたんですか」
「いえ、違います」
紗耶の口調は明瞭だ。
首を振ると、彼女はそれ以上は追求しない。
代わりに、頬杖をつきながらゆっくりと問う。
「貴女の名前は、何と仰るのかしら」
もしかしたら彼女は、先ほど城下青年が呼んだのを耳にし、
すでに紗耶の名を知っていたのかもしれない。
だが、いささか緊張していた少女は、そんなことになど気がつかなかった。
本来なら見知らぬ人間に名を訊かれてすぐに答える紗耶ではなかったが、
その時は珍しく問われるまま告げる気になる。
彼女が『プロムナード』に馴染む女性であったことも幸いしたのだろう。
「奥本紗耶です」
「そう、奥本紗耶さん。私は遠野涼子と申します」
他人に名を尋ねたからには、自分も名乗るのが礼儀だと思ったのか。
彼女は紗耶に続いて、チェロの声で自らの名を告げた。
遠野、涼子さん。
紗耶は彼女の名前に、むかし読んだ『遠野物語』を思い出す。
霧深い山々の彼方、遥か遠い地の物語。
それはまた、遠くの街からやってきただろう旅行者の彼女のイメージとも重なった。
りょう、の音の凛とした潔い響きも素敵だと思う。
きれいな名前の人だ。
とおの、りょうこさん。
もう一度、心の中で繰り返す。
紗耶は彼女に気づかれぬようこっそりと、ノートにその名を書いた。