2 初日
「もう起きられていますか?」
軽いノックと共に,扉の向こうから遠慮がちな声が聞こえた。
窓の外はやっと明るさを取り戻し始めたばかり。
明けの4刻50分(午前5時30分頃)になったかならないかという時間。
普通であれば,まだまだ起床にはほど遠い時間だ。
しかし,私はとうの昔に起きていた。
いや,正確には一晩中寝付けなかったというほうが正しいかもしれない。
少し微睡むと,悪夢が襲ってきたのだ。
慣れない宮中作法での失敗への嘲笑,罪無き人に対する刑への恨み辛み,そして神獣とともに長い時を眠ることになる王女様という悪夢・・・。
外がわずかに白み始めたのに気がついたのは,何回目の悪夢のあとだったろうか。春の行月も末となっていたから,おそらく明けの4刻(午前4時50分頃)にはなっていなかった頃だろう。私には,これ以上眠ることに努力しても,結局報われないだろうという確信があった。そこで,ベットを抜け出すと東に向いた窓を思いっきり開けて,早朝の凛冷を体の中に深く吸い込んだ。
そう,悪夢なんかに負けてはいられないのだ。
昨日,王女様にお約束したのだから。
いったんお約束した以上,それを守らなければならない。
私は,そう自分に気合いを入れ直していたのだ。
「ええ。起きているわ。」
扉の外に声をかけると,私は窓際の椅子から立ち上がり,ゆっくりと扉を引いた。
まだ薄暗い部屋の中に,扉の向こう側からトーチの明るい光が差し込んだ。
そしてそこには,薄いピンクの女官姿があった。
長い白銀の髪に朱色の眼。
この房の主である、ルーデルさんだ。
「よく眠れましたか?」
「いいえ。結局悪夢を見ただけでしたわ。」
私は,正直に答えた。王女様の運命に共に戦おうという戦友に嘘を言っても仕方がない。それに,宮中でもっとも頼るべき相手でもあるのだ。
「まぁ・・・。」
ルーデルさんは,そういったきり次の言葉が続かないようだった。
「でもご心配はいりませんわ。私の覚悟が足りなかっただけです。王女様のために,弱音を吐いてなどいられませんから。」
私は両手を強く握りしめると,これまで自分に言い聞かせていた言葉を口に出して答えた。
しかし、ルーデルさんは,小声で思いがけない言葉を返してきた。
「そうですか・・・。本当を言うと,私も余りよく眠れませんでした。」
そして、フッと一息つきながらそういうと,にこりと笑って続けた。
「私も気合いを入れ直さなければいけませんね。まだ6年もあるんですから・・・。」
「ええ。」
私もそう答えると,ルーデルさんにほほえみかけた。
そう,王国を襲う神代の災厄。いまこの中世でそれを正確に知るのは,王女様の他にわずかに3人。そして,クリス様がそれに立ち向かう運命の日までは,まだ6年もあるのだ。
今から眠れないような状態では,とても王女様のお手伝いなどできない。
二人の間で,ゆっくりとしたひとときが流れた。
「ところで,昨日は急なことでしたので,ラミン様の官服がこちらに届いておりませんでした。ついでがございましたので,ラミン様の房から取り寄せましたので,こちらをお召しください。」
そう言うと,ルーデルさんは左手に持った官服を私に差し出した。
「ちょっとルーデルさん。二人だけの時は,ラミンさんでいきましょうと申し上げたはずです。」
「ですから,そこに・・・。」
私の抗議に対して,ルーデルさんは,そう言って一歩横にずれた。
すると,そこには部屋付き女官であるアルコイドとキリアが控えていた。
(しまった!)
私は,自分の顔がみるみる赤くなっていくのが分かった。
アルコイドはルーデルさんの,そしてキリアは私の部屋付き女官として昨日紹介されたばかりだ。
二人とも俯いているのは,あきれているのやら笑いをこらえているのやら・・・。
そう,ここはルーデルさんの房なのだ。
そして,ルーデルさんが女官の格好で動き回っているときに,房付きの女官が控えていないはずがない・・・。
「6年」という言葉で,つい二人きりしかいないと早合点してしまったのだ。
確かにこれだけでは,他の人には何のことだかさっぱり分からないだろうし,王女様とのお約束を破ったことにもならない。
「と,とりあえず中に。中にお入りください。」
私は,ルーデルさんの右手をつかむと,強引に部屋の中に引き入れ,扉を閉めた。
落ち着いて考えれば,他人の房の一部屋を借りる身としてはあまりに乱暴な行動だろう。しかし,私にはそのとき他の行動はなにも考えられなかったのだ。
「ふぅ・・・。早速,やってしまいましたわ。」
ルーデルさんの手を離しながら,私は,深いため息をついた。
「あら,大丈夫ですわ。」
「え?」
「私達が王女様から特別に叙されて司補に任じられたことは,古法の内容と共に昨日のうちに城下まで知れ渡っていますわ。そして,ここは私の房です。王女様のお気に入りであり,しかも女官司補に任ぜられた私の部屋であったことを触れ回るような女官はいませんし,将来の正司たちを相手に喧嘩を売るお馬鹿さんも,宮中にはいませんわ。」
そう言って,ルーデルさんは笑っている。
将来の正司・・・。
それも悪夢の元凶だというのに,ルーデルさんは・・・。
「ルーデルさんは・・・。」
私が聞こうとする言葉を遮るように,ルーデルさんは首をわずかに横に振り,私が聞きたかったことを答えてくれた。
「もちろん,私だってそんな大それたこと思ってもいませんでしたし,余り眠れなかった原因の一つですわ。でも,正司になるのは,少なくともクリス様の運命との闘いが済んだあとのこと。正直言いますと,クリス様の運命さえ乗り越えられれば,その後のことなんてものの数ではないと思っていますわ。」
それは,その通りだ。私もそう思う。
「ですから私,今の状況を受け入れて,そして最大限に利用していくことがクリス様のためであり,自分の義務だと思うことにしましたの。もしこの程度のことで私たちのことを笑いものにしようなどというものがいたら、私は決して許しませんわ。私は正司となることが決まっている女官司補なんですから。そのことはアルコイドにもキリアにも、司補として厳しく言い渡してあります。」
ルーデルさんは,そう言って再び微笑んだ。
でも私には,その笑顔の中にわずかな影と,そして何かを必死にこらえている様子が見て取れた。
(う゛!)
またやってしまった。
しかも今度の失敗は,私の心に大きな衝撃を与えた。
そう,ルーデルさんはいくら宮中生活が私よりも5年も長いとは言っても,私よりも年下なのだ。そのルーデルさんはここまでの決意をしている。それなのに、あろうことか私は、私の弱さのためにその心の中のすべてをはき出させてしまった・・・。
私は思わず,ルーデルさんに抱きついてしまった。
そして,背中に回した両腕に力を入れると,ルーデルさんも私の腰に両腕を回してきた。そして,そのまま強く抱き合い,しばらくそのままでお互いの声にならない震えを感じていた。
「ごめんなさい。もう二度と,二度とこんな失敗はしないわ。」
私は震える声でルーデルさんの耳にささやくと,もう一度しっかりと腕に力を入れた。
「はい。」と小さな震えるような声が聞こえたような気がした。
きっと気のせいではなかったと思う。
たとえ、それが声に出されたものでなかったとしても。
そして、私には想の力はないけれど。
私は、ルーデルさんの心の答えをしっかりと聞いたのだ。
そして、自分にもう一度気合いを入れ直した。
決して、二度とルーデルさんを泣かすようなことはしないと。