クロのこれから
「まほー……つかい?」
クロがコテンと首を傾げる。
「え……と。魔術師さん、ですか?」
「違う違う。魔術師じゃなくて、魔法使い。
魔術と魔法は別物なんだ」
ん? ん? と真新しい貫頭衣の裾から尻尾を左右にぺたんぺたんと振りながら尋ねるクロに対し、苦笑を浮かべつつ答える。
「詳しく説明すると長くなるし、俺自身も完全に理解してるって訳でもないから省略するよ?
でも、クロの怪我を治したのは間違いなく、祈りの魔術じゃなくて俺の使った魔法だってこと」
自慢した訳でも偉そうに言った訳でもないが、クロは俺の説明に「ほわあ……」と感嘆の溜め息を吐いた。
「ツブラさんは凄いんですね。わたし、魔法なんて初めて聞きました」
「あはは……凄いかどうかはともかく、魔法を使える人は殆ど居ないらしいから」
瞳をキラキラと輝かせて俺を見上げるクロから視線を逸らし、照れ隠しに頬を掻く。
その俺の言葉に、クロの視線が更に輝きを増した。
……こんなに純粋な尊敬の眼差しを受けたのは初めての事なので、俺自身どうしていいのか解らない。
「と、とにかく! そういうことなんで、クロも俺が魔法使いだってことは内緒にしておいてね?」
「はい! 誰にも話しません。内緒です!」
にっこりと笑みを浮かべて答えるクロに、俺は「ありがと」と礼を言って微笑みを返す。
さっきまで怯えられていた事を考えると、随分と懐いてくれた様だ。
やっぱり、クロの怪我を治したことが大きいのかもしれないな。
「ん……」
そんな感じでほっこりした気分に浸っていると、クロがもぞもぞと両足を擦っているのに気づく。
「? どうしたの?」
「あ……いえ、あの、何だか違和感があって……」
クロはそう言ってベッドから立ち上がると、徐に貫頭衣の裾を捲り上げた。
「ちょっ……!?」
豪快なクロのセルフスカート捲りに、思わず目を見開く。
「ほわあ!? 何ですか、これ!?」
しかし、クロは自身の股間を覆っているパンツを見て、素っ頓狂な声を上げた。
「な、何って、パンツ……下着だけど。
ていうか、女の子が人前でそんなことしちゃいけません!」
慌ててクロの着ている貫頭衣の裾を元に戻し、俺は人差し指を立てて嗜みというものを教える。
……小さい女の子とはいえ、いきなりやられるとビックリするわ!
「下……着? これ、下着なんですか!?」
驚愕の表情を浮かべつつそう言って、クロは再び貫頭衣の裾を捲り上げた。
……うん。どうやら、この手の羞恥心というものが欠如しているらしい。
「ふわあ……わたし、下着って初めて履きましたあ……
あ、凄い。ちゃんと尻尾が出せてる!」
感動の表情を浮かべて自らのお尻を眺めるクロ。尻尾がぶんぶんと振れている。
『『ふむ。やはりローライズに設定したのは当たりだったな』』
『『いや、そうかもだけど……ちょっとやり過ぎたかもしれないぞ? お尻が半分見えちまってる』』
『『次はもう少し上まで上げるか。尻尾の位置は思ったよりも上に付いてるみたいだしな』』
『『それはそうと、あのセルフスカート捲りは止めさせた方が良いな。外聞が悪すぎる』』
全くだ。
軽く溜め息を吐いて、貫頭衣の裾を捲り上げたまま、感動してくるくると回っているクロを眺める。
まるで、自分の尻尾にじゃれついている子犬みたいだなと思った。
「あう……目が回りました」
「おいおい、大丈夫か?」
ぐるぐる回り過ぎてふらついているクロの腰に手を回して、抱き上げる。
そのままベッドまで運んで寝かしつけた。
「まだ本調子じゃないだろうから、もう少し休んでおきな。今、消化に良い食べ物を作って貰ってるから」
「ふぇっ!? た、食べ物!?」
苦笑を浮かべる俺に、クロは目を丸くして過剰反応を示す。
「こ、高級品の下着を貰った上に、食べ物まで……わ、わたし、娼館とかに売られちゃうんですか?」
真っ青な顔つきで涙目になるクロ。
「……なんでそうなる? クロは痩せすぎで体力も落ちてるから、先ずはその辺を改善しようとしてるだけだよ」
眉を顰めつつも、俺はクロの髪を梳いて安心させる。しかし、クロは不安そうな表情を浮かべたまま、俺を見上げていた。
「だって、わたし半獣人ですし……こんなに良くして貰ったこと、今まで無かったから……」
シーツを鼻の下まで持ち上げて、目の端に涙の粒を浮かべるクロに笑顔を向ける。
「大丈夫。そんな事はしないし、させない。さっきも言っただろ? クロを虐める奴は、俺が追い払ってやるって」
「ツブラさん……」
そう言った俺を、クロが潤んだ瞳で見上げてくる。
「……ツブラさんは、どうしてわたしにそこまで優しくしてくれるんですか?」
「何故と言われてもなあ……」
クロの質問に、頬を掻く。
「うーん。クロはさ、俺の双子の妹にちょっと似てるんだよな」
「妹さん……ですか?」
ははは、と笑う俺に、クロが首を傾げた。
「うん。双葉っていうんだけど、今はちょっと……っていうか、凄く離れた場所に居て、直ぐには会えないんだけど。
それに、似てると言っても容姿がそっくりとかじゃなくて、なんて言うのかな……雰囲気が、さ」
黒髪とか胸が、と言わない様に気を付ける。
うん。それも優しさかなー、と。
「だから放っとけなかった、っていう感じかな」
「……わたし、ツブラさんの妹さん……フタバさんに会ってみたいです」
後頭部をぽりぽりと掻いて苦笑を浮かべる俺に、クロははにかんだ笑みを浮かべてそう言った。
「そうだなあ……俺もクロと双葉を会わせてあげたいな」
最近のアイツはクールを気取っている様なところがあるけど、その実、可愛いもの好きだから、クロを見たらいきなり抱き着くんじゃないか?
「はい。今から楽しみです」
目を細めて微笑みを浮かべるクロの頭を、優しく撫でつける。
「さあ、今はお休み? ご飯が出来たら起こしてあげるから」
「はい……あの、ツブラさん? わたしが起きるまで、傍に居てくれますか?」
そう、恥ずかしそうに小さな声で問いかけてくるクロに微笑みかける。
「勿論。隣に居るよ」
「えへへ……嬉しいな」
俺の答えに、クロは会ってから一番の嬉しそうな表情を浮かべた後、頬を赤らめてこう言った。
「わたし、ツブラさんに助けて貰えて本当に良かったです。
……ありがとうございます、ツブラさん」
「……?」
先ほどまでとは違い、幸せそうに眠るクロの寝顔を眺めていると、控えめに扉がノックされた。
「はい、何でしょうか?」
クロを起こさない様に静かに扉を開けた先には、神妙な表情のマリアさんと目元を赤く腫らしたアイリスさん、そしておっちゃんの姿があった。
「おっちゃん、帰って来てたのか」
「おう。お嬢ちゃんの様子はどうだ?」
ハンター協会から帰還したおっちゃんは片手を軽く上げて俺に問う。
「ああ、一度起きたんだけど、大事を取らせて休ませてる。
入るか? 小声で話す分には大丈夫だと思うぞ?」
扉を開け放ってそう言うと、おっちゃんは無言で室内に足を踏み入れてきた。
「……ツブラ様」
メイドさん二人に目礼をしつつ扉を閉めようとしたところで、マリアさんが小声で呼びかけてくる。
「はい? どうしました?」
首を傾げて問いかけると、マリアさんは申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳ございません。先ほどまでのお二人の会話を、聞くとはなしに聞いてしまいました。
ここに、お詫び申し上げます」
そのマリアさんの言葉に併せて、アイリスさんも鼻をグスグスさせながら頭を下げてきた。
「ご、ごべんだざい……うっ……うえええ……」
えっと……そんなに泣くほど?
「いやまあ、聞こえてしまったんなら仕方ないですよ。
……その様子からすると、ほぼ全部聞こえてました?」
指先で頬を掻きながらの俺の問いに、神妙な表情でマリアさんが頷く。
そっかー……まあ、クロが思いっきりはしゃいでたしなあ。
「……じゃあ、済みませんけど、魔法の事はくれぐれも内密にお願いします」
「は。この身にかけてお誓い申し上げます」
お臍の辺りで両手を揃えて深々と一礼するマリアさんに、思わず苦笑を浮かべた。
「いやいや、そこまでしなくて良いですよ。そんな事は無いとは思いますが、命の危険があったら喋っちゃってください。
こう見えても、降りかかる火の粉くらい払えますから」
気持ちお道化て答えた俺に、マリアさんとアイリスさんは僅かに顎を引いて小さく一礼した。
……この様子じゃあ、きっと殺されても喋らないだろうな、この二人は。困ったものだ。
そんな二人に「ほどほどに、ね」と言い残して、今度こそ扉を閉める。
室内に目を向けると、おっちゃんはさっきまで俺が座っていた椅子に腰を下ろして、クロの寝顔を覗き込んでいた。
「……だいぶ血色が良くなってきたようだな」
「そうだな。ずっと緊張してた精神が、少しは解れたんだろ」
クロを見つめたまま呟くおっちゃんに、俺も小声で答える。
するとおっちゃんは、横目でちらりと俺を見てから口元に笑みを浮かべた。
「はっ……なんつーか、坊主。お前は大した奴だよ」
「何だよ藪から棒に」
おっちゃんの言葉に、思わず片眉を潜める。
「いやな、このお嬢ちゃんみたいな半獣人ってのは、その性質上、警戒心が強くてな。
中々に心を開いちゃくれねえんだよ」
……まあ確かに、クロも初めの内は物凄く怯えて警戒心バリバリだったけど。
「そんなお嬢ちゃんの心を、こんな短時間でこじ開けちまうなんざ、坊主はジゴロの才能があるかもしれねえな」
「選りにもよって、その表現かよ……」
ククッと喉の奥で笑うおっちゃんに、唇を尖らせて文句を足れる。
「ばーか、褒めてんだよ。坊主のそういう真っ直ぐなところが、お嬢ちゃんの冷え切った心を解かしたんだろうからな」
おっちゃんは椅子に座った状態で俺の頭をぐりぐりと捏ねくった。
……くそ。こっちは立ってる状態なのに、平気で俺の頭に手が届くとか。無いわー。
「そんな大したことじゃねーよ。普通に話して、普通に笑って……俺は俺に出来る事と俺がしたい事をやっただけさ」
そう。俺は俺の我が儘を通しただけだ。褒められる様な事じゃない。
「ふっ。そうかい」
しかし、おっちゃんは口元に笑みを浮かべたまま、僅かに目を細めただけだった。
「ま、ともかく、お嬢ちゃんにはしっかりと食って休んで、ついでに少しばかり身体を動かしてもらって、健康な身体と心を養ってもらうとしようや」
「それに関しちゃ同感だ」
そう答えつつ、俺は室内にあったもう一脚の椅子を運んできて、おっちゃんの正面に座る。
「後は坊主の問題だが……」
クロへ向けていた視線を切って、おっちゃんは俺に向かって言う。
「とりあえず、俺の方で坊主のハンター登録を済ませてきた。とはいえ、今のところは仮登録だがな」
腕組みしながら話すおっちゃんに、無言で頷く。
「明日の午後にでも協会へ出向いて、お前本人の口から申請しろ。俺も一緒に行ってやるからよ」
「手間を掛けて悪いな」
神妙に答える俺に、おっちゃんは苦笑を浮かべた。
「その辺は気にすんなって言っただろ。
それに、登録したら即ハンターになれるって訳でもねえ。最低でも三か月の間はハンターとしてのノウハウを学ぶべく、研修期間がある。
これにはハンターとして5年以上務めた奴が、教官として専属に教育することになるんだが……」
おっちゃんの説明に、俺は真剣な表情で頷きを返す。
要は、ハンターとしてやっていけるかどうかを見定めるって訳だな?
「これに関しては俺がお前の教官役として就く事になった」
「……おいおい、職権乱用じゃないのか、それ?」
偉そうにふんぞり返るおっちゃんに、俺は眉を顰めた。
しかしおっちゃんは、不思議そうな表情を浮かべると、
「何言ってんだ? 折角の職権を乱用しないでどうするんだよ?
ただでさえ、坊主は魔法なんてモンを使える厄介な存在だろうが。俺が直に見てなきゃあ、危なっかしくてしょうがねえ」
などと、しれっと言い切った。
……なんつーか、言いたい事は解るんだが、今一つ納得行かないのは何故なんだ?
「そうかよ。ともかく、宜しく頼むわ」
「応、任せとけ。俺が坊主を一人前のハンターに仕立て上げてやるからよ」
釈然としないところはあるが、一先ず礼を言う俺に、おっちゃんはニカッとした笑いを浮かべてサムズアップする。
全く……頼もしいのか能天気なのか良く解らないおっちゃんだぜ……
その後、ハンターとしての心構えや、ハンターの仕事に赴くに当たって必要な道具などをおっちゃんから教えてもらい、俺は制服の上着の胸ポケットに入っていた生徒手帳にメモをしながら覚え込んで行った。
暫くそんな事を続けていると、再び扉をノックする音が聞こえてくる。
椅子から立ち上がって扉を開けると、そこには眠そうに半分閉じた薄茶色の瞳と明るい茶髪をボブカットにした巨乳美少女のメイド――ウェンディさんが立っていた。
「失礼致します、ツブラ様ぁ。クロ様のぉ、お食事をお持ちしましたぁ」
やけにゆっくりとした口調で頭を下げるウェンディさんだが、手に持ったトレイは一切揺らさずに礼を取っているのは、流石だと思った。
「あ、ああ、ありがとうございます。とりあえず入って下さい」
「はいぃ、失礼致しますぅ」
扉を開け放って俺が招き入れると、ウェンディさんは静々とした歩調で入室してきた。
そしてベッド脇のチェストにトレイを置くと、被せてあった銀色のドームカバーを外す。
すると、途端に甘い香りが室内に零れ出てきた。
「お、ミルク粥か。こいつは確かに弱った胃には良さそうな食いモンだな」
トレイの上に乗っているスープ皿を覗き込んだおっちゃんが、口元を緩めて言った。
ベッドで眠るクロを見てみると、小さな鼻がヒクヒクと動いている。
どうやら、寝ながらもこの匂いを敏感に感じ取っている様だ。
「クロ、ご飯が来たぞ? 起きれるか?」
苦笑を浮かべつつ、俺はベッドで眠るクロの頬を掌で優しく擦る。
「うにゅ……良い匂い……おいしそう……」
すると、クロは寝ぼけ眼で頬に当てられた俺の手を握ってきた。
「お……起きたか。じゃあ、身体を起こして……って、おーい!?」
握られた左手はそのままに、俺は右腕をクロの背中に回して介添えをしてやろうとしたが、何を勘違いしたのか、クロは俺の左手を掴むと、そのままその小さな口の中に俺の人差し指を咥え込んだ。
「こらこら、俺の手は食い物じゃないぞ!? クロのご飯はこっち!」
あむあむと俺の人差し指を甘噛みするクロに、慌てて声を掛ける。
「ふぇ……? はわあ!?」
漸く覚醒したのか、クロは咥えていた俺の指から口を離すと、慌てた様子でペコペコと頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! 痛くなかったですか!?」
「ああ、大丈夫。はむはむと甘噛みされただけだから」
顔を真っ赤にして焦るクロに苦笑を浮かべて答えると、クロは一層恥ずかしそうに縮こまってしまった。
何と言うか、この娘はとことん小動物みたいだな。
「……なあ、ウェンディよ」
「はいぃ。なんでしょうかクラウド様ぁ?」
そんな俺とクロの様子を眺めていたおっちゃんが、無機質な声でウェンディさんに尋ねる。
「なんかよ、俺が知らない内に、この二人出来上がってねえか?」
「微笑ましい限りですぅ」
今にも砂を吐きそうな表情のおっちゃんに対して、ウェンディさんはその眠そうな相好を崩して笑みを浮かべていた。
何の話をしてやがる。俺にロリ系趣味は無え。
無い、と思う。
……無い筈だ。
そんな心の葛藤をしていると、クロのお腹が「くぅ~」と鳴った。
「あう……」
恥ずかしさで委縮していた上に、お腹の鳴る音まで響かせてしまったクロが、更に顔を赤くして俯いてしまう。
「あっと……ゴメン、クロ」
その様子を見て、俺は慌ててサイドチェストに置かれたスープ皿を手に取ると、トレイに置かれた木製のスプーンで中身を掬う。
「ほい、“あーん”してくれ」
「ふえぇぇえ!?」
双葉が風邪を引いて寝込んだ時によくしてやった様に、クロの口元にスプーンを持っていくと、クロは火を噴きそうなほどに頬を赤らめた。
「ん? どうした?
口を開けてくれないと、食べさせられないんだが……あ、もしかして熱かったとか?」
はわはわと慌てるクロを見て、俺はその答えに至る。
そして、俺はクロの口元に寄せていたスプーンを、自分の口の中に入れた。
「……うん。そんなに熱くないから大丈夫だと思うぞ?」
ミルク粥を口の中で味わってからクロに笑いかける。
それにしても、美味いな。
温かくしたミルクの中に、小さく千切ったパン、だろうか? ふやけた固形物が入っている。
柔らかい甘みは、多分ハチミツだろう。絶妙な味わいを醸し出していた。
これを作ってくれたシェフに、拍手を送りたい。
「ほら、大丈夫だからクロも食べな」
そう言って、俺は再びミルク粥を掬ったスプーンをクロの口元に運んだ。
「あう……あう……」
しかし、クロは頬を赤く染めたままスプーンと俺の顔……というか、口元との間で視線を行き来させるだけで、一向に食べようとしない。
……何故だ、ホワイ?
「おい坊主。お前ってヤツは、本当に天然ジゴロだな」
思わず首を傾げた俺に、おっちゃんが深い溜め息を吐きながらそう言った。
「ふふふ。ツブラ様ぁ? クロ様はぁ、ツブラ様に食べさせていただくのがぁ、恥ずかしいんですよぉ」
なぬ?
口元に手を当てながらそう言うウェンディさんに、愕然とした表情を向ける。
なんてこった……双葉にしてやったときは嬉しそうにしてたから、てっきりこういう場合の常套手段かと思ってたぞ!
恐る恐るクロに目を向けてみると、頭から蒸気を噴出しそうなほどに顔を赤らめて俯いてしまっていた。
「ご、ごめん、クロ。俺、全然気が付かなくて……」
「いえ、あの……わたしこそ……」
慌てる俺に、クロはもにょもにょと呟きながら、シーツの端っこをぐにぐにと弄っている。
……うーん。ちょっと過保護過ぎたのか。気を付けなければ。
「あー、もういい。坊主、お前ひとっ風呂浴びて頭冷やしてこい。後はウェンディとマリア達に任せとけ」
「え、でも……」
うんざり気味に手を振るおっちゃんに反論しようとするが、おっちゃんは眉を顰めて続けた。
「いいから行って来い。風呂場にはイリヤが居るだろうから、俺が坊主に一番風呂を勧めたって言えば良い。
俺としても、お嬢ちゃんと話したい事もあるし、坊主が居ると邪魔になるんだよ」
そうきっぱりと言われると、俺としても反論するのが憚られる。
ちらりとクロを見ると、彼女も少し不安そうな表情を浮かべていた。
「お嬢ちゃんも懐いてる坊主が居なくなるのは不安かもしれねえが、ちっと我慢してくれよ?
この先どうするかっていう、大事な話だからよ」
「……はい、解りました」
真面目な顔で言い聞かすおっちゃんに、クロは俯き加減で答えた。
……まあ、クロが納得したなら、俺もこれ以上ゴネる気は無い。
「分かったよ。じゃあ、悪いけど後の事は頼むな」
「おう、さっさと行け。風呂場までの案内は、アイリスにして貰えよ」
渋々と頷いた俺に手を振って、おっちゃんは扉の方を指し示す。
後ろ髪を引かれる思いはあるが、俺は扉を開いて廊下に出た。
「済みませんアイリスさん。浴場まで案内して貰えますか?」
「はい、こちらへどうぞ」
扉の脇に控えていたアイリスさんに伝えると、彼女は一礼した後に俺を先導して歩き始める。
俺と入れ替わりに、マリアさんが室内に入って行った。
「……」
「……」
館の廊下を歩く俺とアイリスさんは共に無言。
というか、勝手の解らない俺は、アイリスさんに付き従う他に手立てが無く、なんとも微妙な雰囲気に包まれている。
「……ツブラ様は、不思議な方ですね」
沈黙が辛いなーと思った矢先、アイリスさんが前を向いたまま話しかけてきた。
「え? そうですかね?」
答えに窮する問いかけに、とりあえず無難に返答を返すと、アイリスさんはクスッと笑みを漏らしてこちらを振り返った。
「はい、とても。
今まさにお答えいただいたように、私の様な使用人に対しても丁寧なご返答をされておられますし」
あー……まあ、慣れてないからね。
思わず困った表情で後頭部を掻く。
「ふふっ。そうして浮かべられておられる表情も、敢えて作ったものではなく、ツブラ様の心情をそのままお顔に出されておられますし」
「へー……そういうのって、解るんですか?」
他人の心の機微なんてものは、中々に読み取れるものじゃないと思うけど。
「はい。こう見えて、私は侍女として数多の方々にお会いして参りました。
一般市民の方から、政財界の上位に位置される方まで。それは多くの人物とお会いして来たのですよ?」
その勝気な瞳に笑みを浮かべながらも、偉そうには見えない態度で、アイリスさんは僅かに胸を張る。
「ですが、ツブラ様にはそれらどの方々にも当て嵌められない雰囲気がございます。
優しさと申しますか、大らかさと申しますか……言葉にするのが難しいのですが、そういった温かさの様なものが」
……うーむ。そんなに持ち上げられる様なモノ、本当に俺にあるのか?
「くすくす。まるでご自覚が無いという様なお顔をされておりますが、そうでなければ、クロ様の様な方があれほどに心を開かれる事はありえませんよ?」
口元に手を当てて小さく笑うアイリスさんの言葉に、俺自身は今一つ納得しきれない。
「そんなもんですかね? 俺としては、普通に接しているだけなんですけど」
そう、普通だ。
飽くまで、“俺の世界”の普通ではあるが。
「その様に、何の衒いも無く仰ることが出来るツブラ様だからこそ、クロ様も心を開かれたのだと思いますよ?」
「……恥ずかしいんで、あまり持ち上げないでください」
柔らかい笑顔を向けてくれるアイリスさんから視線を逸らせて言うと、彼女は「ふふっ」と笑ってくるりと踵を返した。
「承りました。それでは浴場に参りましょう」
澄ました物言いで再び歩を進めるアイリスさんの後に続いて歩きながら、俺はぽりぽりと頬を掻く。
なんだか、この世界に来てからこっち、調子が崩れっぱなしだな……
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「ったく、ようやっと行きやがった」
円と入れ替わりに入ってきたマリアを横目で見ながらジャックが呟く。
「さて、と。お嬢ちゃん……確か、クロって言ったか?」
「は、はい。あの……あなたは?」
真正面からクロを見据えつつ尋ねるジャックに、クロは僅かな怯えを滲ませている。
「ああ、悪い。何も尋問しようとかそういうのじゃねえんだ。
先ず、俺はジャック……いや、“ジャック・ザ・クラウド”って言った方が解りやすいか?」
口元を歪ませて話すジャックに、クロの瞳が大きく見開かれた。
「ま、まさか……“オーバーロード”様!?」
「ああ、まあ、そんな風に呼ばれる事もあるな……おいおい、そんなに鯱張る必要は無えよ。
とりあえず、落ち着いてメシ食っちまいな。待っててやるから」
慌てて佇まいを正そうとするクロに向かって手を振るジャックだが、クロの顔は緊張で引き攣っていた。
「ああ、くそ、参ったな……」
「クラウド様。とりあえず、クロ様のお食事が済まれるまで、外に出られたら如何でしょうか?」
やっちまった感を全身で表しながら頭をボリボリと掻くジャックに、マリアが落ち着いた声音で申し出る。
「そうだなあ……確かに、このままじゃあ坊主に何を言われるか分かったもんじゃねえし、そうすっか」
やれやれといった表情で椅子から立ち上がると、ジャックはそのまま扉に向かって歩いて行き、ドアノブに手を掛けたところで振り向くと、
「ホント、悪いなお嬢ちゃん。落ち着いた頃にまた来るわ」
そう言い残して部屋を出て行った。
「もぉ……クラウド様ったらぁ、普通の方に字名を含めた本名を名乗ったらぁ、こうなるのが当たり前でしょうにぃ」
ぷくっと頬を膨らませて小声で呟くウェンディがクロを見ると、彼女は未だカチコチに固まったままだった。
「クロ様。大丈夫ですか?」
「ふぇ……? は、はい、らいじょうぶれす!」
心配そうな表情で腰をかがめてクロの顔を覗き込んだマリアに、クロはぶるりと身震いをしながら答える。
「……ふわあ、びっくりしましたぁ……オーバーロード様にお会いするなんて、わたし、生まれて初めてです~」
へにゃへにゃと身体の力が抜け、ベッド沈みこむクロだが、手に持ったスープ皿を放さない所はさすがである。
「クロ様の仰る通り、私たちもこのお屋敷に務めさせていただけてなければ、お会いできる立場の方々ではありませんね」
慌てる事無くクロの背中を支えるマリアの言葉に、ウェンディも小さく頷いた。
「そうですねぇ。世界に10人しか居ないオーバーロードの方々のお一人、“ザ・クラウド”の字名を持っておられるジャック様ですからぁ」
――オーバーロード。
決まった国家に属する訳では無いが、世界規模で認められた「超越者」の位を持つ、10人の人物たち。
彼らの持つ力は正に一騎当千に相応しく、一人で戦況をひっくり返すとまで言われている。
各々が彼らを体現する字名を持ち、また、その字名に相応しい力を持っている。
「あの、クラウド様はとてもお強いと聞きましたが……」
背中を支えられ、申し訳なさそうな表情を浮かべつつもクロが尋ねると、マリアは僅かに口元に苦笑を浮かべた。
「はい。ですが、お怪我も多い様で。ご存知かと思いますが、クラウド様は魔術を一切受け付けない体質ですので……」
「……噂で聞いたことがあります。“忌み子”って言うんですよね?」
クロはスープ皿に視線を落としつつ呟いた。
この世界では日常的に魔術が使用され、人々はその力の恩恵を授かると共に、魔術による被害にも会っている。
しかし、中には一切の魔術が使えず、また、魔術の力を受け付けない者が居る。
それが“忌み子”と呼ばれる存在である。
忌み子は魔術による肉体強化や、祈りの魔術による回復を受ける事ができず、代わりに攻撃魔術や呪いによる損害も一切無い。
一部の魔術学者から、それ自体が強力な呪いだと判断されたことから、“世界の恩恵から外れた者”――故に“忌み子”と呼ばれると言われている。
「クロ様の仰る通りですぅ。ですがぁ、クラウド様の前ではその言葉を言わないであげて下さいねぇ?」
眠そうな表情の中にも、悲しそうな響きを持たせたウェンディの言に、クロはこくりと頷いた。
「はい、勿論です。ですが、あの……」
居心地の悪そうな表情で上目遣いをするクロを見て、マリアとウェンディが首を傾げた。
「わたしに“様”を付けて呼ぶのは止めて下さい。わたし、半獣人ですから……人族の方々からそう呼ばれると、落ち着かなくて……」
後半に行くに従って、もにょもにょと呟く様な大きさの声になるクロを見て、マリアとウェンディが顔を見合わせた。
「クロ様。あなた様とツブラ様は、この館の主であるクラウド様がお連れになられたお客様です。
そのお客様を敬うのは、使用人として当然のことなのですよ? 逆に、お客様に対して失礼な態度を取れば、私たち使用人は、文字通り首が飛んでしまいます。
もし、クロ様がそれをお望みなのならば、私たちとしましても吝かではありませんが……」
「そ、そんなことありません!」
真面目な表情で諭すマリアに、クロは慌てて首を振って答えた。
「で、でも、様はやめて下さい。お願いします……」
ベッドの上で深々と頭を下げるクロに、マリアは困った表情を浮かべて小さく溜め息を吐く。
「でわぁ、“クロさん”若しくは“クロちゃん”でどうですかぁ?」
「ウェンディ……あなたという人は」
右手の人差し指を立てて眠そうな声で言うウェンディに、マリアは呆れた視線を向けるが、クロはそのウェンディの言葉にぶんぶんと音が鳴りそうなほどに首を縦に振った。
「気に入っていただけた様ですねぇ。それでは、私は今後、“クロちゃん”とお呼びさせていただきますねぇ♪」
「はい! あの、ウェンディさん……ありがとうございます」
深々と頭を下げるクロに、ウェンディは「うふふ」と微笑みを返す。
「まったく、この娘ときたら……」
「そう仰いますがぁ、マリア様ぁ。お客様のご要望にお応えするのもぉ、メイドとしての責務だと思いますよぉ?」
眉間に皺を寄せるマリアに、ウェンディはしれっと答えた。
「あの……マリアさん、ウェンディさんを怒らないであげて下さい」
ウェンディに対して何かを言おうと口を開きかけたマリアに、クロが縋るような目つきで訴えると、マリアは深い溜め息を漏らして首を振った。
「……解りました。それでは私もあなた様の事は“クロさん”とお呼びさせていただきます。
もう……ボイド様に何と言われることでしょうか」
考えるだけで頭が痛いと言わんばかりのマリアの様子に、ウェンディはあっけらかんとした物言いで答える。
「ボイド様ならぁ、『おお、ならば私も“クロちゃん”とお呼びさせていただきましょうか。ふふふ、孫が出来たようですな』とか仰られるのではぁ?」
「そんな訳ないでしょう……」
苦虫を噛み潰した様な表情をウェンディにだけ向けてマリアが唸るが、クロは嬉しそうな表情を浮かべていた。
「わたしはその方が良いです。わたし、おじいちゃんとか居ませんでしたし、一人っ子でしたから……」
しかし、そう言った後で、クロは沈痛な面持ちで俯いてしまった。
「クロさん……」
その様子を見て、マリアは心配そうな表情を浮かべる。
「(このご様子ですと、クロさんのご家族の方は、もう……)さあ、クロさん。お食事をお召し上がりください。
この館の料理人のエドワードがお作りしたものですから、例え冷めても味は落ちないと思いますが、温かい方が美味しいと思いますよ?」
俯いたクロの膝の上にあるスープ皿を手に取り、彼女の前に膝をつくと、マリアは先ほど円がした様にクロの口元にスプーンを持っていく。
「はい、あーんして下さい」
「はわあ!?」
俯いていたクロの顔が、一気に赤く染まる。
「(……ナイスですねぇ、マリア様ぁ)あらぁ、先ほどの焼き直しですぅ」
「どうされましたクロさん? お口に合いませんか?」
暗くなりかけた空気を吹き飛ばしてくれたマリアの行動に安堵の表情を浮かべるウェンディに対し、当のマリアはクロの慌てぶりに首を傾げた。
「ああう、あう……い、いえ、こういうのに慣れていなくて……済みません」
「(なるほど、スキンシップに慣れていないのですね……ならば)クロさん、お口を開けて下さい。
そうしていただけないと、私がボイド様に叱られてしまいます」
クロの態度からその心情を読み取ったマリアは、僅かばかりの方便を用いてそう言った。
「……」
その後ろでウェンディが何かを言いたそうな表情を浮かべるが、空気を読んでか、言いたい言葉を飲み込む。
「あう……は、はい」
「叱られる」と言ったマリアの言葉を額面通りに受け取ったクロが、その小さな口をおずおずと開くと、マリアは目を細めてスプーンを運ぶ。
「あむ……美味しい。凄く美味しいです」
もむもむと咀嚼した後、クロは嬉しそうに微笑みを浮かべると同時に、その双眸から涙を溢れさせる。
「温かくて、甘くて……とても優しい味がします……うっ、ぐす」
感極まって嗚咽を漏らすクロを見て、マリアはサイドチェストにスープ皿を置くと、クロの身体を優しく抱きしめた。
「……この館に居られる間は、私たちがクロさんをお守り致します。ご安心下さい」
「そうですよぉ。私の事はお姉さんと思ってくださいねぇ?」
クロの手を取って、ウェンディがその大きな双丘に抱え込む。
「うぇ……はい。ありがとうございます、お二人とも。
……わたし、ここ暫く泣いてばっかりです。でも、嫌な涙じゃなくて、嬉しい涙をたくさん流してます……」
「……ツブラ様のお陰でしょうか?」
時折しゃくり上げながら話すクロに、マリアが穏やかな声音で問いかけると、クロは泣き笑いの顔でこくりと頷いた。
「あらまぁ、これはこれはぁ――」
「終わったかあ?」
うふふと意味ありげな笑みを浮かべるウェンディの言葉を遮る様に扉が開かれ、ジャックが顔を出す。
「まだですぅ! 女の子のお食事には時間が掛かるんですぅ!!」
言おうとした言葉を途中で遮られたウェンディが、頬を膨らませながらクロとジャックの間に立ちふさがる。
「いや、それにしたって遅すぎねえか?」
「良いんですぅ。クロちゃんのお口は小さいんですから、余計に時間が掛かるんですぅ!!」
ウェンディは、扉から顔を覗かせるジャックをぐいぐいと押して部屋から締め出そうとした。
「あ、こらウェンディ、てめえ! 俺はお前らの主だぞ!? こんな真似して良いと思ってんのか!?」
「デリカシーが無くてむさ苦しいクラウド様より、私は可愛いクロちゃんの心の安寧を選びますぅ。
男らしく、黙って廊下で待っててくださいぃ!」
押された分を取り戻すように室内へ入ろうとするジャックに、ウェンディは助走を付けて飛び上がると、フライングボディアタックを敢行する。
「うおっ!? 主に向かって乳ビンタかますたぁどういう了見だ、このデカ乳娘が!」
「ふふん! クラウド様の様な方にはご褒美でしょうがぁ!?」
ぎゃあぎゃあと喚きながら廊下に出て行く二人を眺めるマリアの後頭部に、大きな汗玉が流れた。
因みに、クロは何が起こっているのか理解しきれていない様子で、頭上に?マークを多数浮かべている。
「と、とりあえず、クロさんはお食事をお召し上がりください」
「はあ……わかりました」
ぽかんとした表情でスプーンを手にするクロに、マリアは苦笑をに近い微笑みを浮かべたのだった。
「ったく、とんでもねえメイドが居たもんだ」
ジャックは頬杖を突きながら、涙目で自身の胸を抱きしめるウェンディを見上げた。
「どっちがですかぁ!? 私のおっぱいに平手打ちしたくせにぃ!」
「うっせぇ。その程度で済んで良かったと思え。
俺が悪人だったら、そのデカ乳を揉みしだいた挙句、ぎゅうぎゅうに絞って洗濯板にしてるところだぞ」
眉を顰めて人差し指をウェンディの胸に向けつつ言い放ったジャックに対し、ウェンディは更に胸を庇って後退る。
「変態ですぅ! 極悪な変態が居ますぅ!!
クロちゃぁん……お姉ちゃん、おっぱい痛いのぉ。撫でて癒してぇ」
「お前の方が遥かに変態じぇねえか!? お嬢ちゃんに何させようとしてやがるんだ!!」
二人の会話に付いて行けず、きょとんとした表情を浮かべているクロの前に、その大きな双丘を突き出して涙ながらに訴えるウェンディ。
その彼女の行為に、ジャックが大声で突っ込む。
「いい加減になさいウェンディ。クラウド様も、いつまでもその調子では、お話が一向に進みませんよ?」
眉間に指を当てて苦い表情を浮かべるマリアだが、クロは持前の素直さを発揮して、御仕着せの上からウェンディの胸をさわさわと撫でていた。
「こ、こうですか? ふわあ……おっきくて柔らかいです」
「あぁん♪」
「ほら見ろ、このデカ乳バカ娘! お嬢ちゃんの性格をよく考えて喋りやがれ!!」
混沌とした様相を見せ始めた室内でただ一人、マリアだけが瞼をヒクつかせて佇む。
「……クロさん、ウェンディの冗談を真に受けてはいけません。
ウェンディ、あなたには後程お話があります。私の部屋まで来なさい。
クラウド様。先ほども申し上げましたが、そろそろ本題に移られた方が宜しいかと」
静かだが、有無を言わさぬマリアの声に、三人がピタリと動きを止めた。
「お、おう、そうだな。マリアの言う通りだ、うん」
マリアの醸し出す雰囲気にビクつくクロとウェンディを他所に、ジャックは咳払いをしながら椅子に座りなおした。
「あー……微妙な空気になっちまったが、良いかお嬢ちゃん?」
「は、はい。大丈夫です」
座った状態でもクロを見下ろす高さにあるジャックの目を見上げながら、クロは緊張した面持ちで頷く。
「そうか。
いや、話と言うのは他でもなくてな。お嬢ちゃんのこれからについて、だ」
ジャックの言葉に、クロの耳がピクリと動いた。
「坊主との約束でな。お嬢ちゃんの体力が回復するまで、坊主とお前さんは俺が面倒を見ることになってる。
だが、問題はその後だ」
真剣な表情でそう言うジャックに、クロは目線を落として俯いてしまう。
「この屋敷を出て新しく働き口を探すのか、坊主に付いて行くのか、それともまた一人で当て所ない旅をするのか……」
指折り数えて話すジャックに、クロは怯える様な視線を向けた。
「何れにしろ、決めるのはお嬢ちゃんだ。
もしも働き口を探すってんなら、さっきみたいな破落戸が来ないような勤め先を、俺の口利きで紹介してやる。
当て所ない旅に出るってんなら、当面の路銀を渡してもやろう。
坊主にくっついて行くってんなら、それも良いだろう。だがな……」
見上げられた視線を真正面から受け止めて、ジャックは言った。
「あの坊主は既に腹を決めてるぞ?
お嬢ちゃんと坊主自身を食わせるために、ハンターに成るって言ってやがった」
「っ!? そんな、危険です!!」
ジャックの言葉に、クロだけではなくマリアとウェンディも目を剥いて驚いていた。
「見ず知らずのわたしなんかの為に、ツブラさんが危険な目にあう必要なんてありません!
どうしてツブラさんは、そんな……」
ベッドの上でシーツを固く握りしめ、泣きそうな表情を浮かべるクロに、ジャックは小さく鼻を鳴らして答えた。
「そうだな。普通に考えれば可笑しなことだ。
だが、俺は坊主がハンターになるのは良い事だと思う。いや、寧ろ坊主ほどハンターに向いてるヤツは、そうは居ねえとすら思うぜ?」
ジャックの言葉に、女性陣が納得の行かない表情を浮かべていた。
「つっても、俺自身、あの坊主とは会ってから数時間を共に過ごした程度の間柄でしか無え。
だがよ、その僅かな時間で感じた坊主の為人は、既に一端のハンターの“それ”だったよ」
「では、ツブラ様は元々ハンターだったと?」
マリアの問いかけに、ジャックは首を振って答える。
「いんや? 坊主はハンターが何なのかすら知らねえ只の小僧だったぜ?
だが、そんな小僧が、既にハンターとしての矜持を持ってやがったのさ」
「ハンターとしての矜持?」
涙目で首を傾げるクロに、ジャックが頷く。
「そうさ。
お嬢ちゃんは、ハンターとしてやっていくに当たって、一番大切なモノは何か解るか?」
「え……? え、と、魔物を退治するための技術、ですか?」
突然尋ねられたクロは、しどろもどろに答えた。
「いんや、違うな。そういったものは、鍛錬や実戦で身に付けられる。もっとメンタルなモンだよ」
「じゃあぁ、勇敢であること、とかですかぁ?」
ジャックの背後で佇んでいたウェンディの言葉に、しかし彼は首を振った。
「それも違うな。
状況によっては、一時撤退をして態勢を整えなきゃならねえこともある。
猪みてえに突っ込むだけじゃあ、ハンターは務まらねえよ。
……マリアはどうだ?」
先ほどから無言で控えているマリアに、ジャックは意味ありげな視線を向けて尋ねた。
「……見知らぬ誰かの為に剣を振るうことが出来る事、です」
一拍置いて答えたマリアに、ジャックは口元を歪めて笑う。
「その通り。さすがは元ハンターだな」
「畏れ入ります」
ジャックとマリアの遣り取りに、クロが唖然とした表情を浮かべて問いかけた。
「え……え? マリアさんは、ハンターさんだったんですか?」
「はい。とはいっても、10年以上も前のことですが」
目を閉じて答えるマリアを、クロは「ふわあ……」という溜め息と共に見上げた。
「では、クラウド様。ツブラ様にはハンターに成るべき資格があると?」
「おう。その通りだ」
目を開いて硬い表情を浮かべたマリアの問いに、ジャックは肯定を返す。
「あの坊主、見るのも初めてな筈の魔物相手に無傷で立ち回った挙句、二体も葬りやがった。
剰え、事後確認の際に『真面目にやれば、無関係の奴らに被害が及ぶことも無いだろ』って言いやがったよ」
「まあ……あの優しそうなツブラ様が、その様な事を……」
驚きを隠せないマリアがそう零すのに対し、ウェンディとクロはポカンとした表情を浮かべて絶句していた。
「それを聞いた時点で、俺は確信した。こいつはハンターとして十分にやっていける奴だってな」
そこはかとなく楽しそうな表情で言い切ると、ジャックは再びクロに視線を向ける。
「技術や戦術眼なんてのは、実戦の中で磨ける。
まあ、坊主はそれなりに腕は立つし、勘も良い。俺が教官に就いて三か月間みっちり教え込めば、そこそこ腕の立つハンターに成れるだろう」
魔法もあるしな、と小声で呟くジャックに、ウェンディが小首を傾げた。
「そうかもしれませんが……どうしてツブラさんは、わたしにそこまでしてくれるんでしょうか?
半獣人のわたしに……」
「それに関しちゃあ、価値観の違いとしか言えねえな」
項垂れるクロに、ジャックは肩を竦めて答える。
「あの坊主の考え方は、俺たちとは根本的な所が違う。
俺が感じる限り、あいつは底抜けのお人好しだ。寧ろ他人の力になることに、強迫観念でも持ってるんじゃねえかってくらいだな」
「強迫観念、ですかぁ?」
腕組みするジャックを見つめながら、ウェンディが問う。
「ああ、そうだ。
俺たちハンターが、いくら他人の為に剣を振るうっつっても、その根本にあるのは己自身のためだ。何せ、食わなきゃ死んじまうからな。
食うために他人を助け、食うために剣を振るうのは当たり前だあな。
だがよ、あの坊主が剣を振るう理由は、どうも外側に向ききってる様な気がしてならねえんだよ」
「……戦うための理由がツブラ様自身に向いていない、と?」
眉を潜めるマリアの問いに、ジャックは渋い表情で頷いた。
「完全にそうとは言えねえがな」
「そんなぁ……それってぇ、一歩間違えたら狂人の考え方じゃないですかぁ?」
泣きそうな表情で言うウェンディの言葉を、誰一人として否定しなかった。
「だからよ、これは俺の言い分で、我が儘でしかねえんだが……」
俯いてわなわなと震えているクロの顔を覗く様にしゃがみ込んで、ジャックは言った。
「お嬢ちゃんには、坊主に付いていて貰いてえんだよ。そんで、あいつの支えになって貰いてえ。
勿論、強制はしねえし、嫌なら他の方法を考える。どっちみち、三か月間はハンターになるための教習期間だからよ。時間はまだあるんでな」
「……そんなの、酷いです」
絞り出すような涙声で呟いたクロから、ジャックは沈痛な面持ちで視線を逸らす。
「だよなあ……半分は巻き込まれたようなお嬢ちゃんに頼むのは、酷ってモン――」
「違います!!」
溜め息を吐きながら話すジャックの言葉を遮る様に、クロは大きな声で叫んだ。
俯いていた顔を上げたクロの眦には、大粒の涙が溜まっており、赤く染まった頬を伝ってシーツを濡らす。
「わたしの事じゃありません! ツブラさんの事です!!
そんな、自分を顧みないで誰かのためだけに辛い思いをするなんて、それじゃあツブラさんだけが苦しんでるじゃないですかあ!
壊れちゃいます! そんなことを続けてたら、ツブラさんが壊れちゃいます!!」
ぱんぱんとマットに両手を叩きつけて叫ぶクロの姿を、マリアとウェンディが唖然とした表情で眺める。
今まで大人しかったクロが、突然駄々っ子の様な素振りを見せている事に、二人とも思考停止している様だった。
「ツブラさん、優しいから! わたしみたいな半獣人を助けてくれるような優しい人だからあ!!
嫌あっ!! そんなの嫌あっ!!」
「お、おい! お嬢ちゃん、落ち着け!」
ジャックは、支離滅裂な叫びを上げながらベッドの上でバタバタと暴れるクロに覆いかぶさって、その小さな身体を抱きしめた。
「うーっ! いやーっ!!」
「大丈夫、大丈夫だ! そんなことにはならない! そんなことはさせないから! な?
だから、落ち着いてくれよ。頼むからさあ……」
自らの腕の中で身を捩るクロを、ほとほと困り切った表情を浮かべて宥めるジャック。
「うぅっ……ううううぅぅ……ほんとうれすか……?」
「お? お、おうともよ。おっちゃんに任せとけ!」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げて己を見上げるクロに、ジャックは頬をひくつかせながら胸を張って答える。
彼の上着の胸のあたりが、クロの涙と鼻水で、びしょびしょになっていた。
「……」
大人しくなったクロから手を放し、その濡れた場所を情けない表情で見つめていると、クロは徐にベッドが飛び降りて扉に向かって走り出した。
「クロちゃん!?」
ウェンディが慌てて声を掛け、マリアもクロの後を追って走り出す。
「……ツブラさんとお話します!」
後ろを振り返ることなくそう言い残して、クロは僅かに開いた扉の隙間から身体を滑らせて、部屋を出て行った。
「……」
「……なんつーか、あのお嬢ちゃん、実は激情型だったのな」
呆然とした表情を浮かべるウェンディに言いつつ、ジャックは上着を脱いでいく。
「……何をしてるんですかぁ?」
その様子を横目でちらりと盗み見たウェンディに、ジャックは無言で脱いだ上着を手渡して一言。
「洗っといてくれ」
「……この人、日常生活では、ほんっとーに役立たずですぅ」