序章 追悼の花は、まだ
ある春の日――。
一個上の姉貴が心臓病を患った。重い病気だという。現代技術では手に負えない、突発性の難病だと担当医から聞かされた。いつ寿命が尽きるかも分らない、と。花岡家は絶望した。誰よりも、姉貴が傷付いた。生きる希望を見失ったというべきか。
やっと高校生となり、桜の花びらに希望を託して新たな一歩を踏み始めた矢先、姉貴に悲劇が襲ったのだ。十五歳の姉貴には、到底背負うことのできない負荷だった。当然だ。若いうちに病魔に牙を剥かれるなんて、普通に生きていれば皆無に等しい。姉貴が何をしたというのだろう。悪行の前歴があるとでもいうのか。いや、そんなはずはない。
姉貴は清楚で純粋な心の持ち主だった。勉強の成績も申し分なく、親戚からはよく褒められていた。俺も頭の善し悪しは負けず劣らずだったが、推理小説などというものに心を奪われている点が解せないようだった。そのうえ、笑顔が少なく無愛想だから、姉貴とは少し違う扱いを受けていた。だからといって、それを羨ましくも恨みにも感じていなかった。別に人当たりを良くしようなんて思っていなかった。
しばらくの間は見舞いに行っていた。特異な難病だということで、姉貴は少し広い病室を与えられていた。だから何だという話で、見舞いに来る花岡家皆の顔に笑顔は咲いていない。咲いていたのは、抱え持つ花束だけだった。いつもそれを花瓶に挿しては、その誇らしげな花弁にため息が出た。
見舞いに行っても、姉貴と会話をするわけじゃなかった。姉貴は何も喋らなかったからだ。口を開ける気力さえ、姉貴に纏わりつく病魔は吸ってしまったのかもしれない。笑顔を見せず、何も言わず、そんな姉貴の姿が見るに耐えなくなってしまい、俺は病院を訪れなくなった。
三ヶ月以上の月日が経った。
八月の上旬だったか、母さんが見舞いから帰ってきたとき、こんなことを言っていた。
「最近、凜が元気になってきたのよ」
「え?」
俺は思わず訊き返してしまった。凜、とは姉貴の名前だ。
「笑顔が増えたの。やっぱり、笑顔が一番だよね」
最期のときまで、強く優しく生きていたいという願望の表れかもしれない。しかし、何がその気にさせたのだろう。きっかけがあってこそ、結果が追いかけてくる。姉貴の心に新風を吹かせた発生源があるはずだった。・・・そんなことを考えても何も始まらない。俺は今度訪れてみようかと思った。だが、そうこうしているうちに夏休みは終わり、中学三年二学期が始まった。
俺は目立つ言動を起こすタイプじゃない。教室の隅で一人、読書に耽ることが当たり前だった。推理小説の世界に浸ることが、俺の一番の楽しみだった。友人も少ない。というか、いないに等しかった。それを別に悪いことだとは思っていない。友情だの恋愛だの、世間一般の中学生が夢中になるというそれらに興味は無かった。
夏という季節は去るのが惜しいのか。九月になっても、日本列島は太陽に熱せられていた。燦燦と注ぐ日光の眩しいその日、帰りのホームルームを終えると、俺はいつものように即効家路を踏む。
急転直下というべきか。事態は一変した。
家には誰もいなかった。自室に入って携帯を確認すると、二十件近くの着信があった。母さんからだった。メールも一件。それを開くと、俺は驚愕のあまり、手が震え始めた。そして、すぐに家を飛び出し、病院へと向かった。
姉貴が死んだ。
それも・・・。それも・・・!
泣くことはなかった。何故ならば、そう、突然すぎて。
動かなくなった姉貴を前に、俺は何の言葉も出なかった。哀しいとか悔しいとか、そういう感情よりも、どうして、という疑惑の方が大きかった。
だからこそ、俺にはやるべきことがある。今を生きている俺には、使命がある。
それを果たすまでは、姉貴の墓に線香をあげることも、追悼の花を供えることもできなかった。そう、俺は決めたのだ。固く誓ったのだ。
でも、いつか必ず――。
俺は有名高校に入ることをやめた。姉貴と同じ高校に入学することを決めた。その理由は・・・もちろん、姉貴の死だ。
高校に入学してからも、俺のスタイルは変わらなかった。別に友人を作るつもりはなかった。時間があれば、文庫本を片手に読書に耽る。十分に推理小説の世界を冒険できれば、俺の高校生活は上々といえた。
しかし、そうはならかなかった。
こんな俺に話しかけてきた奴がいた。
それが、俺の「何か」の終わりを告げるサインだったのかもしれない。