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後編

 何が起きたのか、私にはちっともわからなかった。

 ただ気がつくと奥谷くんは糸が切れた操り人形みたいに用具室の戸口でうずくまり、彼が洗ってきてくれた冷水器ががらんと音を立てて床に転がった。ひゅうひゅうと荒い呼吸が聞こえてくる。膝に顔を埋めているから、表情は見えない。


 奥谷くんにとっての彼女は、苦手な女の子という次元の話ではなかったようだ。

 多分、彼女が過去に奥谷くんを深く傷つけ、奥谷くんはそれを今でも許せていないということなんだろう。そして彼女はそれでも謝りたくて、バスケ部の練習を、奥谷くんをずっと見に来ていた――。

 元カノ、とかかな。

 私はそう考えかけて、でもすぐに打ち消した。ただの痴話喧嘩という雰囲気ではなかった。現に奥谷くんはうずくまったまま立ち上がる気配もない。丸めた背中が震えているように見えた。

 何が何だかわからないし、私が一人であれこれ推測したって邪推にしかならないだろう。


 ただ彼をこのままにもしておけず、そっと声をかけてみた。

「奥谷くん、大丈夫?」

 聞いてしまってから、なんて白々しい質問だと思った。

 大丈夫なはずがないのは見たってわかる。でも、だからってずけずけと事情を聞くこともできない。聞いたところで奥谷くんが、思い出したくもないようなことを話してくれるはずもない。

 一体、どんな酷い目に遭ったんだろう。

「……奥谷くん」

 私は床に転がった冷水器を拾い、用具室のバスケ部のロッカーに収めた。それから彼を振り返り、何を聞こうか数秒間迷って、自分の中で推測がつく事柄だけを尋ねた。

「奥谷くんが私の名前を呼べなかった理由って、その思い出したくないことのせい?」

 間違いなくそうだろう。私と目を合わせようとしない理由も、挨拶すらまともにできなかった理由も、きっとさっきのあの子にあるんだろう。


 熱気のこもる静かな用具室に、長い長い沈黙が流れた。

 体育館裏手の雑木林で蝉が鳴き始めた時、ようやく彼は言った。

「そうです」

 顔を上げずに、とても辛そうに言った。

「俺、忘れたいのに……あいつがいるから忘れられなくて、思い出したくないのに、苦しくて……!」

 聞いておきながら、いざ思った通りの答えが返ってくると言葉もなかった。

 何か言ってあげたいのに何も言えなかった。

 私は答えを探すように、練習中に彼が巻いてくれた右手中指の包帯を見下ろす。未だに解けもせずぐるぐるに巻かれた包帯を見ているうち、ふと思い出した。

 私は、奥谷くんの苦しみを知らない。彼が思い出したくない、忘れたい過去の傷を知らない。

 だけど、忘れたい記憶の葬り方は知っている。

「忘れたいことがあるなら、ぐるぐる巻きにして埋めてしまえばいいんだよ」

 彼に向かって私は言った。

「教えてあげようか。そういう記憶を、封印しておく方法」

 奥谷くんがそろそろと顔を上げる。まだ血の気が戻らない顔に脂汗を浮かべた彼は、私を見てこわごわ声を発した。

「封印……?」

 私は黙って頷く。

 立花は知らなかったようだけど、女の子も中二病と言うか、そういうものにかぶれることがある。


 何か埋めたいものを持って、体育館裏に集合。

 そう告げると奥谷くんは一旦帰宅し、学校指定のTシャツとジャージ姿で現れた。

 私も着替えはしていない。部活の時と同じTシャツにハーパンで、首にタオルを巻いている。家から持ってきたのは園芸用の小さなシャベルと粘着テープだけだった。

「……こ、これからどうするんですか、高橋先輩」

 心なしか緊張気味の奥谷くんを、私は体育館裏の雑木林に連れ込んだ。

 林と言っても大した広さではなく、中を突っ切るだけならものの五分でいける。それでも高く伸びる松の木の間を歩いていると、ふとすぐそばにある体育館や校舎さえ見失うことがあってどきどきする。練習を終えた夕方、林の中にはひぐらしが物寂しげに鳴いていた。

 私の目当ては一本の松の木だ。伸びる途中で何があったのか根元付近は滑り台のように湾曲していて、実際に誰かが滑るか登るかしたのだろう。曲がったあたりの幹だけいやにつるつるしていた。

「ここに埋めたんだよね」

 私がその根元にしゃがみ込み、地面にシャベルを突き立てる。

 ざくっと小気味よい音がした。

「何を埋めたんですか」

 すぐ隣にしゃがみ込んだ奥谷くんが訝しそうな声を発した。

「だから、記憶。私の忘れたい、思い出したくない記憶だよ」

 左手でシャベルを握り、松の木の根元を掘り起こすと、夏の土の匂いがたちまち辺りに舞い上がった。程なくして地中からは見覚えのある物体が現れる。

 粘着テープでぐるぐる巻きにされた紅茶の缶だ。黒い土に塗れていたけど自分で埋めたからすぐにわかった。私はシャベルを足元に置き、手のひらが汚れるのも構わず土を払い落とした。それから缶を覆う粘着テープを剥がしにかかる。

「な、中に何入れたんです?」

 奥谷くんがなぜか慌てている。

「別に死体とかじゃないよ」

「わ……わかってますよっ」

「見ればわかるよ……って言いたいところだけど、奥谷くんは見たことないかな」

 利き手が使えない今、強力な粘着テープには少し手こずったけどどうにか全て剥がした。べたつく缶を掴んで蓋を開ける。奥谷くんがどんな想像をしたかわからないけど、缶の中から一枚の折り畳んだプリント用紙が出てきた時、彼は拍子抜けしたように目を瞬かせた。

「……これは?」

「創部届」

「へえ……見るの、初めてです」

 校内で新たに部活動を設立する際に必要な届け出が、創部届だ。

 土に塗れた私の手が広げた用紙は、あっという間に黒く汚れた。だけど記入が必要な枠内は真っ白なままだった。創部理由、活動内容、部長や部員の氏名、顧問の名前と押印欄――どこにも、何も書かれていない。

「これが私の忘れたい記憶」

 懐かしいその紙を見下ろしながら、私は感傷に囚われつつ打ち明ける。

「一年の頃の話なんだけど、私、女子バスケ部を作ろうとしてたんだ」

 プリント用紙を覗き込んでいた奥谷くんがこちらを見――かけて、すぐに目を逸らした。

 私はその反応をちょっとだけ笑い、話を戻す。

「去年の私は何と言うか、全能感みたいなものに取りつかれてて。その気があれば何でもできるって調子に乗ってたんだ。進学したこの高校に女バスがないのは知ってたけど、だったら作ればいいじゃんって軽く思ってた」

 立花が言っていた、中二病の症状の一つだ。

 やろうと思えば何でもできる、不可能なんてないと思い込んでいた。

「でもまあ、そんな簡単じゃないよね。うちの体育館狭いし、新しく部活動作ったら既存の部活の練習場所減っちゃうし。顧問になってくれる先生も全然見つからなかったし、それどころか『男子のバスケ部に迷惑かかるからやめろ』って言ってくる先生もいて」

 その言葉がまるで脅しみたいに聞こえた。

 大人は皆間違ってる。そんなことも、あの頃思っていたっけ。

「当時の私には中学から一緒のバスケ仲間がいたんだ。最初のうちは皆も女バス創部に熱心だったけど、先行きは真っ暗、先生には疎まれるじゃ嫌になって当然だよね。一人減り、二人減りって感じで、気づけば私ともう一人の子だけになってた。私はたとえ二人だけでも創部をやり遂げるつもりでいたけど――」

 一番思い出したくない、忘れたくない記憶がそこだ。

 中学時代のチームメイトで、一緒に登下校もするくらい仲のよかったその子が、私に言った。

「『青春映画みたいなことが現実になるわけないじゃん。あんた、調子乗りすぎてて痛いよ』って、その子に言われた」

 奥谷くんが息を呑むのが聞こえた。

 私は創部届を折り畳み、紅茶の缶の中へ戻した。

「その子の言うことは正しかったけど、さすがに傷ついて心折れたな、その時は」

 何でもできる気がしていた心があっさりと冷え切って、私は我に返った。

 我に返った途端、自分の思い上がりと暴走と失くしたものの大きさに気づいて、泣きたくなるほど落ち込んだ。

「結局その子とも仲違いして、私は創部を諦めた。へこみすぎてもう、それどころじゃなかったよ」

「やっぱり、バスケされてたんですね」

 奥谷くんがそこで口を挟んだ。

 私が彼の方を向くと、彼はこちらを見ていなかったけど、代わりに真剣な目を紅茶の缶へ向けていた。

「わかる?」

「はい。キャプテン……立花先輩が『名前呼ばれてたら的確に反応できてた』って言ってたんで」

「あれは買い被りすぎだけどね。さすがにブランクあるし、そこまでじゃないよ」

「あと、突き指に慣れてるって聞きましたし」

 そうだ、突き指はバスケ部員ならよくある負傷だ。

 私にとっては久々の、懐かしいくらいの痛みだった。

「それでうちの部のマネージャーになったんですか」

「うん。立花が声かけてくれて、誘ってくれたから。一時期はバスケって単語聞くのも嫌だったけど、やっぱり、好きだったから」

 立花が私の無様な暴走や元チームメイトとの仲違いについて、どこまで知っているかはわからない。あいつのことだから何もかも知っていそうな気がするし、そうだとしてもいちいち言ってはこないだろう。

 私にとっては忘れたい、でもなかなか忘れられない記憶だったから、こうしてぐるぐる巻きにして葬った。去年の話だ。私の若気の至りの集大成がこれだった。

 あれから一年が過ぎ、こういうことでもなければ思い出さないくらいには薄れていたけど。

「何か、すみません。俺のせいで高橋先輩まで嫌なこと思い出しちゃって」

 奥谷くんが俯いた。

 私は笑って、蓋が開いたままの紅茶の缶を彼へ差し出す。

「いいよ、私がしたくて誘ったんだから。で、奥谷くんは何を埋める?」

「……これ」

 ジャージのズボンのポケットから、奥谷くんは皺くちゃの、だけど妙にカラフルな紙切れを取り出した。

「サイン帳ってわかります? 卒業前に配るやつ」

 私は頷いた。実際に配ったこともあった。クラスや部活の仲のいい子に配って、プロフィールやメッセージなどを記入してもらって、思い出として取っておくあれのことだ。

「中学卒業する時に、あいつから貰ったんですよ。返すどころか何にも書けませんでしたけど」

 奥谷くんは苦しそうに顔を歪めて語る。

 あいつとは、あの女の子のことだろう。髪が短い一年生の、奥谷くんに謝りたいと言った彼女。

 思い出すのもまだ辛いようで、奥谷くんは何度も深呼吸を繰り返してから切り出した。

「中学の頃、あいつに告られたんです」

 私が驚いたのがわかったのか、彼は慌てたように語を継ぐ。

「ち、違うんです。告られたのは事実なんですが……嘘、いたずらだったんです」

「え……」

「告られて舞い上がってる俺を見て笑ってやろうって計画だったそうです」

「何それ。最低の計画だね」

 思わず吐き捨てた。誰かを馬鹿にする為に嘘をついて騙そうなんて、聞いただけでむかついた。

 奥谷くんが弱々しい笑い声を立てる。

「俺、中学の頃からちびだったし、あんまり喋る方でもないから、女子からすれば格好のターゲットだったんですよ」

「だからって……!」

「いいんです、自分でもわかってます。クラスではずっと弄られキャラだったんで」

 そんなことが質の悪いいたずらの免罪符になるはずもない。私は憤ったけど、奥谷くんは淡々と続けた。

「俺、あいつとも仲いいどころか、全然話したことなかったんです。それで手紙貰って、放課後に公園に呼び出されて、何も知らないでちょっと困ったななんて思ってました。いきなり告られてもよく知らない奴とは付き合えないし、いい加減なこともしたくないし、友達からならいいよって言おうなんて考えてて……公園で待ってたあいつに、その通り言いました」

 そこで奥谷くんは言葉を区切り、目を伏せた。

「そしたら遊具の陰に隠れてた他の女子達が一斉に飛び出してきて、奥谷のくせに生意気だとか、調子乗るなとか散々言われて。俺が告白を受けないで格好つけたこと言ったから余計に嫌われたみたいです。俺も自分で真面目に考えた後だけに、死にそうなくらい恥ずかしかったです」

 見る目のない女子達もいたものだ。いきなり告白しても引かないどころか真剣に考えてくれて、『いい加減なことはしたくないから友達からなら』なんて言ってくれる男の子は滅多にいるものじゃないのに。

「その後、どうやって家に帰ったのかすら覚えてないです」

 奥谷くんが皺だらけのサイン帳の一ページを、紅茶の缶の中へ差し入れた。

「でも責められて、馬鹿にされて笑われたことだけは覚えてて、忘れられないんです。高校上がったら忘れられるかと思ったら、あいつと同じ学校で、顔合わせる度にあの時のこと謝りたいとか言われて」

 あの子はどうして奥谷くんに謝りたいんだろう。ふと疑問が頭をもたげた。

 罪の意識に苛まれ、許してもらって楽になりたいのか。同じ高校になったから、ぎくしゃくしたままじゃいけないと思ったのか。それとも。

「いつかは許さなきゃいけないってわかってるんです」

 奥谷くんが低い声で続ける。

「許した方が忘れられるんじゃないか、とも思うんです。でもやっぱりあいつの顔を見ると思い出して、辛くて、身体が震えて……駄目なんです」

 私は缶の蓋を閉める。

「なら、埋めちゃおうか。奥谷くんの忘れたい記憶も、私の忘れたい記憶と一緒に」

「はい」

 頷いた奥谷くんが、私に手を差し出してくる。

「テープ巻くの、俺やります。貸してください」


 包帯を巻くのが上手い奥谷くんは、缶にテープを巻くのも上手かった。

 缶の色が見えなくなるくらいきっちりとぐるぐる巻きにすると、さっき私が掘り出した地面の穴に、さながら葬るように横たえる。

 シャベルを使って缶にそっと土をかけると、程なくして缶は埋もれ、見えなくなった。

「タイムカプセルみたいですね」

 埋め終わってから奥谷くんが言った。気のせいか、声が明るくなったような気がする。

「そうだね。負のタイムカプセル?」

 ゆっくりと立ち上がりながら私は応じた。ずっとしゃがんでいたせいで膝が変な感じだった。

「いつか掘り出しに来るんですか、高橋先輩」

「どうだろ……大人になったら、案外掘り起こしてみたくなるかもね」

「そうですね。大人になったら」

 私の言葉を噛み締めるように、奥谷くんが繰り返す。

 大人になった私がどんなふうに生きているか、今は想像もつかない。でも私はここに記憶を埋めてから一年、気がつけば滅多に思い出さないほど忘れ始めていた。いつかこの記憶をふと思い出して、そんなこともあったなって笑って振り返る日すらやってくるのかもしれない。

「それまでには俺も、乗り越えられるよう頑張ります」

 奥谷くんも立ち上がり、私の方を見た。

 初めてちゃんと目が合った。奥谷くんは一瞬怯んで目を逸らしかけたけど、やがて慎重にこちらへ視線を戻す。それから私を見て、真面目な顔で顎を引いた。

「ありがとうございました、高橋先輩」

 奥谷くんの顔を初めて真正面から見た私は、彼なら大丈夫だろうと確信していた。

 いつの間にか私と話をしてくれるようになっていた。私の名前も自然に呼んでくれるようになった。奥谷くんならきっと、忘れたい記憶を乗り越えて前に進めるだろう。

「うん。じゃあ、帰ろう。そろそろ日が暮れるよ」

 松の梢越しに見る空に、微かな星が灯り始めていた。ひぐらしの声も気づけば止み、雑木林には夜の虫の声が響いている。

 私達は松の木の根元を離れ、雑木林を抜け出した。そして何事もなかったように家路に着いた。

 帰り道の奥谷くんは口数少なだったけど、もう私から目を逸らすことはなかった。


 数日後、バスケの練習に出た私を、少し早めに来ていた奥谷くんが待っていた。

「あいつがまた謝りに来たから、今度はちゃんと話をしたんです」

 練習前、まだ静かな体育館を二人でモップがけしながら、彼は私にぽつぽつと語った。

「謝られても許せるかどうかわからないけど、なるべく忘れるようにするから、もう謝らないでくれって」

 言われてみれば、あの女の子はいつしか姿を見せなくなっていた。練習を覗きに来なくなったということは、奥谷くんのその言葉に納得してくれたんだろう。


 私は少しの間だけ、あの子のことを考えた。

 夏休み中もほぼ毎日学校へ来て奥谷くんに謝ろうとしていた、あんなにも必死に縋りつこうとしていた彼女は、かつてクラスメイトの罪深いいたずらにどんな気持ちで加担したんだろうか。もしかすると彼女にも忘れたい、思い出したくない記憶があるのかもしれない。

 いや、忘れたい記憶を何も持っていない人の方が珍しいに違いない。それが自分の罪であろうと、誰かの罪であろうと、乗り越えなければいけないのは自分自身だ。私と奥谷くんはそれを乗り越える為に、ぐるぐる巻きの記憶を地面に埋めた。


「あいつと話ができたのも、高橋先輩のお蔭です」

 奥谷くんはすっかり私の顔を見て話ができるようになっていた。

 私は軽く笑って応じる。

「封印、効果あったみたいだね。よかった」

「はい。教えてくださりありがとうございました」

 その言葉の後、彼も笑おうとしたようだ。まだぎこちなさは残っていたけど、私を見て優しく微笑んだ。

「高橋先輩は、真っ直ぐな人ですね」

 思いがけなく誉められて、私はうろたえた。

 そんなふうに人から言われたのは初めてだった。

 私が反応に困っていることに、奥谷くんは気づかなかったようだ。床を拭くモップを見下ろしながら続ける。

「俺、高橋先輩がバスケやってるとこ見たいです。今度一緒にやりませんか」

 私はモップを握る自分の右手に目をやる。

 あの日、ぐるぐる巻きにされていた中指の包帯はすっかり取れていた。

「嬉しいけど、今の私じゃシュートも決められるか怪しいよ。もう一年やってないんだから」

「俺が教えますよ。練習でも走り込みはしてるし、すぐに勘取り戻せるんじゃないですか」

「あ、それならいいかも。勘戻るまでへなちょこだろうけど、笑わないで教えてね」

「笑いませんよ」

 奥谷くんがそう言った時、体育館の入り口にスポーツバッグを抱えた立花が現れた。あくびをしながら声をかけてくる。

「おはよー。高橋も奥谷も今朝は早えなー」

「おはようございます、キャプテン!」

 お辞儀と共に返事をした奥谷くんが、モップを握りしめて勢いよく駆け出した。私と話せるようになったと言っても、他の人に見られるのはまだ落ち着かないのかもしれない。こちらには目もくれずモップがけを進めている。


 私も同じようにモップがけを再開したら、立花がこちらへ近づいてきて、私の耳元で囁いた。

「お前、あいつを手懐けたのか? 普通に喋ってたじゃねえか」

「って言うか、治ったんじゃないかな」

 同じく小声で答えると、思いっきりうろんげな顔をされた。

「治るにしたって、何の前振りもなくあっさり治るもんじゃなくね?」

「あっさり治るものもあるんだよ、多分ね」

 他の症例は知らないけど、奥谷くんのはきっと治る。いつか痕も残らないくらいにきれいに治ってしまう。根拠はないけど、私はそう思っている。


 ふと見ると、モップがけを再開したはずの奥谷くんがじっとこちらを見つめていた。

 手を止めて私と立花を見ていて、私と視線が合うと驚いたように両目を見開いた。

 私達が彼のことを話しているって、不安に思っているのかもしれない。何でもないよと軽く手を振れば、彼はぎくしゃくと会釈を返した後、またいそいそとモップがけに勤しみ始めた。さすがに手を振られるのは恥ずかしかったのか、顔がちょっと赤くなっていた。


「なあ、高橋よ」

 立花が不意に私を呼んだ。

 それで私がそちらを向くと、立花は私に対し、まるで呆れたような苦笑いを浮かべてみせた。

「この場合は治ったんじゃなくて、別の病気にかかったって言うんじゃねえ?」

「……え? どういう意味?」

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