前編
一年の奥谷くんは女の子が苦手らしい。
練習前に顔を合わせてもまず目が合わない。私の顔を見てくれない。
「おはよう、奥谷くん」
「お、おは……います」
挨拶だってこの調子だ。聞こえるか聞こえないかの声でしか返ってこない。実はこれでもましになった方で、入部した直後は『……ます』しか聞こえない有様だった。
私だってバスケ部マネージャー、部の一員だ。
三年の先輩が引退してからというものバスケ部のマネージャーは私一人きりで、皆の足を引っ張らないよう精一杯やってきた。同じ二年の部員はもちろん、入部したての一年の子達ともそれなりに上手くやってきたつもりでいたのに、奥谷くんとだけは未だにぎくしゃくしている。
何とか仲良くなりたいとあれこれ話しかけてはいるんだけど、目すら合わせてもらえないまま夏休みに突入していた。
「ってか、バスケ部で女嫌いとかキャラ作りすぎだよな」
と語るのは我がバスケ部の現キャプテン、立花だ。
私と立花は中学時代からの知り合いだった。中学の頃は男バスと女バスでそれぞれ活動していて、学年が同じということもあってそれなりに話す間柄だった。
うちの高校には女子バスケ部がなかったけど、いち早くバスケ部に入った立花が声をかけてくれてマネージャーをやることになった。三年生が引退した今は部について二人で話すこともよくあり、私が奥谷くんの名前を出したら、立花は何やらしたり顔で語りだした。
「いいか高橋、あれは病気だ。それも男特有のな」
「病気!? 奥谷くん、病気なの?」
思わず聞き返すと立花はもったいつけるように首を振り、
「違うんだよ。男ってのは十代も半ばになると『洋楽かっけえ、邦楽だせえ』だの『大人は皆間違ってる』だの『やろうと思えば何でもできる』だのと思い込む病気にかかるもんなんだよ」
「ああ、中二病って意味の病気ね」
「それだよ。そして奥谷の女嫌いもそういう病気の一環だ」
立花の口調はお医者さんみたいにやたら自信たっぷりだった。
「『女と口利くなんてチャラチャラしてて格好悪い』とか『男同士の方が気楽だし女はうるさくてめんどい』とか、そういう意識でもあるんじゃねえの。意外と格好つけなんだろうな」
奥谷くんは見るからに温厚で真面目そうな子だ。身長は百五十五センチくらい、うちの部では小柄な方だけど、そのハンデを感じさせないような敏捷なプレーをする。立花が語るようなことを考えているとはとても思えなかった。
「そういう人かな、奥谷くん」
異を唱える私の前で、立花は大袈裟に肩を竦めてみせる。
「そういうもんなんだって。女にはわかんねえだろうけどな」
「そっかな……」
「つか、お前だって知ってんだろ。奥谷のこといつも見に来てる女子いるけど、あの子とだって一言も喋んないって言うじゃん」
実は一年生が入部した五月以降、練習の度に遠目から見学に来ている女子生徒がいた。
名前は知らないけど一年生で、髪の短い、結構可愛い子だった。奥谷くんが練習に出ていない日は体育館を覗くだけで帰ってしまうので、彼を見に来ていることは間違いない。ただ奥谷くんの彼女かと言えばそうでもなく、話しかけようとするその子を華麗にスルーする奥谷くんの姿が部内でも目撃されていた。
「あいつ、もてんのに格好つけとかむかつくよな。俺だったらプライドかなぐり捨ててでも付き合うけどな」
立花のやっかみを私も華麗にスルーして、奥谷くんの話に戻す。
「じゃあ、奥谷くんのことはそっとしておくのがいいみたいだね」
「それしかねえだろ。どうせ一過性の病気だ、治るときゃ治るし、治んなくてもお前のせいじゃねえから嫌われてるとか考えない方いいぜ」
そう言い切ると、立花はまたしたり顔になって続ける。
「ま、男ってのは多かれ少なかれそういうのにかぶれるもんだからな。理解してやれよ、高橋」
立花の口ぶりではまるで、女の子は中二病にかからないとでも思い込んでいるかのようだった。
私もあえて反論はしなかった。
キャプテンとの話し合いの結果、私は奥谷くんをそっとしておくことに決めた。
と言っても今までと接し方を大きく変えるわけじゃない。挨拶はするし、部活動で必要があればちゃんと話しかける。他の部員と態度を変えないように心がける。目を逸らされてもへこまずに用件は伝える。こんなところだ。
「奥谷くん、モップ運ぶの手伝ってくれる?」
練習前、早くから来ていて手が空いていた奥谷くんに声をかけると、目に見えてぎくりとされた。
「……はい」
消え入りそうな声で答えた奥谷くんを連れ、体育館の用具室に入る。練習前のモップがけは一年生とマネージャーの仕事だ。私が用具室のロッカー内にある人数分のモップを手渡すと、奥谷くんはこちらを見ないままぎくしゃくと会釈をする。
「あの……これ。持ってきますんで」
「うん、お願いね」
私が頷き返したのを見もせずに、奥谷くんは逃げるように体育館へ戻っていく。
やっぱり目が合わないなとか、声かけただけで微妙な反応されたなとか、そういえば奥谷くんには『高橋先輩』って呼ばれたことないなとか、考えないようにしていても考えてしまう。
いっそ話しかけない方が奥谷くんにとってはいいのかもしれない。でもそうすると他の一年生部員と差ができてしまう。彼を避けているように思われるのも、彼に仕事を頼まないようにするのも、他の部員からすれば不公平に見えるだろうからいい対応ではない。しばらくは私の方が気にしていないそぶりで、皆と同じように接していくしかないと思う。
ただ、部内での奥谷くんはおとなしくもなければコミュニケーション下手でもない。
ロードでは併走している私にも聞こえるくらいちゃんと声を出しているし、レイアップ練習では他の部員のシュート失敗に『ドンマイ!』と声をかけたりしている。五対五の練習ではスモールフォワードを務めているけど、シュートが決まればチームメイトと喜び合い、仲のいい部員とはハイタッチを決めたところすら見かけたことがある。
私が声をかけない限り、奥谷くんの部活動はすこぶる順調で楽しそうだった。
「よーし、休憩終わり! コート戻れ!」
キャプテンの立花が声をかけると、水分を補給していた部員達は軽くなったボトルとタオルを置いてコートへ戻っていく。
私は皆が置いていったボトルを回収し、作っておいたドリンクを今のうちに補充しておく。
八月の体育館はひたすら蒸し暑く、グラウンドへ続く戸口を開放していても風なんて入ってこない。代わりに体育館裏に広がる雑木林から蝉の声がなだれ込んでくるので余計に暑く感じてしまう。練習中の部員達も、コートで転倒すれば床が濡れてしまうくらい汗を掻く。その都度モップで拭きに行かなければいけない私も、髪の結び目が嫌な感じに湿っていた。この時期、水分補給は大事だ。
皆のボトルの蓋を開け、一本一本にドリンクを注ぎ足し終えた時だった。一息ついてふと顔を上げた私は、体育館の入り口に立つ華奢な人影を見つけた。
あの子、今日も来てるんだ。
奥谷くんの練習を見に来ている、髪の短い一年生。夏休み中だというのに制服姿で、コートの中をじっと見つめている。可愛らしい顔立ちをしているけど、この距離から見てもわかるくらい表情は真剣だ。
彼女ではないようだけど、片想いなのかな。こんなにもしょっちゅう見に来るなんて一途で可愛いと思うのに、スルーするなんて奥谷くんはちょっと酷い。案外、皆の前で話しかけられるのが嫌なだけで、二人きりでいる時は話すこともあったりして。
青春っぽい妄想に耽る私の耳に、
「あっ、先輩!」
奥谷くんの叫び声が聞こえた。
名指しされたわけでもないのにとっさに振り向けたのは勘だったような気もするし、ボールが空を切る気配を感じ取ったからかもしれない。
振り向いた瞬間に見えたのは今まさに私の顔面を直撃せんとしているボールだった。
「わあっ」
慌ててカットしようと手を突き出す。
タイミングが少しずれ、ボールは私の右手の指先をかすめた。顔面への直撃は免れたものの、鈍い痛みが右手の中指で疼いた。
「大丈夫か高橋!」
右手を抑える私の元へ、立花がすっ飛んでくる。
私は気まずい思いで苦笑した。
「ごめん、突き指したみたい」
「あのくらいカットできるだろ、どうしたんだよ」
「ちょっとよそ見してて……ごめんね。大したことないと思う」
「気をつけろよ。ってか右手かよ、包帯巻けるか?」
眉を顰める立花の背後に、今度は奥谷くんが駆け寄ってくるのが見えた。息を弾ませながら申し訳なさそうな顔をする彼が、私に向かって頭を下げる。
「すみません。俺が、ボール弾いたから」
「あっ、気にしなくていいよ。私がよそ見してたんだし」
私は痛くない左手を軽く振って応じた。練習中なんてどこにボールが飛んでいくかわからないんだから、今のは完全に私が悪い。
なのに奥谷くんは項垂れたままで、立花もそんな後輩を厳しい目で見ている。
「奥谷。ボールが飛んだらちゃんと声出して知らせねえと駄目だろ」
「はい……」
「高橋だって名前呼ばれてたら的確に反応できてたんだぞ」
立花は奥谷くんを咎めると、ちらりと私に目をやってから言った。
「高橋に包帯巻いてやれ。利き手だからな」
「え? いや、自分でやるからいいよ」
私は遠慮しようとしたけど、その時にはもう奥谷くんはタオルで自分の手を拭っていた。そしてこちらを見ないまま、深刻な顔で言った。
「やります。包帯、ください」
それで私はコート脇に置いておいた救急箱を左手で開け、包帯を出して奥谷くんに手渡す。
バスケ部員にとって突き指はよくある負傷だから、大抵の部員は包帯を巻くのが上手い。奥谷くんも例に漏れず手慣れていて、私の右手を軽く持ち上げ、中指を固定する為にぐるぐると包帯を巻いていく。
私は息を詰めて、その手元をじっと見ていた。女の子が苦手な奥谷くんの顔を見ているのは悪いだろうし、かといってあらぬ方を見ているのはかえって失礼だ。そうなると奥谷くんの手の動きを見ているしかなかった。
奥谷くんの手はもう子供らしさが抜けた、指のきれいな筋張った手だった。
「……すみませんでした、先輩」
不意に、奥谷くんがぼそりと言った。
コートから聞こえてくる部員達のかけ声に掻き消えそうな声だった。
「奥谷くんのせいじゃないよ」
私が同じように声を落とすと、奥谷くんの肩がびくっと跳ね、包帯を巻く手が一度止まった。
恐る恐る表情を窺えば、彼は居心地悪そうに顔を背けていた。頬が強張っている。よほど女の子が苦手らしい。
「ごめん。話しかけたら邪魔だね」
余計なことを言ったと思い、私は口を噤む。
奥谷くんは顔を背けたまま言った。
「あの……すみません、俺……」
苦しそうに絞り出す声を、私は耳を澄ませて聞き取らなければならなかった。
「先輩の、名前呼べなくて……もしさっき、ちゃんと呼べてたら……」
練習中だからか、奥谷くんは酷く汗をかいている。短い髪の先に雫が下がり、こめかみから頬にも絶え間なく流れ落ちていた。
「俺のせいで、先輩に怪我させて……すみませんでした」
奥谷くんは私の名前を呼べなかったことをとても気に病んでいるようだった。立花の言うような格好つけではなく、きっと本当に女の子が苦手なんだろう。その理由はわからないけど、奥谷くんがいい子だとわかって私はむしろほっとした。
「気にしないで。私、突き指慣れてるから」
噤んでいた口を開いて、私はそう言った。
私の言葉に奥谷くんは驚いたようだ。勢いよくこちらを向いてから慌てて目を逸らしていた。
「慣れてる、んですか。マネージャーでも突き指、するんですね」
「うん。ほら、シュート練習に付き合うこととかあるし」
「あ、そうですね……」
納得したのかどうか、奥谷くんは曖昧に唸る。
私は笑って続けた。
「だから気にしなくていいよ。でも、名前は呼んでもらえたら嬉しいかな」
ちょうど包帯を巻き終えたところだった。包帯の端を引き裂いて結ぶ最中の奥谷くんが、黙って表情を硬くする。
奥谷くんの苦手意識は尊重すべきだと思うし、私が咎める立場でもない。でも私にだって言い分はある。それだけは話しておきたかった。
「私はコートに立つことはないけど、それでも部の一員、のつもりだから」
包帯を結んだ奥谷くんは唇を結んでいる。
「無理ならいいけど、私のこともバスケ部の仲間だって思ってもらえたら嬉しいなって」
そこまで語ると、私は包帯を巻いてもらった手を軽く上げて眺めた。なかなかの出来栄えだ。本職に勝るとも劣らない。
「ありがとう、奥谷くん。練習中なのにごめんね」
手を引っくり返して包帯の巻き具合に見入る私を、奥谷くんは横目で一瞬だけ見た。
それから意を決したように、
「た……高橋、先輩」
急に名前を呼ばれたので、びっくりした。
たどたどしい口調だったけど、自然な呼び方でもなかったけど、確かに呼んでくれた。
「何?」
驚きを顔に出さないよう気をつけながら聞き返す。
すると奥谷くんは早口になって、
「本当にすみませんでした。俺、練習戻ります」
そう言うが早いか踵を返し、コートの中へと帰っていく。
部の皆が彼を笑顔で迎え入れるのを、私は呆然と見送った。その後で我に返ったら、思わず口元に笑みが浮かんだ。
「……なんだ」
やっぱりいい子じゃん、奥谷くん。
不注意で怪我をした後だというのに、私はいい気分でマネージャーの仕事に戻った。右手を庇いながら作業をしていると、ふと視線を感じた。
体育館の入り口に立つあの女の子が、いつからか私を見つめていた。
私が奥谷くんといたから気にしていたんだろうか。私が彼女を見つめ返すと、彼女ははっとして渡り廊下の方へと駆け出した。
そのまま、練習中は戻ってこなかった。
怪我をしているといいこともあって、今日は部の皆が優しかった。
練習後の掃除や片づけを積極的に手伝ってくれて、嬉しいやら恐縮するやらだった。私は右手に負担のかからない作業ばかりやらせてもらって楽をしていたので、申し訳ないなという気持ちにもなった。
特に奥谷くんは責任を感じているのか、最後まで残って後片づけに協力してくれた。
「じゃあ俺、これ洗ってきますんで」
相変わらず目は合わせてくれなかったけど、私が運ぼうとした冷水器をひょいと持ち上げるなり言った。
「た、高橋先輩……は、先にお帰りになってください。怪我、してますし……」
もごもごと口の中で転がすような物言いだった。でも嬉しかった。
「ありがとう。でも私、用具室の整理が残ってるからここにいるよ。奥谷くんこそそれ終わったら、本当に帰っていいからね」
私の返答に奥谷くんは困惑したようだった。
もしかしたら意外と厳しい立花に『責任取って高橋を手伝え!』なんて言われたのかもしれない。でも私に反論はせず、冷水器を提げて足早に体育館を出て行った。
私も用具室に入り、掃除に使ったモップやトレーニング用のラダーを片づける。
埃っぽい匂いのする、窓も締め切られた用具室で汗をかきかき整頓していると、不意に背後で気配がした。奥谷くんが戻ってきたかなと思い、振り向いた。
でもそこにいたのは奥谷くんではなく、あの一年生の女の子だった。
用具室の戸口に立ち、酷く張り詰めた表情で私を見つめていた。
「先輩」
その子の声を初めて聞いた。可愛い顔立ちから想像するよりもずっとハスキーな声だった。
でも、それはもしかしたら緊張しているせいなのかもしれない。
「えっと、何?」
私は聞き返し、少しでも愛想よくしようと言い添えた。
「いつも練習見に来てる子だよね?」
なるべく微笑もうとした私とは対照的に、彼女は笑わなかった。シャツの袖から伸びた細い腕の先、小さな拳が固く握られ、震えていた。
「そう、です。いつもすみません」
「ううん、別にいいよ。ところで私に何か用かな」
こちらから尋ねると彼女は微かな息をつき、
「先輩は、奥谷と仲がいいんですか?」
唐突に思える質問をぶつけられた。
この手の質問には割と慣れている。バスケ部唯一の女子マネージャーともなれば、他の部員との仲を勘繰られることはよくあった。特に立花とは付き合いも長いせいかしょっちゅう聞かれるので、その度にあっさり否定することができた。
もちろん今回も即座に否定した。
「そんなことないよ。同じ部活だから話すことがあるだけ」
実際、今日のやり取りを見たところで私と奥谷くんの仲を疑う人はまずいないだろう。仲がいいようにすら見えないはずだ。でも練習の度に見に来ているこの子にとってはそうは見えなかった、ということもあり得る。誤解があるなら早めに解いた方がいい。
ところが、私の答えにも彼女は安心した様子を見せなかった。それどころかますます緊張した面持ちになった。
「奥谷と、話ができるんですか?」
「え……う、うん。同じ部活だから、少しくらいはね」
「なら、お願いがあります。私も奥谷と話が――」
彼女が言いかけた時だった。
「あの、高橋先輩……。冷水器洗ってきました」
奥谷くんの声がしたかと思うと、彼もまた用具室の戸口に姿を現す。一年生の彼女が振り返り、そして奥谷くんも彼女を見た。
途端に彼の表情から、すうっと血の気が引いた。
「奥谷!」
女の子が短い髪を揺らし、彼の名前を叫んだ。すぐに身体ごと向き直り、彼に縋りつくようにまくし立てる。
「ねえ、今日は話をさせて! 私ずっと謝りたくて、聞いて欲しくて来たんだよ! お願い!」
一方、奥谷くんは凍りついている。目を見開き、青ざめた顔で彼女を見ている。尖った喉仏がゆっくりと上下して、彼女の言葉を飲み込もうとしているようだった。
「私と二人でいるのが嫌なら、先輩と一緒でもいいから! 話をして、私に謝らせて!」
女の子が私を手のひらで指し示す。
どうしていいのかわからない私が事の成り行きを見守っていると、奥谷くんがやがて息をついた。
「……嫌だ」
食いしばる歯の奥から振り絞ったような声だ。
「話なんて、したくない。謝られたって許すつもりもない」
奥谷くんが憎しみのこもった鋭い目で女の子を睨む。
温厚そうな彼がこんな顔をするなんて、私は想像もできなかった。
「お、奥谷……」
女の子が後ずさりをする。
「もう思い出したくないんだ。俺の前に現れないでくれ!」
奥谷くんが怒鳴ると、女の子はわっと泣き出した。
そして泣きながら用具室を飛び出し、体育館に足音を響かせながら消えてしまった。