第八話
書き直しました。2019
うきうきが止まらない。
晃と再会して、早一ヶ月が経った。
僕は、晃達がオウスに着いた頃を見計らって手紙を書いた。内容は何度も読み返したはずなのに、緊張しすぎていたからか、いまいち覚えてない。晃からの返事の内容を見るに、失礼な内容ではなかったみたいだけど、おそらく当たり障りのないことを書いたんだと思う。
不甲斐ない自分にため息を零したりもしたけど、晃と繋がりを持てたことがすごく嬉しくて、毎日が活き活きしていた。
こんな気分は初めてだ。
今まで何かを知ることだけが僕の心を湧かせるものだと思ってたけど、それ以上に興奮するものがあるだなんて思ってもみなかった。
今日は、オウスに出向く手はずになっている。
表向きは火恋の様子を見にってことになってるけど、隙を見て晃をデートに誘えたら良いな。
僕は鏡の前で何度も髪を梳かしたり、服のチェックをしたりした。裾を引っ張って直し、赤と黒のチェック柄のジレに出来たごく僅かなしわを手で擦って取る。
鏡なんて条国にきてから見向きもしなかった。部屋に鏡もなかったし。でも、オウスに行けることになってから、急いで買ったんだ。晃にだらしないかっこうは見せたくない。
「あ~。なんか、そわそわするなぁ」
僕は腹の中を這うむずむずを取り払いたくて、ぎゅっと腹を丸めた。
「ううっ。緊張する」
すごく楽しみなのに、すごく緊張してしまう。鏡の中の自分の顔が強張ってる。僕は強く頬を擦って無理矢理笑った。
「よしっ! 行くぞ!」
気合を入れて部屋を出た。
廊下を歩いていると、緊張もほんの少しだけほぐれてきた。お気に入りの小石が敷き詰められた庭――枯山水というらしい。を眺めながら縁側を進むと、ほっと息が洩れた。
ふと視線を前方に戻すと、前から浅黒い肌をした、がっしりとした体格の男が歩いてきていた。
かなり背が高い。
「ムガイだ」
僕は思わずぽつりと呟いた。
彼は、先週ハーティム国から着たばかりの新人だった。アイシャさんが結婚するので、アイシャさんの代わりに任務にあたることになる。ただ、アイシャさんは結婚式を挙げるまで、任務から退くつもりはないようで、今はムガイへの引継ぎ期間ということだった。
「こんにちは」
すれ違いざまに挨拶をすると、ムガイは巨躯を丸めて頭を下げた。
薄紫色のうねっている髪がなびく。ムガイは目も合せずに通り過ぎていった。
僕は思わず眉を顰めてしまう。
悪いやつではないんだろうけど、彼はいかんせん無口で何を考えてるのかさっぱり解らない。声を訊いたのなんて、最初の挨拶くらいなもんだ。アイシャさんと話してるのは何回か見かけたことはあったけど、それだって返事をするくらいだった。
仕事はきちんとするから問題ないんだけど、人と積極的にコミュニケーションを取るタイプではないみたいだ。
それを考慮してなかった僕は、初日にあれこれと訊いてしまったせいで、苦手意識を持たれてしまったみたいで、彼からちょっと避けられている。
訊いたって言っても、殆ど何も答えてくれなかったけど、人見知りな人がいきなりあれこれと訊かれたら答えたくても答えられないかも知れない。
また悪い癖が出たと反省したけど、してしまったものはしょうがない。ムガイとは距離をとりつつ、少しづづ仲良くなっていけば良いだけだ。
僕はムガイが縁側を曲がったのを見届けて研究室へ向った。
研究室に行くと、マルが一人で何かと睨めっこしていた。例の研究途中の煙が出る呪符だ。
「ひとりか?」
僕が声をかけると、マルは振り返った。
「うん。そう」
答えるとすぐに机の上の呪符を凝視する。王は、おそらく政務中だろう。午前中はだいたい政務に追われてるから。
「なあ、マルは行かないのか?」
答えは見えてるけど、ダメもとで誘ってみた。
「行かないよ。僕には課題があるからね」
言いながらも目線はやっぱり呪符に注がれていた。
「妹に逢いたくないの?」
僕の呆れ返った言い方に引っかかりを覚えたのか、マルは顔を上げた。
「逢いたくないわけじゃないけど、それよりも大事なことがあるんだよ。火恋にはいつでも逢えるだろ」
「相変わらずドライだよなぁ。マルは」
「そう?」
マルは眉間にしわを寄せた。怪訝そうだ。
「そうだよ。研究に関しては情熱的だけど、対人間に関してはドライだよ。マルは」
「そうかなぁ。まあ、レテラが言うならそうなんだろうね」
「なんだよそれ」
思わず笑ってしまった。
「だって僕、そんなこと気にしたことすらなかったから。でも、レテラは人のこと覗き見たり、観察するのが趣味だろ」
「嫌な言い方すんなよ」
僕が突っ込むと、マルはにっと笑って八重歯を出した。
「ごめんごめん。でも事実だろ」
「まあね」
でも別に覗きが趣味なわけじゃないぞ。
「人のことを観察してるレテラが言うんだから、そうなんだろうなってことだよ」
「いずれにせよ、お前は気にしないんだろ」
「良く分かってるじゃないか。レテラ」
マルは得意顔で、人差し指を軽く振った。
「まったく。お前といい、陽空といい、ヒナタ嬢といい、魔竜計画に参加してるやつの大半は自分勝手っつーか、協調性がないよな。アイシャさんが抜けたら僕と王くらいじゃないのか、周りを気にするやつって」
「青説様がいるだろ」
「殿下は協調性はあるだろうけど、自国のことが最優先だろ。悪く言えば、条国のことしか考えてないっていうか……」
「確かに、外部のキミたちには未だに警戒を解いてはいないね」
「だろ」
意外だな。マルもそう思ってたのか。
「でも、悪い人ではないんだよ」
「それは分かるよ」
僕が頷くと、マルは机に寄りかかって生意気な表情を浮かべ、にやっと笑った。
「それにね、レテラ。職人ってのは往々にして自分勝手なもんさ」
「は~ん」
僕は片方の眉を釣り上げる。
「疑ってるな」
マルはむくれた。
「疑ってるわけじゃないよ」
否定した後、「呆れてんだよ、自分で言うかって」とからかってやると、マルは腕を組んで、べえっと舌を突き出した。
「僕のことじゃないさ。紅説様だって研究室に篭ってるときはそうなんだぞ」
「それは知ってる」
僕は片手を挙げる。
王は研究に夢中になると他がまったく目に入らなくなる性質だったからな。
「もう。レテラなんか、さっさと行っちゃえよ。研究の邪魔なんだからさ」
マルは片手で僕をあしらった。
「はいはい。じゃあ、コインくれよ」
「ああ、そうだった」
マルはポケットから転移のコインを出して地面に向けて放った。
転移のコインは軽く地面に跳ねると、くるくると回ってワームホールを作りだす。
「じゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
マルはもう机の上の札に夢中だ。僕は、再びドキドキしてきた心臓を抑えて、暗い穴の中に足を踏み入れた。
* * *
目を開いたとき、僕は一瞬混乱した。
一見、見慣れた風景の中に火恋が立っていたからだ。
部屋の作りが、僕の条国での部屋とそっくりだと思ったんだ。でも、見回してみるとまったく違うことに気がついた。
欄間は鶴と松の木の彫刻だし、書院障子は丸窓になっていた。僕の部屋には、丸窓はなかったし、書院障子の障子は桟が複雑に組み合い、大きな楓の木の形になっていた。欄間は鷹と山が彫られている。
違う部屋だと確信した途端、また一気に緊張が走った。
「おにいちゃん。ようこそ」
火恋は小さな手で、僕の指を握った。
「あ、ああ」
声が少し裏返ってしまう。
「晃は?」
僕の問いに、火恋はにんまりと笑った。八重歯がむき出しになる。
「晃なら今来るよ。おめかししてるの」
「おめかし?」
「そう」
にやりと火恋は含んだように笑う。するとそこに、
「火恋様。わたし、やっぱり……」
と、障子越しに声がした。
僕は思わず、びくっと跳びはねた。
「もう。いまさらなにいってるの?」
火恋は腰に手をやって、頬を膨らませた。怒ってる素振りを見せながら、障子を勢い良く開けた。
「きゃっ」
小さく悲鳴が上がって、僕は息を呑んだ。
晃は髪をまとめ、前髪を片側からたらして藤の簪を挿していた。髪にかかる紫色が、晃の赤茶の瞳に映える。白い着物には大きな黒い色の牡丹の花の刺繍が施されていて、黒と白のコントラストが美しかった。でも、そんな着物よりも更にきれいだったのは、言うまでもない――晃だ。
唇に薄くひかれた紅の色。長いまつげから覘く、赤希石のような瞳。ほんのりとピンクに色づいた頬。
「こ、こんにちは。レテラ」
「あ、うん。……こんにちは」
ぎこちなく笑う晃も、また素敵だ。
「えっと……」
晃はためらうように言葉を濁して、視線を泳がせた。
(どうしたんだ?)
僕が首を傾げたとき、晃は火恋にすがりつくように言った。
「やっぱり、こんなかっこうは無理です。わたしには全然似合いません! 着替えてきてもよろしいですか?」
「なに言ってるの? すごく良くにあってるわよ! ねえ。おにい――」
「そうだよ!」
火恋が同意を求め終わるよりも早く僕は答えていた。
晃が似合わないなんて、そんなことあるはずがない。すごく、きれいなのに! そう、言おうとしたけど、喉に詰まって出ない。頬が熱い。僕は頬をぎゅっと擦った。
「……そう、ですか」
晃はぼそっと呟いて、僕を見てにこっと笑った。
「ありがとう」
「いや……本当のことだし」
僕は顔を伏せて、頭を掻いた。
(うう……。情けない)
僕の顔は今絶対に真っ赤だろう。
二十五歳にもなって、なにやってるんだろう。こんな時、陽空だったらもっとスマートにやってのけるんだろうな……。
僕は生まれて初めて、陽空が羨ましいと思った。
しばらく沈黙が流れて、火恋の小さなため息が聞こえた。
顔を上げると、火恋はやれやれといった感じで首を振っている。
そして、突然何か閃いたような表情をした。
「ねえ、おにいちゃん。わたし、オウスの街へいきたいな!」
「あ、うん。そっか、じゃあ、行こうか。僕も見てみたかったし」
ちらりと晃を窺うと、晃はうんと頷いた。
「では、仕度を致しますね」
「ひ、晃も来るんだよな?」
「はい。侍女ですから」
晃はどことなく嬉しそうに笑んで、部屋を出て行った。
「まったく!」
避難がましい声に振向くと、火恋が腰に手を当てて睨んでいた。
「なんだよ?」
「なんだよぉ!?」
素っ頓狂な声音を出して、火恋は僕に向って指差した。
「デートって、だんせいからさそうものだって、ママが言ってたわ!」
「うっ!」
痛いとこつくなよなぁ。
「ぼ、僕だって誘おうとは思ってたよ」
「いいわけしなーい!」
「うっ……」
「ママがいいわけは良くないことって言ってたわ!」
「……はい。すいません」
僕は頭を下げた。
六歳児に気を使われ、説教されるなんて、僕の恋愛偏差値は六歳児以下か……。
「情けないなぁ」
がっくりと項垂れた僕の脚を、火恋がぽんぽんと叩いて慰めてくれた。
「ファイト。おにいちゃん」
「うん。がんばるよ」
火恋と硬い握手を交わしたところで、障子に人影が映った。丁寧に障子が開かれると、晃が二人分の羽織を片腕に下げて現れた。
心臓がどきっと跳ね上がる。
「火恋様、こちらでよろしいですか?」
「うん。でも、やっぱりわたし、行くのやめる」
「え?」
晃と僕の驚いた声が重なった。思わず顔を見合わせてしまう。
「ていおうがくのシュクダイがあったのわすれてたの。でもせっかくおにいちゃんがきてくれたから、オウスの街は見てほしいの。ヒカルあんないしてあげてよ」
火恋……。お前はなんて、良い子なんだ!
「そうですか」
晃は残念そうに呟いて、僕に向き直った。
「じゃあ、行く?」
上目遣いで窺うように見る。心臓が跳びはねて、どくどくと脈を打つ。
「お、おう!」
思わず声がかすれてしまった。
咳込んで誤魔化して、僕は晃と一緒に部屋を出た。
* * *
オウスの城下町は、王都カムヤマよりは賑わいはなかったけど、それなりに盛況だった。だけど、今の僕には行きかう人を気にする余裕はない。街を見てるはずなのに、色んな情報がぶっ飛んで行って、まるで頭に入ってこなかった。
緊張で変な汗が出てくる。
(晃が横を歩いてる……)
二人きりだと意識すると、何をどうしたら良いのか分からない。
「ねえ」
ふと、遠慮がちに声をかけられて、僕の心臓は跳びはねた。
「え!?」
びっくりしすぎて、変な風に声が出てしまった。
「えへんっ!」
僕は咳払いして、「なに?」と訊きなおした。
その時、街に出てきてやっと晃の顔を見た。晃は、窺うような瞳で僕を見て、ためらいがちに笑った。
「あのさ。プレゼントって見つかった?」
「え?」
なんのことだ?
「ほら、あの……。再開した日の」
きょとんとしてしまった僕に、晃は訊き辛そうに言った。
僕は高速で頭を巡らす。
プレゼント……。プレゼント……。
「ああ! アイシャさんの?」
「うん?」
晃は小首を傾げて、「えっと」と続ける。
「名前は存じ上げないけど、女性の同僚さんにあげるって」
「ああ。うん。そうそう。それ、アイシャさんって人のこと」
「へえ」
晃は相槌を打って、瞳を伏せた。表情が少し曇ったような気がする。どうしたんだろう? 僕が目を瞬かせると、晃は顔を上げてにこっと笑った。
全身が熱くなる。やっぱり、晃の笑顔は世界一だな。優しくて、うっとりする。
「それで、見つかったの?」
「うん。まあ……ね」
僕は言葉を濁した。
実は、プレゼントは見つからなかった。というか、買えなかった。
晃達を見送ったあと、晃と再会したことや、火恋のことなどを書いていたら、気がついた時には日が暮れていて、店が閉まっていた後だったし、アイシャさんの見送りも悪気はないにせよ、すっぽかす形になってしまった。
本当、アイシャさんには悪いことをした。アイシャさんは優しいから、気にするなって言ってくれたけど。
「そっか。良かったね」
そう言って晃はほっとしたように笑んだ。
「もしかして、ずっと気にかけてくれてたの?」
「うん。だって、中断させちゃったでしょ。無事に見つかったかなって思って」
なんて、優しいんだろう。
ふと、マルとヒナタ嬢が浮かんだ。我が道のみを進む二人組みとは大違いだな。
「その……アイシャさんって方とは、付き合ってるの?」
「へ?」
思っても見なかった質問に、すっとんきょうな声が出てしまった。晃は遠慮がちに僕を見て、地面に視線を落とした。僕の気のせいじゃなければ、その瞳はどこか不安げだ。
「いや! 全然、そういうのじゃないから!」
「え?」
「アイシャさんは結婚するんだよ! 陽空ってやつと! それで、その結婚祝いのプレゼントだったんだよ!」
なんでだろう。必死に弁明してしまった。
晃が悲しげに見えて、少しでも笑ってほしくて――って、こんなことでほっとするわけないか。
「なんだ。そうなんだ」
そう言って、晃は微笑んでくれた。
陽光が薄茶色の髪を照らして、金糸のように輝く。頬に赤みが差して、少女の頃のように無邪気に見えた。晃は間違いなく、僕の否定を喜んでくれてる。
(もしかして、晃って僕のこと……)
一瞬期待が胸を過ぎったけど、首を横に振って否定した。
勘違いで恥をかきたくない。それに、せっかく逢えたのに気まずくて逢えなくなるような関係にはなりたくない。僕は晃の笑顔が見れれば、それで良いんだ。
「レテラ、お腹すかない?」
「え? ああ、うん」
突然呼び戻されて、ぎくりとしてしまった。僕はお腹を擦って少し考えた。緊張でまったく分からないけど、多分、すいてるだろう。
「すいてるよ」
そう答えると、晃はにこりと笑って、
「良かった。この近くに行きつけの店があるんだ。行ってみない?」
「うん。ぜひ!」
晃の行きつけか。どんなところだろう。
「全然高級なとこじゃないけど……」
「良いよ。そんなの」
遠慮がちに言った晃に、僕は手を振った。すると、晃は安心したように笑んでくれて、僕もほっとした。
* * *
晃の行きつけは、意外なことに食堂だった。
ガヤガヤと賑わう食堂の長椅子の端に晃と向き合って座る。
隣は中年のおじさんで、晃の隣の太った男性と一緒に来たようだ。どうやら仕事仲間みたいだった。
僕はきょろきょろと見回してから、晃に向き直った。
「意外だな。もっと、アルタイルハウス的なものかと思ってた」
「嫌?」
「ううん。全然」
僕はかぶりを振る。
「アルタイルハウスってなに?」
晃は出されたお手拭で手を拭きながら訊いた。
「ルクゥ国の食事所?」
晃の目が好奇心からか輝いて見える。
「う~んと、そうとも言えるし、そうとも言えないかな」
「どういうこと?」
「基本的には、アルタイルっていう茶褐色の飲み物を提供する店のことなんだけど、軽食も出来るね。スウィーツも結構置いてあって、女性はそれ目当てが多いかな。ほら、条国の甘味所みたいなところだよ」
「ああ」
晃は納得したように頷いた。
甘味所はスウィーツだけを扱ってる店で、奥の座敷や外の長椅子で食べたり、お茶を飲んだり出来るようになっていた。
大きな傘が椅子の近くに固定されていて、その傘がまた美しかったっけ。着物のように鮮やかな柄で、裏側も日が透けて模様が映って幻想的だった。
「レテラは行ったことあるんだね」
「うん。まあね。珍しい?」
晃の表情が意外そうだったからそう尋ねると、うんと頷いた。
「甘味所は女性の方がやっぱり多いから」
「そっか」
確かに女性はいっぱいいたもんな。
「アルタイルハウスはそうじゃないの?」
「うん。男も結構いるかな。食べ物もあるからね」
「そっか」
晃は顎を引いた。
「甘味所は、誰かと一緒に行ったの?」
ぎくりとした。
何気ない質問だったに違いないんだけど、ある人が過ぎったから。
「ううん。一人だよ」
僕は即答して笑った。頬が強張ったけど、苦笑になってないことを祈ろう。
実は、甘味所には一人で行かなかった。アイシャさんに誘われて行ってみたんだ。でも、今アイシャさんの名前を出すのは良くない気がして、つい嘘をついてしまった。
「そうなんだ。一人でなんて勇気があるね」
「そのときは、そんなに女の人がいるって知らなかったから」
それは本当だ。
「そっか」
晃は相槌を打ってメニューに目を通した。
僕もメニューを見る。当然ながら全部条国語で書かれていた。
(文字の勉強もしてて良かった)
僕はほっとした気分で、すらすらとメニューを黙読していった。
「決まった?」
晃に訊かれて、僕はメニューを閉まった。
「うん。日替わり定食にするよ。晃は?」
「わたしは豚竜のとんかつ定食にする」
「ああ。あれ、美味いよね」
「ルクゥ国にもあるの?」
「とんかつはないけど、豚竜の料理はあるよ。有名なのはステーキかな」
「へえ。ステーキってどんな料理?」
「肉を好きな硬さで焼くんだよ。味付けは塩コショウとか、バジルとか、それぞれの店で違うけどね」
「へえ。美味しそうだね」
「だろ」
僕は胸を張った。条国の料理も美味しいけど、やっぱりステーキには敵わない。豚竜ともなればなおさらだ。
豚竜は四足歩行のドラゴンで尻尾が長く、豚鼻で目は髪の毛のような体毛によって覆われている。緑の肌を持つドラゴンだ。味は、羊に似ているけど、羊より臭みがなく断然美味い。
「豚竜って、どこの国にもあるのかな?」
「あるよ」
当然、と僕が頷くと晃は意外そうに言った。
「あるんだ」
「うん。あのドラゴンは、世界各地に生息してるから。で、世界各地で食肉として捕獲されてるよ。害獣とされるドラゴンの中でも特殊だよな」
「他のドラゴンって食べたことないけど、食べれないのかな?」
晃は独りごちるように訊いた。
「僕も食べた事ないけど、ルクゥ国にいた頃に料理長に聞いた話じゃ、臭くてとても食べれたもんじゃないってさ」
「へえ。そうなんだ。レテラって物知りだね」
にこっと晃が笑う。
その笑顔は反則だ。無邪気な笑顔に心臓が一気に跳ねて、僕はくらくらしてしまった。
「レテラは、ステーキのどんな硬さが好きなの?」
「豚竜だったらレアが一番だな。牛だったらミディムレア」
「ふ~ん」
晃は含むように言って、片手を挙げた。
女性店員が気がついて駆けてくる。
「えっと、僕は日替わり。彼女は豚竜のとんかつ定食」
「かしこまりました」
店員は了承すると慌しく小走りで去った。
「ありがとう」
晃はこっそりと囁くように言った。
「いや」
僕は小さく首を振った。その時、ぼそっと晃が呟いた。
「今度、作ってみようかな」
「え?」
僕は最初わけが分からなくて訊き返した。でも、晃はにこっと笑うだけで、答えてくれなかった。だけど、数秒して脳がやっと理解した。
それってつまり、ステーキを作ってみようってことだよな。それは、自分で食べてみるため? それとも、火恋のため? ……僕のため?
少しだけ、期待しても良いのかな――食事が運ばれてくるまで、僕はそわそわして気が気じゃなかった。
* * *
「お待たせしました」
店員が食事を運んできて、晃と僕の前に膳を置いた。僕の方は、鯖の煮付けと、玄米。ナスの漬物と出汁の効いた汁物だった。
僕は苦い顔をしながら、ナスの漬物をどけた。どうにも、漬物ってやつは苦手だった。特に、ナスの漬物は噛むときゅっきゅと歯が鳴る感じがして、ぞわぞわして堪らない。はっきり言って、大嫌いだ。
「食べないの?」
晃が怪訝な表情で訊いた。
「苦手なんだ。漬物って」
「そっか。じゃあ、わたし貰っても良い?」
「晃は好きなの?」
ナスの皿を渡しながら訊くと、晃は、「まあ、普通かな」と、答えた。
「ずっと食べてるから、嫌いなわけじゃないよ。でも、にんじんの漬物は好きだな」
「へえ、それはまだ食べたことないな」
「あんまり漬物って感じがしなくて美味しいよ」
「そうなんだ」
晃がそう言うなら、今度食べてみようかな――そう思いながら、晃の膳をちらりと見た。ころもを纏った豚竜の肉が、食べ易いサイズにカットされている。刻んだキャベツが添えられていて、その横にプチトマトがあった。茶碗の中で玄米が薄黄色に輝く。蓋をされた汁物は多分、僕と同じ物だろう。
「美味しそうだね」
「ちょっと食べてみる?」
「ううん。良いよ。食べたことあるから」
「そうなんだ」
晃はちょっと意外そうに言った。
「条国に何年もいれば、何回かは食べるよ」
僕はにっと笑いながら言って、
「とんかつっていう料理はうちの国にはなかったから、初めて食べたときは驚いたな」
なんだか、懐かしさが蘇ってきた。
「サクサクしててさ。分厚い肉が食べ応えがあったなぁ」
「そのとんかつは豚竜だったの?」
「ううん。豚だったよ。その後、豚竜も食べる機会があって食べたけど。あと、牛肉でもあったな」
「そっか」
晃は楽しそうに笑った。胸がきゅんと締め付けられる。頬が赤くなるのがバレないように、僕はちょっと目線を下げた。
「どれが一番好きだったの?」
「僕は豚かな。豚竜も悪くなかったけど。豚が一番美味しかったな」
「美味しいよね、豚も。わたしも一番、豚のとんかつが好きだよ」
「一緒だね」
晃との共通点が嬉しくて、思わず声が弾んだ。すると、晃は歌うように、「ね」と言って微笑んだ。心臓に愛の矢が突き刺さる。どくどくと脈打って、息が苦しい。
晃、それは反則だ。
可愛すぎて死にそう。
「ルクゥ国と条国の料理で、他に何が違うの?」
晃は興味津々といった感じで訊いた。
「何もかも違うよ。まず、主食だろ」
「主食? ごはんじゃないの?」
「違うよ。条国は御存知の通り玄米だけど、ルクゥ国の主食はパンなんだ。ライ麦が多いかな」
「そうなんだ」
晃は驚いて目を丸くした。
「わたし、パンって食べたことないの。聞いたことはあるんだけど」
「そっか。結構美味しいよ。大体が皮が硬くて、内はもちもちしてるかな。でも、皮も内も柔らかいものもあるんだよ」
「へえ。味は?」
「小麦の味だね。味っていう味はないかな。だから、バターとかジャムとかつけて食べたり、肉とか野菜とかを挟んでサンドウィッチにするんだよ。でも、甘いパンもあるんだよ。それはお菓子の部類だけどね」
「美味しそうだね。甘いパン食べてみたいなぁ」
想いを馳せるように、晃はうっとりした表情を浮かべた。
(僕も晃に食べさせてあげたいな)
でも、この国でパンを作るのは無理だろうな……。
小麦粉は手に入ると思うし、発酵させるのも問題ない。一日置いておくか、野菜や果物を使えば出来ると料理長に習ったことがある。でも、問題なのは窯だ。
この国には窯がない。魚を焼くのも網を使って火の上で焼くから窯は必要がないんだろう。
今度もし、ルクゥ国に帰国することがあったら持って帰ってきてあげよう。転移のコインならすぐだし。
僕は密かに決心して胸を弾ませた。
「いただきます」
晃は手を合わせて食べだした。僕も同じようにして箸を持って魚をつついた。
「レテラって、箸の持ち方上手だね。練習したの?」
「ん?」
僕は顔を上げて箸を見た。「ああ」と頷いて、
「そうだね。こっちの人が箸で食べるっていうのは聞いてたから、事前に練習してきたんだよ。あっちはフォークとナイフだから」
そういえば、ヒナタ嬢はどうしてるんだろう? 一緒に食事をしたことがないから、彼女が食事のときに何を使ってるのか分からない。
普段食事は、大広間に程近い部屋に集まって皆で一緒に食べているけど、ヒナタ嬢は顔を見せたことはなかった。
自室で摂ってるらしいけど、彼女は元々あまり食事をしない。神官や巫女は食事は一人で摂り、一日一食と定められているからだ。
一瞬、ヒナタ嬢が手づかみで魚を食べてる絵が浮かんだ。彼女のことだ、ありえないことじゃないような気がしてふと笑みが洩れた。
晃は不思議そうに首を傾げた。
「いや、何でもない」
「そう?」
笑いながら言った僕を、怪訝そうに眉を顰めて晃は見ていたけど、不意に、「そういえば」と言って話題を振った。
「仕事は順調みたいだね」
「え?」
突然のことに、僕は首を捻る。
「魔竜退治。噂は聞いてるよ」
「ああ、うん。ありがとう。でも僕は退治はしてないんだよ」
苦笑を浮かべた僕に、晃は目を大きくさせた。
「そうなの?」
「うん。ついて行ってはいるんだけどね」
晃は不思議そうに眉を寄せて、小さく首を傾げた。
「僕の仕事は状況の報告だから」
まあ、趣味でもあるんだけどね。
晃は、「そうなんだ」と言って、とんかつを一口頬張った。
自然と唇に目が行く。形の良い唇が動くのを見てると、密かにどきどきした。僕は、ぱっと目線を伏せる。
「ひ、晃は、どうなの。仕事」
緊張して声が上ずってしまった。でも、晃は大して気にしなかったみたいで、にこっと笑う。
「うん。特に変わりはないかな。火恋様は手がかからないし、優秀な方だから」
「そうなんだ」
確かに、六歳児にしてはしっかりしてる。僕のフォローまでしてくれたからな。ませてるって言い方も出来るけど。
「でも、我慢強い方だから、あまり御両親に甘えようとなされらないのよね」
心配そうに晃は顔を曇らせた。
「御両親はご多忙な方々だから、あまり火恋様を構われないのよ。奥方様の悠南様と御会いするのも、一週間に三日くらいなものだし」
「そっか。でも、それって結構普通なことじゃないか?」
「え?」
晃はきょとんとした表情をした。
「貴族だって、召使である乳母にまかせっきりとか結構あるよ。王族ともなれば、その頻度も増えるんじゃないか? ましてや悠南さんは仕事してるしな。一週間に三日娘と過ごすって、結構頑張ってる方だと思うけど」
「そうなのかな……」
晃の表情は晴れずに、もっと曇ってしまった。どうしよう。余計なこと言ったかな。でも、事実だしなぁ。
「レテラもそうだったの?」
「僕?」
僕は記憶を辿った。
「うん。僕も乳母に育てられたみたいなもんだな。母は家にいたけど、母親らしいことは乳母が全部やってくれたよ」
「寂しくないの?」
晃は悲しそうに眉尻を下げた。
「特に感じなかったな。子供の頃は寂しかったのかも知れないけど、覚えてないよ。それに、僕は夢中になれるものがあったからね。乳母である侍女も優しかったし、僕は彼女のこと愛してたから」
「そっか……」
晃は複雑そうに瞳を伏せた。
「今も乳母の女性はレテラの御実家にいるの?」
「今は辞めていないよ。僕が成人の十六歳になったときに、結婚して辞めたんだ」
「そうなんだ。ルクゥ国では、乳母の結婚って普通なの?」
「普通だよ。条国は違うの?」
「うん。侍女は結婚する人もいるけど、乳母はそのまま結婚しないで過ごす人が一般的なの」
「そうなんだ」
「わたしも、多分そうなるんだろうな……」
晃の瞳が寂しげに光った。
唐突に、ショックが僕を襲った。そうか、火恋様が生まれてから、ずっと御世話してるって、それって、乳母ってことなんだよな。
「それでも、全然平気だったんだけどな」
ぽつりと晃が零した。
「どうして?」
「わたし、七人兄弟なのね。それでわたしが長女なんだけど、家にはお父さんがいなくて、お母さんだけなの。だから、わたしが働いて弟達を養わなくちゃいけなくて。それで侍女になったんだけど。ほら、食事も寝る場所も気にしなくて良いから。給料は安定してるし、仕送りも毎回ちゃんと出来るでしょ」
そう言って晃は笑った。輝くような、優しい、僕が一番好きな笑顔。でも、僕の心はなんだかすごく、哀しかった。
「でも、この年になるとお付き合いとか、結婚とか良いなって思うものなのね」
晃は、はにかむように微笑む。
「じゃあ、火恋が成人したら辞めたら良いじゃないか。弟達が成人してからでも良いよ。この国に前例がないからって、出来ないわけじゃないだろ」
声音がつい、必死になってしまった。晃は優しい笑みを浮かべたままかぶりを振った。
「その頃には、いくつになってると思ってるの? もう誰も貰ってくれないよ」
晃は全然気にしてないように、楽しそうに笑う。
(やめてくれ)
無理を隠してるのか、本当なのかは分からない。でも、僕は哀しくて、泣きたくなった。そんな話は聞きたくなった。
――僕と結婚してよ。僕はいつまでだって待つから――唇がそう言い出そうとした。その瞬間、
「それにね。こんなことを言ったらおこがましいんだけど、火恋様は娘みたいなものなのよ。だから、出来ることなら、火恋様が即位なさるまで御世話をしていたいの。御即位なされた後も、支えになっていたいのよ。本当に、おこがましいけどね」
晃は今までで一番、柔らかく笑んだ。
「……愛してるんだね。火恋のこと」
「うん。愛してるわ」
温かい、春の日差しのような声音だった。
「そのセリフは、僕に言って欲しかったな」
低声な独り言は、晃に聞かれずに済んだ。
彼女は、「うん? なんて言ったの?」と、きょとんとした瞳で聞き返した。
僕は首を横に振る。
「なんでもない」
聞かれずに済んで良かったのか、聞き漏らさないで欲しかったのか、自分の気持ちは判らなかった。でも、僕はひっそりと腹に据えた。
晃が、火恋から離れようと思える日が来たら、火恋が晃の手を必要としなくなったら、その時が来たら、僕は晃にプロポーズしよう。
たとえ、晃がおばあちゃんになっていても。しわくちゃでも構わない。いつか絶対、晃に愛してると伝えよう。晃の答えがなんであったとしても――。