第五話
書き直しました。2019
それから数ヶ月の時が過ぎて、絶魂や鱗の電磁気を組み込んだ呪符が完成した。
王の表情は終始普通だったけど、時折物悲しそうな顔をする。無理をして笑っているのだろうと思うと、なんだか少し不憫な気がした。
その半年後、転移のコインで各国の代表が犯罪者や動物を連れてやってきた。
完成の報告はもうすでにされていたけど、国際会議が開かれたりして、結局こんなに遅くなってしまった。
国単位で動くとなると、どうしても慎重にならざるをえないのだろう。
我が国、ルクゥ国代表としてやってきたのは、ミシアン将軍だった。
他国の将軍や外交官などが整列する中、将軍はやっぱり群を抜いてかっこいい。
若いのに堂々としていて威厳がある。
僕はなんだか誉れ高いような気持ちになって、自然と胸を張った。
各国の代表たちは、形式的な歓迎の儀が終わると、宴会が催された会場へ向った。
ヒナタ嬢は歓迎の儀にも宴会にも興味がないと言って現れなかった。
(立場上、興味が無くても参加するのが礼儀だろ。っていうか、職務だろ)
僕は呆れかえりながら席に着いた。
各国の代表と僕らはそれぞれ国別に着いたので、僕はミシアン将軍と同じテーブルになった。でも、残念ながら将軍とは一言も喋れなかった。一緒にやって来た外交官や、護送してきた兵士達が将軍にあれこれ話しかけていたり、僕にひっきりなしに近況を訊きにきたりしたので、まったく話ができなかったんだ。
(あ~あ……)
心の中で嘆きながらも、宴会は御開きとなり、将軍一行は帰っていった。
もちろん、転移のコインで。
* * *
翌朝、一つ目の魂の塊を造ったときと同じように、魂の太陽は造られた。違うのは、呪符の色と、その効能。
呪符の色は燃えるような赤い色で、効能は言わずと知れた、魂を吸い出す吸魂竜の力だ。そしてもう一つ、前回よりも犠牲になった人間の数が多かったという点だ。
僕は前回と同じように丘の上から、全てが済んで陽空に近づく紅説王を眺めていた。ここからでは表情を窺うことは出来ないけれど、きっと哀しんでいるんだろう。
僕はなんとなく息を吐く。そのとき、草原の向こう、森の中で何かが蠢いた気がした。目を凝らすと同時に森の中からけたたましい悲鳴が上がる。
絹を裂くような叫び声を上げながら、森から動物やドラゴンが逃げ惑って来た。草原にあふれ出た動物は完全に我を忘れたように走り来る。
「なんだ!?」
僕は混乱して小さく叫んだ。
紅説王と陽空も兵に促されて後退した。それと同時に、森の中からどす黒い影がやって来た。
地響きを響かせながら、大きな後ろ足を森から覗かせると、巨大な羽を広げたそれは、恐ろしいほどの巨体で、胴体からうねる首が三つ伸びていた。
鋼のように硬そうな皮膚が陽光に反射し、その肌がぬめりを帯びていることを知らせた。
「なんだあれ……」
僕は思わず呟いた。メモを取るのを忘れてそいつに見入る。好奇心でじゃない。言い知れない恐怖が、僕の全身を駆け巡り、体を凝固させていた。
「アジダハーカだ」
嬉しそうな囁きが聞こえた。僕はその声で我に帰る。すると、僕の隣にいたヒナタ嬢が破顔した。
その笑顔は、ヒナタ嬢の容姿から想像されるような、輝くように美しいものではなかった。獲物を目にしたときの、獰猛な獣の目。笑顔と記すには、酷薄過ぎるほどの情のない笑み。
ぞっとした僕の視界を遮るようにして、燗海さんが前に出た。そして、優しげな糸目を蛇のように鋭く見開くと、猛スピードで丘を駆け出した。
「行くぞ。ヒナタ!」
「爺さん、抜け駆けするなよ」
ヒナタ嬢はいつの間に飛び乗ったのか、馬に跨って、不気味な笑みが張り付いたまま燗海さんを追った。
唖然としてしまった。
燗海さんは、とても人間とは思えないスピードで丘を駆け下りていく。
先に駆け出したとはいえ、後から疾走していく馬が追いつかない。そんなことが、この世にありえるのか?
僕は無意識に胸ポケットに手をやった。働かなくなった脳に、むくむくと好奇心がやってくる。
僕もいつの間にか、笑んでいた。斜め前からアイシャさんの重苦しいため息が聞こえたから、きっと、意地が悪い笑みに見えたに違いない。
「私も行くわ」
アイシャさんが言って、馬を駆けさせた。
「気をつけて」
すでに丘を下りだしたアイシャさんに言葉をかけると、彼女は振向かずに手を振った。
僕は今あったことを書き終えると、脅える馬を宥めて跨った。
「よし! もっと近くで見られるぞ」
僕はわくわくしながら丘を駆けた。
* * *
丘を下ると森の中を突っ切った。真っすぐに行けば、草原があるはずだ。しばらく走ると、前方から動物やドラゴンが慌てた様子で走ってきた。僕はぶつからないように馬の手綱を操る。
そうして森を抜けた瞬間、同時に、けたたましい咆哮が耳をつんざいた。
「ヴォオオオ!」
「うわっ!」
僕は小さく悲鳴を上げて耳をふさぐ。馬が嘶いて僕を乗せたまま倒れこんだ。僕は投げ出されて、地面に衝突し、肩を擦るようにしてぶつけた。強い衝撃が走ったけど、幸いなことに投げ出されたおかげで馬に足を挟まれなかった。
あの勢いで馬に圧し掛かられたら骨折してもおかしくない。
でも、そんなことを考えていられるのは次の咆哮までだった。
「ヴォオオオ!」
次の咆哮が耳を突くと、激しいめまいがした。
(なんだこれ……)
僕は全身に力が入らず、膝をついた。息が苦しい。呼吸が僅かしかできず、顎に力が入らない。だらだらとよだれが地面に落ちていく。
顔を上げられず、目もかすみ、視界にはぼんやりとしたなにかだけが映し出される。草原は目の前に広がっているはずなのに、状況が分からない。皆はどうしてる? 魔竜はどこにいるんだ?
頭が割れるように痛い。……何も考えられない。
(息が苦しい……もうダメだ)
支える腕の力もなくなって、僕はどうっと地面に伏した。その次の瞬間、
「はあ――」
僕は大きく息を吸い込んだ。
「――っ」
突然呼吸が出来るようになった肺は、急に侵入してきた空気に反応しきれずに強く押し返し、僕は激しくせき込んだ。
「ゲホッ、ゴホッ!」
ヒューヒューと、喉が鳴る。僕はそこで、咆哮が止んでいることにようやく気がついた。
呼吸を整えて、草原に目を向けた。視野を取り戻した眼は、信じられないものを映し出した。
草原の中心に、黒い三つ首の翼竜が邪悪な姿をして立っていた。
ここから、遠く離れているのにも関わらず、僕はその姿を目視することが出来る。ここからでも、大きいと感じる。魔竜はそれほどの、巨体を持っていた。おそらく、全長二七ヤード以上は確実にある。
獣脚類でこの大きさのものはいない。加えて、こいつは翼竜だ。
翼を広げれば、草原への出入り口である、後ろの森をすっぽりと塞いでしまえるんじゃないか。
ぞっとしたものが背筋を這う。
こんなものが空を飛んで、しかも続々とやってきたら、人間なんてひとたまりもないじゃないか。
こんなやつに、今までヒナタ嬢達は、兵士達は立ち向かって行ってたのか……。魔竜の巣に出向き、全滅せずに帰還したことが奇跡的に思えた。
「……ん?」
僕はふと、魔竜が動かないことに気がついた。首が三つともゆらゆらと揺れてはいるものの、飛ぶ気配もなければ、攻撃する気配もない。
僕は立ち上がって、誘われるようにふらふらと近寄った。しばらく歩いたところで、どうして魔竜が動かないのかが分かった。
魔竜の前で、紅説王が苦しげに膝をついていた。その後ろで陽空も同じように胸を押さえて跪いていた。少し離れた場所に、燗海さんも同様に顔を歪めて膝をついている。どうやら魂を吸い取る術が発動しているみたいだ。
おそらく結界が張ってあるんだろう。
皆からほんの少し離れた場所にいたヒナタ嬢は、苦痛もなく、実につまらなそうな表情で突っ立っていた。その距離は、燗海さんからおそらく三フィートも離れていない。
でもアイシャさんは集団から距離をとるように離れた場所にいた。僕は、一番近いアイシャさんに声をかけた。
「アイシャさん」
アイシャさんは驚愕したように振り返った。その表情は硬く、強張っていた。だが、僕だと分かると、一瞬で安堵した表情に変わった。
「今の状態は?」
「新しく造った魂の塊を試しているところよ。あれをかざした途端、魔竜が大人しくなったの。まるで、何かに耐えるみたいにね」
確かに、近寄ったことで見えた魔竜の顔は、苦痛に歪んでいるようにも見える。
僕はふとアイシャさんを見た。彼女の表情はまた強張ったものに変わっていた。
「アイシャさ――」
「ヴォオオ!」
僕の声は轟音にかき消された。耳を塞ぎ、魔竜を仰ぎ見る。中央の首が大きく裂けた口で、咆哮を上げていた。
中央の首に意識を戻されるように、左右の首も轟くような雄叫びを上げる。
「ヴォオオオオ!」
「うっ!」
僕はさらに耳を塞ぐ手に力込めた。
「なんだよ。効かないじゃないか」
僕はぼやきながら顔を上げた。せめて、この行方だけは見届けなくちゃ。
結界のおかげか、不思議とさっきのような頭痛やめまい、呼吸困難は起きない。もしくは、魔竜の咆哮にも攻撃とただの雄叫びの二種類があるのかも知れない。
「――よ」
「え?」
突然途切れるような声が聞こえて、僕は斜め前にいたアイシャさんに目線を移した。彼女は、青ざめた表情で、両腕を抱き、がたがたと震えていた。
(アイシャさん?)
アイシャさんは、震える声で呟いた。
「ダメよ。やっぱりダメ……怖い」
「……どうしたんですか?」
僕が彼女に向かって手を伸ばすと、前方で激しい衝突音が響いた。
「なんだ!?」
僕は前方に向き直る。すると、魔竜がよろめく姿が映った。
「え?」
食い入るように見つめた視界は、次の瞬間、信じられないものを捕らえた。
燗海さんが矢のように跳び、魔竜の左側の首を、顎から頭へと貫いたんだ。そして燗海さんは、そのまま結界をも貫いた。結界は音もたてずにゆるやかに崩壊していく。
左の首は切れた弦のようにたわんで、地面に地響きを轟かせながら派手に落ちた。草原はあっという間に血に染まる。
「ヴィギャー!」
残った二首が怒号を上げて僕らを睨む。その刹那、
「ヒナタ!」
「分かってるよ。ジジイ!」
二つの声が重なるように響いて、左首から流れ出た血が、まるで生き物のようにうねり、動き出した。
それは、一瞬だった。
動き出した血液は、引かれるように弧を描き、天に舞い、魔竜の体内の血液をずるりと引きずり出した。
「ギャアアア!」
魔竜は断末魔の悲鳴を上げ、全身の血をごっそりと持っていかれて、干乾びた。それは本当に一瞬の出来事だった。
愕然と目を見開いたまま硬直している体に、突然重苦しいものが降ってきた。
「うわっ!」
ばたばたという重い音を耳が捉えた。
思わず閉じた目を開けると、全身は赤い液体でぐっしょりと濡れていた。だけどそれは僕だけじゃない。目で見渡せる範囲の、この草原が全て赤く染まっていた。
茫然とする僕の鼻を、金臭い臭いが衝いて、そのとき宙を舞った魔竜の鮮血が落ちてきたんだとやっと気づいた。
皆が安堵の息を吐くなか、疲労した体を引きずり、血まみれの顔で恍惚を浮かべながら、ヒナタ嬢は膝を突きジャルダ神への祝詞を唄い出した。
この人はやっぱり、異常だと思う。僕は半ば呆れて苦笑した。
「そうだ。アイシャさん――」
ふと思い出して、アイシャさんを見ると、彼女はもう立ち上がっていた。声をかけようと手を伸ばした。でも、彼女は僕を振り返らずに、手を後ろに伸ばして制止した。
「ごめん。レテラ。忘れて」
アイシャさんは拒絶するように言うと、踵を返して歩き出した。
「アイシャさん……」
哀しげな彼女の背を見送っていると、僕の肩に陽空が手をかけて寄りかかってきた。僕と同じく血まみれの陽空に邪険な瞳を向ける。
てっきり、またにやけた顔が肩越しに浮かんでると思ったのに、陽空の表情は真剣そのものだった。
「アイシャちゃん。まだ落ち込んでんのな」
「落ち込んでる?」
そういえば、そんな様子はあったな。
「ほら、彼女。エリートじゃん? 挫折したことなかったみたいなんだわ。でも、魔竜の巣行ったとき、初めて敵わない相手に出遭って、しかも死ぬ思いまでしたから怖くなっちゃったみたいなんだよな。魔竜と対峙すんの」
「ああ、なるほど」
それで魔竜の話題になると暗い目になってたのか。
「しかも自分は強いって自負してたのに、それを打ち砕いたやつを倒したやつがいたってなりゃあ、プライドもズタボロだろ」
「そっか……」
燗海さんならまだしも、自分より年下の女の子に負けちゃったんだもんな。そりゃ、ショックだよな。しかも殺されるかも知れない恐怖を味わったら、トラウマにもなるよ。
でも、ヒナタ嬢に嫉妬してたとしても、アイシャさんは彼女を気にかけたりしてたんだよな。本当、アイシャさんは人間的に出来た人だ。
「それにしても、アイシャさんはお前には言ったのか。軽そうなのにな」
僕の毒舌に陽空は苦笑を浮かべて、首を振った。
「いんや」
「じゃあ、何で知ってんだよ?」
「見てりゃあ、分かるだろ。それくらいのこと。俺の部下にもいたもんな。そういうタイプ」
「そうなんだ」
陽空って、案外人のことよく見てるよな。
僕もそれで救われたときもあったし――僕は内心で尊敬を込めて陽空を見た。
「アイシャちゃんは、自分で何とかしたいタイプだから、あんま構うのも嫌われちゃうかなぁって思ってたけど、今が狙い目かな」
「……は?」
「こういうときはじりじり距離詰めないで、押してく方が、ああいうタイプは落ちるんだよなぁ。まあ、その前に衝突はあるだろうけどな」
「お前なぁ……」
人が感心した途端、こうだ。
「お前はやっぱ、ただの女たらしだよ」
「なんだよいまさら、んな分かりきったこと」
陽空は、ハハハと声を上げて笑った。
僕はわざと呆れた視線を向ける。
口ではああ言ったけど、陽空はそれだけの男じゃない。呆れさせられることも多いけど、僕は、心の奥でこいつを信頼してる。でも、絶対そんなこと言わないけどな。
「……ったく」
僕はわざと大きく舌打ちした。
改めて正面を見据える。アイシャさんはもう森の中へ消えていた。僕は、後ろを振り返った。何やら王と話しをしている燗海さんを見つめる。
「なあ、陽空。燗海さんって何者だ?」
「知らねーよ。恐ろしく強い爺さんだってことぐらいしか」
陽空は肩を竦めてにやっと笑った。それはどことなく自嘲じみている。
(ふ~ん。なるほど、こいつでも嫉妬することはあるんだな)
「燗海さんって、なんの能力者なんだ?」
「さあ? でも、見たところシンプルだと思うぜ」
「シンプル?」
「そう。身体強化とかな」
「身体強化……身体強化の……驟雪国の……険の達人……」
僕の無意識の呟きは、頭の中で意識的に繋がった。
「もしかして、燗海さんって、あの伝説の烈将軍、目黒燗海か!?」
「あ? 誰だそれ」
「陽空、知らないの?」
僕は驚いて目を見張った。でも、そうか。陽空は水柳国の人間だ。驟雪国の者や、驟雪国と隣国しているルクゥ国の人間ほど知っているわけがない。ましてや彼はもう歴史上の人物なんだから。
「二百年前、驟雪国には身体強化能力者の目黒燗海という烈将軍がいて、そのころ、現在の驟雪国の国土の半分以上がルクゥ国の物だったんだよ。でも、その目黒烈将軍が戦場に出て以来、ルクゥ国は押されて、僅か八年で今の領土分にまで減らされたんだ」
「マジか」
あんぐりと口を開けた陽空に僕はうんと頷いて、
「でも、彼は何故か十年足らずで軍を去ったんだよ。一説では死んだって言われてたんだけど……」
「まさか、あの爺さんがそうだってか?」
言葉を濁らせた僕に、陽空は苦笑しながら言って、燗海さんを振り返った。
「かも知れない」
「でも二百年前だろ。爺さんは爺さんだが、少なくとも二百歳には見えないぜ。六十後半か、七十前半かってとこだろ?」
「でも、身体強化能力なら、若くいられるんじゃないか?」
「……かもな」
陽空は歯切れ悪く言って、肩を竦めた。
僕は燗海さんに真実を訊いてみたくて駆け出した。
本人なのか。何故十年弱で軍を去ったのか、何故旅をしていたのか、早く訊きたい。
僕は逸る気持ちで燗海さんに手を振った。
「お~い! 燗海さ――」
そのとき、太陽が何かに遮られ、地に影が降り立った。
(雲か?)
僕は何気なく顔を上げる。しかし、そこにあったのは、太陽を遮る白い雲ではなかった。黒雲のようにどす黒い、巨大な翼竜。魔竜、アジダハーカだった。
「つがいだ!」
燗海さんの叫び声が聞こえた瞬間、
「ヴォオオオ!」
魔竜は頭上から地に向かって、咆哮を叩きつけた。
「うわああ!」
僕は悲鳴を上げて地に伏した。耳が痛い。耳に手を当てても、咆哮と一緒に甲高い音が突き抜けてくる。圧縮されるみたいに頭に激痛が走って、息が出来ない。じっとしていたいのに、体が勝手にのた打ち回る。
まるで、実験された兎みたいに。
僕は、死ぬのか? あの兎みたく……。
「うわあああ! いやだあああ!」
僕が叫んだ瞬間、何かが頭上の魔竜めがけて飛んで行った。
白く、かすんだ眼が捉えたのは、ぼやけた光。それが魔竜の口へ運ばれた。途端に、僕の身体が軽くなる。
ふっと宙に浮いたような感覚がして、ぐらっとした世界が回った。めまいと吐き気がやって来て、お腹の中のものを全部吐き出した。肩で息を吸う。軽く咳き込み、僕は吐しゃ物がついた顎を服の袖で拭った。
(頭がくらくらする)
大きく息を吸った。
僕がやっと魔竜を見据えたのは、息を吐き出してからだった。
魔竜は、しばらくじっとしていた。
三つ首がゆらゆらと蠢き、まるで何かに酔っているようだ。
「――」
魔竜の喉の奥で微かな音が鳴っている。
それに気づいた途端、一瞬で体中が戦慄いた。
(また、あの咆哮か?)
全身に汗が噴出し、ガタガタと情けなく震えだす。
僕は力の入らない体を無理矢理動かして、ずるずると這いずった。
(いやだ……。怖い、怖い、怖い……。助けて!)
自分の体が、おそろしく重いものに感じる。
腕が体重を支えられずに、何度も血に染まった草原に顔面を打ち付けた。
ぬたっとした血が、滝のように僕の顎を流れ落ち、魔竜の血を何回か飲んだ。渇いた喉に金臭い液体が滑り気を帯びて流れ込む。
僕は目を袖で強く拭った。
赤く染まった視界が、ぼんやりと正常に戻る。僕は、後ろを振り返った。
魔竜が目に映った瞬間、心臓の早鐘は更に増した。
「はあ、はあ……」
不安や恐怖が胸の内側から、どんどんあふれ出してくる。
いやだ、いやだ、いやだ、いやだ――死にたくない。
「ああ……」
僕が発狂しそうになったとき、
「ヴィギャア!」
突然魔竜は咆哮を上げた。
「ひっ!」
僕は思わず飛び上がって、強く目を瞑った。
「ヴィイ!」
「……?」
(あれ?)
咆哮は上がっているのに、さっきみたいに苦しくならない。
僕は、薄っすらと目を開けた。
魔竜は、三つ首をぶんぶんと振り回していた。
首が薙ぐたびに、風が吹きつけてくる。僕は目を細めた。
魔竜は苦しんでいるように見えた。
そうか。あれは、咆哮じゃなくて、叫び声だったんだ……。
魔竜は苦しそうに、低く、時に高く悲鳴を上げながら、じたばたと地団太を踏んだ。その度に振動が地面を伝って僕の全身を小さく振るわせる。
魔竜はやがて、ぴたりと動きを止めた。
(どうしたんだ?)
頭が真っ白になりながら、魔竜を凝視した。
魔竜は突如ぶるぶると震えだし、胸の中心に透明な何かが渦巻いたように見えた。その刹那、水面に映った魔竜に石を投げて消し去るように、魔竜は変な風に弾け飛んだ。
勢いよく魔竜の肉片と血が僕に向って垂直に飛んで来た。僕は瞬きをする間もなく、肉片を顔面にくらった。勢いよく倒れこんで、頭を強かに打つ。
「痛ってぇ……」
僕は呻いて、肉片を剥がした。
上半身を起こす。
よくよく見ると、肉片は六インチくらいある。これくらって、よく脳震盪起こさなかったな。
僕は、何気なく肉片を触った。
黒い皮の部分はごつごつし、ぬめりを帯びていて、かなり硬い。刃物は簡単には貫通しなさそうだ。でも、内側の肉片はやわらかかった。
ぶよぶよとしていて、脂身が多い。というか、多すぎるくらいだ。深海魚並みにあるんじゃないか。肉の色も薄いピンクが申し訳なさ程度にのっているくらいだ。
「そうか」
誰かが呟いた声が聞こえて、僕は顔を上げた。
さっきまで魔竜がいた場所には、もう何もない。
魔竜が背にしていた木々や僕らの周辺にゴロゴロと黒い皮や、薄ピンクの肉片が転がっているだけだ。
木々の青々とした葉が真っ赤に染まっているさまは不思議に映るが、同時になんだかとってもえげつない。
その真上に、白々とした小さな太陽が浮かんでいる。魔竜を倒した魂の塊だ。
僕は声の主を探してきょろきょろと首を振る。
すると、紅説王が肉片を手にして僅かに微笑を浮かべていた。
「この脂身によって、衝撃を吸収されていたんだな」
「厚い皮で衝撃を跳ね返し、脂身で吸収する。じゃから、魔竜は並の攻撃では無傷でいられるわけですな」
僥倖だというように瞳を輝かせた紅説王に、燗海さんが話しかけた。
(へえ……そうだったんだ)
僕はまだ呆然とする頭で、ぼんやりと思った。でも、次の瞬間覚醒した。
「いや、そうじゃなくて!」
僕は声高に叫んで、立ち上がった。
まだ足が震える。僕は足を動かして王のところへゆっくりと歩いていった。まるで亀みたいに遅いけど、これ以上のスピードは、今は出せそうにない。
「王、これってどういうことなんですか? 魔竜はどうして死んだんです?」
僕が詰問すると、横から低くてよく通る声が同意した。
「それは是非とも、俺も聞きたいですね」
顔を向けると、いつの間にか陽空が僕の横に並んでいた。
その隣には、無表情のヒナタ嬢もいる。何も発しないけど、どうやら彼女も気になるみたいだ。
王は燗海さんを促すように見た。燗海さんは静かに頷く。
「王にな、今度魔竜が現れたら魂の塊を体内に入れてみてくれと言われとったんだよ。さっきな」
僕は燗海さんと王が話していた場面を思い出した。さっき二人で話していたのはそのことだったんだ。
「それで、早速実践してみたんじゃ。魂の塊を投げて魔竜に食わせたのよ。そしたら、ああなったというわけじゃ」
「へえ」
どことなく険のある声音を出したのはヒナタ嬢だった。きっと、彼女の事だ。自分がやりたかったとか、自分の手で倒したかったってとこだろう。
「何でそうなったんすかね」
陽空が質問というよりは、突きつけるように言う。
僕は陽空をまじまじと見つめた。
珍しい。こいつにしては、妙に苛立ってる。
陽空は、血でベタベタの髪を掻きあげた。もう血が乾いてきていて、髪が少し硬くなっているみたいだった。僕も自分の髪を触る。ちょっとだけパリっとした感触がした。
紅説王は、血でまみれた顔を手で拭った。
「おそらく、魔竜は絶魂による魂の吸着に耐性を持っていたのだろう」
「だから、最初の一匹には効かなくて、ヒナタ嬢と燗海さんが倒したんですよね」
「ああ」
王は深く頷いた。
「だが、耐性を持っていても完全ではないとふんだんだ。燗海達が倒した魔竜は、最初は効いていたようだったからな。そこで、体内に入れてみようと思ったのだ。完全に耐性があればあるいは効かないかも知れないが、体内に異物が入り込んだことにより、なんらかの変化はみられるだろうと」
「それで結果が」
あれですか――と言いかけて、僕は魔竜がいた場所を見た。彼らもつられて、魔竜がいた場所を見る。ただし、ヒナタ嬢だけは例によってつまらなそうに、ぼうっとしてたけど。
「魔竜の耐性は完全ではない。だから、体内に侵入してきた絶魂の作用に絶えられず内側から肉体ごと魂を吸い出されてしまったのだろう」
「じゃあ、肉片もあの中にあるのか」
ヒナタ嬢が、嘲笑気味に独り言ごちた。
王は首を振った。律儀に答える。
「それは定かではないが、おそらくはないだろう。肉体が魂の塊に吸われ、吐き出されたことによって、こうしてバラバラになってしまったんじゃないかと、私は考えている」
「なるほど」
僕はポケットからメモ帳を取り出そうとして、はたと止めた。血でべとべとで、完全に乾くか血を落とさないと書けそうにない。
「ああ、そんなぁ」
僕は情けない声を出して、踵を返した。
「さあ、はやく帰りましょう! 忘れないうちにメモしなくちゃ!」
「お前はそればっかだな」
後ろから陽空の呆れた声が聞こえて、僕は首だけで振り返った。
「でも、俺も賛成。さっさとこの汚れを落としたいぜ。う~んざり!」
歌うように言って、陽空は髪をいじって乱暴に後ろに流した。顔には嫌悪感が滲んでいる。
「ああ、なるほど」
僕は小さく呟いていた。
陽空は案外きれい好きだ。通訳をしていたときに、何回か部屋に行った事があった。荒れ放題なイメージだったけど、実際はちゃんと生理整頓されていて驚いた事がある。
僕のメモまみれの部屋より、よっぽどきれいだったっけ。
「お前、さっきそれさっさと落としたくて怒ってたのか」
「怒ってねぇよ。血が臭すぎだし、ベタベタするからイラついただけだ」
「怒ってんじゃん」
「いやいや。イラつくと、怒るは違うだろ」
僕の突っ込みに陽空は、手をふって笑った。
そのときだった。
僕は脱力感に襲われて膝を突いた。僕のすぐ隣で陽空も地面に手をついたのが見えた。
「まさか」
王の切迫した声が耳に届く。
ちらちらと頭上で何かが輝いた。僕は、重だるさの中で上を見る。
天空で光り輝いていた魂の塊が、いっそう強く輝きだしていた。
「うっ!」
その光に呼応するように、僕の脱力感はひどくなっていく。ぐらっと景色が歪んで、僕はいつの間にか草を間近に見ていた。
(倒れたのか?)
僕は無意識の中で、僅かに首を捻り、後ろを見た。そこには、毅然と立つ王の姿があった。遠のく意識の中で、王が印を結んだのを捉えた。
瞬時に魂の塊に透明な結界が張られた。
すると、僕の身体は一瞬だけだるさから解放された。でも、すぐに脱力感が襲ってきて、僕は地面に伏せたまま、空を見上げた。意識が朦朧とする。
曇天の中で、偽者の太陽はその光を僅かばかりに緩めている。それは、ゆっくりと下降してきて、紅説王の手の上に納まった。それを目にしたところで、
(ああ、もうダメだ……)
僕は強烈な脱力感に抵抗出来ずに、意識を失った。