第四話
書き直しました。2019
それから数時間経って、吸魂竜は猿轡をされて転移の黒い穴から出てきた。こんなに近くでドラゴンを見たのは初めてだ。僕は内心でびびっていた。
(落ち着け、レテラ)
僕は自分に言い聞かせて、メモ帳とペンを取り出した。
吸魂竜は、一メートル半はある黒い巨体をくねらせながら、何とか拘束を解こうともがく。
左右で手綱を引く紅説王と陽空は、振り払われないように踏ん張っていた。
「マル、結界を」
紅説王がマルに向って声を張り、それを聞いてマルが印を結ぼうと指を立てる。
「では、もう少し離れて下さい」
マルが言って、二人はドラゴンから距離をとるように、手綱をぴんと張ったままにして、じりじりと下がった。そのとき、陽空の足が床に散らかっていた機材に取られて、一瞬手綱がたわんだ。
その瞬間、吸魂竜は小さな前脚を隠すようにぐんと、体を前に沈み込み、頭を勢い良く振り上げた。その衝撃で、手綱を持っていた二人は両手を上へ取られた。
「しまった!」
マルが叫んだ瞬間、吸魂竜は腹ががら空きになった紅説王へ頭突きを食らわせた。紅説王は弾き飛ばされて、地面へ転がった。
「大丈夫ですか!?」
僕は駆け寄って、紅説王の肩を抱く。
「ああ、大丈夫だ」
紅説王は唸るように呟いた。顔色が悪い。息を吸うのが苦しそうだ。僕は焦りながら、吸魂竜を見上げた。
吸魂竜は手綱を引く陽空と格闘しながら、前かがみになり、僕らの方へ向くと、その太い後ろ足に力を込めた。
(突進してくる気か!?)
僕の背筋を、冷たいものが駆け上がる。
「王、お立ち下さい!」
僕が叫んだ、その刹那。
「ギャッ――!」
獣の悲鳴が短く響き、吸魂竜は地面へ沈んでいた。苦しそうにもがいているが、何故か立ち上がれないみたいだ。いつの間にか吸魂竜を抑えていたはずの陽空も後ろへ下っている。
僕は訳が分からずに、馬鹿みたいに口をぽかんと開けた。
「大丈夫?」
優しく、艶のある声に、僕は我に帰った。目を瞬かせて、その人を見る。
「アイシャさん」
彼女はにこりと笑んだ。アイシャさんは、両手をドラゴンの方向に押し出していた。能力者によく見られるポーズだ。
「ってことは、これはアイシャさんが?」
「そう。吸魂竜に近寄っちゃダメよ。今、重力が倍になってるから。貴方も潰れちゃうわよ、レテラ」
ちゃめっ気たっぷりに言って、アイシャさんは僕にウィンクした。僕の胸は思いがけずに高鳴る。
惚ける僕を余所に、アイシャさんは稟とした声音で指示を出した。
「さあ、今のうちに結界を」
アイシャさんに促され、陽空はその場を離れ、マルは印を結んだ。すると、吸魂竜を半透明なものが取り囲み、すぐにそれは見えなくなった。
アイシャさんは両手を下げた。
吸魂竜は、ふらふらと立ち上がる。
「だ、大丈夫なの?」
僕は混乱して語調を焦らせた。
「もう結界で囲んであるから平気だよ」
マルが安堵の息をつきながら答えた。
「そっか……。ん? 結界ってことは、マルってまさか――王族?」
「そうだよ」
マルはあっさりと頷いた。
僕は叫びながら、頭を抱えてうずくまった。
「僕としたことが! そんなことにも気づかないなんて!」
思えば、マルは最初に会ったときから結界術を使っていたじゃないか。研究室の存在ですっかり頭から抜け落ちてた。
マル本人に取材に行っても、結局研究のことになっちゃって、しかもそれが興味深いから、ついついマルについて尋ねることが出来ないでいたんだ。
「黙ってるなんて、ずるいじゃないか!」
半泣きで顔を上げると、マルは苦笑した。
「別にわざわざ言うほどのことでもないだろ」
「言うほどのことだろ!」
僕が突っ込むと、マルはけたけたと笑って、
「王族ったって、二条の、しかも末席だもん。同じ二条でも、青説殿下とは全然違うのさ」
唄うように言って、「それより研究、研究」と、吸魂竜に向き直った。僕はマルをじっと見つめる。
条国の王族は、本家の三条と分家の二条という二つに分けられると聞いたことがある。
マルは分家にあたるわけだ。案外、マルは気楽な立場にあるのかも知れない。研究オタクの彼にとって、今の地位は満足出来るものなのかも。
「なあ、後で詳しく聞かせてくれよ」
「何を?」
マルはきょとんとした瞳で僕を振り返った。
「マルについて」
「僕のことなんか知って、何が楽しいのさ」
マルは、まるで分からないというように首を傾げた。
「楽しいよ。少なくとも僕は」
「僕も大概だけど、レテラも相当変わってるよね」
マルは苦笑してから、
「良いよ。でも、後でね。今はこっちが先だから」
「うん。だよね」
僕はしっかりと頷いて、紅説王に手を貸して王を立たせた。王は、痛みで顔を顰めながらも毅然としていた。さすがだ。
「では、始めよう」
王の号令の下、僕らは動いた。僕と、おそらくアイシャさんと陽空も何をするのか知らないので、マルの指示に従って動く。
僕は準備しておいたゲージから兎を捕り出し、アイシャさんと陽空は臨戦体制をとる。
「僕の合図で兎を結界の中に入れて」
「分かった」
僕は静かに頷いた。冷たい汗が頬を伝ったのを感じる。吸魂竜が落ち着くのを見計らって、
「行くよ!」
マルが号令をかけた。次の瞬間、透明だった結界は、油が混じった水のように波紋を広げ、その部分だけの色が微かに色が変わって見えた。
そこだけ、結界がなくなったんだ。
僕は、その穴目掛けて兎を投げ入れた。ちょうど兎の大きさよりも、一回りほど大きいだけだった穴に、兎はものの見事に飛び込み、着地した。
それを見届けると、すぐに結界は閉じられた。
それからはもう、待つのみだった。
吸魂竜が兎の魂を食べるまで、ひたすら待ち続けた。
恐怖と警戒の色を強く滲ませた吸魂竜は、中々兎に向き合わず、ただひたすらに僕らを睨む。放たれた兎は最初こそ逃げ惑っていたが、その内隅の方で大人しくなった。
二時間ほど経った頃、陽空が腰を浮かした。皆立って待っていたのに、こいつだけ座ってたんだ。本当、良い性格してる。僕だってメモしたい気持ちを抑えてるってのに。
陽空は王に向って言った。
「すんません。俺、そろそろ大丈夫ですかね?」
「ああ。結界を破られることもないだろうから、大丈夫だ。ありがとう」
紅説王は優しく微笑んで退席を許可した。
紅説王って、良い人だよな。バルト王だったら、絶対ありがとうなんて言わない。それは威厳を保つためなのか、性格なのかは分からないけど、紅説王の場合、食客にもこんな態度では、親しみ易い反面、なめられる危険があるような気がする。それにしても――。
「こんなにわくわくするものを見ないなんて、どうかしてるよな」
僕はぼそっと独りごちた。
陽空は、部屋を出る前にアイシャさんにこそっと話しかけた。僕は反射的に耳をそばだてる。聴覚に関しては、絶対的な自信がある。案の定密かな話し声を僕の耳は捉えた。
「俺と一緒に行かない?」
「いいえ。私は、ここにいます」
「……大丈夫か?」
「平気ですよ」
アイシャさんはにこっと笑った。
「……そっか。じゃあな」
陽空は残念そうに笑って、研究室を出た。
(やーい。ふられてやんの)
僕は心の中で嘲笑していたけど、陽空がアイシャさんに大丈夫かと訊いたとき、真剣な表情をしていたことも、アイシャさんがぎこちない笑みだったことにも、このときは気づいてなかった。
* * *
それから十時間ほど経って、ようやく吸魂竜は動き出した。
のそっと巨体を揺らしながら起き、長い尾を振った。結界にぶち当たって、鋭い音をたてながら尾が反対側へ跳ね返ったが、吸魂竜は大した反応を示さずにただ兎を見据えた。
鋭く餓えた瞳を向けられた兎は、びくりと耳を立たせながら、なるべく荷物があるの方へと逃げようとする。が、結界に当たって身を翻した。
兎はそのまま吸魂竜と向き合い、威嚇するように前のめりになる。
吸魂竜は大きな口を開き、長い舌をだらりと垂らした。
青黒く、くすんだ舌が僅かにうねる。そのうねりが、徐々に蛇の歩みのように激しくなり、甲高い音が響いた。
結界のおかげなのか、僕の耳には僅かな耳鳴りにしか聞こえなかったけど、兎にしてみれば強烈な衝撃だったようで、兎は耳を押さえる代わりにぐるぐると円を描きながら暴れまわり、やがてぱたりと倒れ込んだ。
僕は懐中時計を取り出した。それは誰の指示でもなかったけど、マルは僕の視界の隅で満足げに微笑んで、出てくる時間を計ってくれと言った。
僕は半ば右から左に流しながらも頷いた。むろん、そのつもりだったからだ。
それは、約五分ほどの時間で兎の体から出てきた。白い靄のような、ほんわかとした光を纏う丸い物体。魂と呼ばれるもの。
それは、ふわふわと漂いながら、吸魂竜に近づき、自動的に、何の抵抗も示さずに、吸魂竜の口へと運ばれた。
「うん。やっぱり、そうなんだ」
マルは確信を持ったようにきっぱりと言って、
「紅説様、今度は僕が入ります」
(本気か!?)
僕は度肝を抜かれた。正気かと思う一方で、どきどきしている自分もいる。それは、不安や緊張からじゃないことは僕が一番知っている。
「危険だ。私がやろう」
紅説王の提案を、マルは首を振って断った。
「いえ。僕がやります」
「では、お前の身体に結界を張ろう」
これにもマルはかぶりを振った。
「それでは魂を吸い出されるときに、身体に何が起こるのか確かめられません」
「ちょっと待ってください。そこまでやるんですか?」
アイシャさんが制止を含んだ問いかけを、マルと紅説王に投げた。マルはもちろんというように頷いた。
「それはさすがにやりすぎじゃないですか?」
今度は問いかけが極端に薄く、制止する要素が多い言い方だった。
「大丈夫だよ。死ぬようなヘマはしない。もう無理だってなったら結界を張るさ」
「それでも、危険だと思うけれど」
僕もそう思う。
平然と言って笑ったマルに、アイシャさんは心配そうな表情で呟いて、窺うように紅説王に視線を移した。王は、渋面を浮かべながら、小さく息を吐いた。
「許可する」
それを聞いて、マルはガッツポーズをし、アイシャさんは目を丸くし、僕は実験が見られる興奮と、心配する気持ちがない交ぜになって、微苦笑した。
* * *
結界の中に入ったマルは、少し緊張した面持ちで吸魂竜と対峙した。吸魂竜は少し警戒しながらも、すぐに舌を伸ばし、捕食体勢に移った。
舌が波打ち、甲高い音が響き始めると、マルは小さく悲鳴を上げて膝を突いた。
「円火!」
紅説王が耳を塞ぐマルに向って小さく叫んだ。
(円火。それが、マルの本名か?)
僕は微かに片眉を跳ね上げて、紅説王を一瞥し、視線をマルに戻す。
マルは苦しそうに顔を歪めていた。僅かでも身体を動かそうとすれば、痛みのためなのか、苦しみのためなのか、悲鳴を上げて固まった。
(あれじゃ、印なんて結べないんじゃないか?)
僕は切迫しながら、目をマルに釘付けにし、ポケットからメモ帳を取り出した。
速記を始める。その刹那、マルの呻き声がした。
マルは力を失くして、突っ伏する。
「ヤバイ」
僕が呟いた瞬間、激しい破裂音がして、突風が吹きすさび、僕は顔を覆いながらよろめいた。
混乱する中、僕の目は紅説王を捉えた。
彼は呪符を手に持っていた。その呪符がまるで鞭のように撓って、吸魂竜にぶち当たり、悲鳴を上げて倒れ込んだ。
状況を理解するのに、一呼吸の間が必要だった。どうやら、紅説王があの呪符で、マルが張った結界を破り、そのまま吸魂竜を攻撃したらしい。
王は恐怖の色など微塵もなく、毅然とした立ち振る舞いで歩き、マルを抱きかかえた。そこにアイシャさんが駆け寄ってきて、王はマルをアイシャさんに任せた。
彼女はうんしょと唸りながら、マルを受け取ると足早に離れ、王はよろめきながら起き上がってきた吸魂竜を見据えた。
そして、僕の隣にマルを背負ったアイシャさんが来るのと同時に、素早く印を結んだかと思うと、マルよりも遥かに速いスピードで結界が張られた。
王と吸魂竜は、閉じられた結界の中で、互いに睨み合う。だが、紅説王には、恐ろしいほどの余裕が感じられた。
吸魂竜は大きな口を開いた。舌をうねらせる。僕は、心の中心で止めなければならないと思っていた。いわゆる理性だろう。でも、それを囲むように欲望が渦を巻く。
見てみたい。
そして、記したい。
僕の右腕は、ペンを走らせることを止めなかった。
そして、三度あの音は響いた。
しかし、何故か王はマルのようにはならなかった。まるで音を跳ね返すかのように軽やかな足取りで、吸魂竜に歩み寄った。
吸魂竜は驚いたのか、少したじろぐ様子を見せ、一歩後退った。
王は懐から、呪符を取り出した。緑色の長方形、おそらく二十センチくらい。
それを人差し指と中指の間に挟むと、軽く薙いだ。すると呪符は先程と同じように伸び、ものすごいスピードで吸魂竜を縛り上げた。
吸魂竜は唸りながらもがいたが、びくともしない。
王は、おもむろに吸魂竜の伸びたままの舌を触り、そのままなぞるようにして吸魂竜の口内に手を突っ込んだ。
「うわ」
小さく悲鳴を上げたのはアイシャさんだ。顔は見えないが、声音から察するに多分ひいている。僕の目は王に釘付けで、それどころではない。分散された意識を、王と竜に戻す。
王はしばらく吸魂竜の口内をまさぐっていた。口内というよりは、舌だろう。感慨深い表情を浮かべながら、王はその手を吸魂竜から放した。
そして何食わぬ顔で離れ、印を結んで王一人分の出口を作り、結界から出て来た。それと同時に呪符を破ると吸魂竜を束縛していた呪符は消えた。
「何を調べてたんですか? 今の技は?」
興奮しながら尋ねた僕に、王はにこりと笑みを返した。
「推測になる。もう少し調べてから、皆には報告することにしよう」
(ええ~!? そんなぁ!)
僕はがっくりと肩を落とした。
ふと振り返ると、アイシャさんがどことなく怪訝な表情で、気絶しているマルを見ていた。
「どうかしたんですか?」
思わず声をかけると、アイシャさんは我に帰ったようにはっとして、僕をちらりと見ると、すぐに紅説王に視線を投げた。
「紅説王。マルさんは、もしかして女性ですか?」
「え!?」
僕は目をむき、マルと紅説王を見比べた。
王は感慨なく頷く。
「そうだ。別に秘密にしていたわけではないぞ。マル――いや、円火は、昔から外見に頓着しなくてな。その上、一人称も僕だから、子供の頃から男に間違われていたんだ」
紅説王は懐かしむように笑んで、倒れているマルを見た。僕はどことなく微笑ましく思ったけど、視界の隅に映ったアイシャさんの瞳は暗く沈んでいた気がして、僕はアイシャさんの方を向いたけど、アイシャさんの表情はもう普通だった。
(なんだ?)
僕は怪訝に思いながら、彼女と一緒に研究室を出た。マルは、紅説王が抱えて医務室へ運んでいった。
僕は廊下を歩きながら、横に並んで進むアイシャさんに尋ねた。
「ねえ、アイシャさん。さっき暗い顔してたみたいだけど、どうしたの?」
なるべく軽い感じで尋ねると、アイシャさんはばつが悪そうな表情を浮かべた。
「あらやだ。見られちゃってたのね」
「まあ――」
それで? というような表情を作り、僕が促すと彼女はますます苦笑を浮かべた。
「ちょっとね。女性だと分かっていながら、しかも、幼い頃から知っている相手に危険なことをさせるのが信じられなくて」
まあ、確かにそうかもと思いながらも、僕は少しだけ紅説王の肩を持つ。
「でも、マルって止めてもきかなそうだし、最終的には助けたわけだし」
「……そうね」
アイシャさんはそう言ったけど、納得がいってないのは見え見えだった。
「ちょっと、納得いかないって感じですか?」
軽口をきくと、アイシャさんはふふっと笑った。これまた苦笑だ。
「アイシャさんって優しいから、ちょっと突っ込んで訊いちゃうんですよね。すいません。不愉快だったら言って下さい。殺される前に止めますから」
「あはは。ヒナタのことね」
アイシャさんは声に出して笑った。今度は苦笑じゃない。
僕も安堵して、頬が緩んだ。
「不愉快ではないのよ。でも、自分でも上手く説明が出来ないから」
「――というと?」
「なんとなくね。最初から、彼女がぎりぎりのところで助けるつもりだったのかしらって、ちょっと思って。そういうのって、どう言うのかしらって思っただけなのよ」
「――とは?」
僕は怪訝に眉を顰める。本人が言うだけあって、いまいち要領を得ない。アイシャさんは困ったように微笑う。
「私だったら、最初から止めるわ。だって、死んでしまう可能性だって高いでしょう? もしもこれが戦場なら、絶対に許可は出さないわ。だって、負傷した兵を助けるさいに、隊に影響が出るかも知れないんだから。もちろん、たかが一兵士の私の意見だけれど。でも、反対に、王は許可なされたわ。それは自分ならぎりぎりでも助けられるという自信や自負故なのかしら。それとも、王の慈悲なのかしら、って、疑問に思ってしまったのね」
ああ、なるほど。
僕は頭の中の靄が晴れたようにすっきりと理解した。でも、多分それをアイシャさんが自ら言うことはないだろう。だから、代わりに僕が口に出す。
答え合わせもしたいという気持ちも、もちろんあった。
「その自信は欺瞞と言えるのではないだろうか。そして、優しさ故なのだとしたら、それは駄々をこねる子供を後ろで見守る大人のように、転びそうになったところをその背を支える――そういう種類のもの。でも、命のやり取りのある場所で、そういう優しさは、正しいと言えるのか」
突然流ちょうに語りだした僕を、アイシャさんは驚いた眼で見つめる。僕は、最後に彼女の真似をして締めくくった。
「それは、果たして慈悲といえるのかしら」
悪戯する子供のような気分で彼女を見やると、アイシャさんは図星を衝かれたように苦い顔をして、ふと笑った。
「まあ、そういうことね」
おかしそうに笑ったアイシャさんを見て、僕は不意に思った。
「アイシャさんって、真面目っていうか、ちょっと潔癖なところありますよね。意外に完璧主義っていうか」
アイシャさんは、ぎくっと肩を揺らした。
「……そうかしら?」
低声で出された声音は、明らかに硬い。
(もしかして、気にしてたか?)
「え~と、見当違いならすいません」
「ううん、良いの。自分で思うのと、人が見る自分って案外違うものだもの」
「そうですよね」
アイシャさんは取り繕ったように笑った。存外、アイシャさんは嘘が下手なんだ。なんか、可愛いな。
「でも、そっか」
「ん?」
僕はあることを思い出して、アイシャさんを見据えた。
「ハーティム国では、女性を尊敬し、尊重するっていう考え方なんですよね」
「そうね」
アイシャさんは当然のように顎を引く。
「だから、マルが危険な目に遭ったのが許せなかったんですね。それを止めなかった王にも不満があった」
「ええ。そうね。それはあるかも知れないわね」
アイシャさんは思い当たったように言った。
指摘されるまで気づかなかったみたいだ。身についた考え方というのは、意識していなくても出てくるものだもんな。
「アイシャさんって、本当に御両親から良い教育を受けて来たんですね」
「なぁに、急に?」
アイシャさんは驚いて目を丸くし、照れたように笑った。
「いや。ちょっと、思ったんで」
僕は思わず出てしまった本音に苦笑いする。
「ルクゥ国って、教育が受けられるのは貴族だけなんですよ」
「うちもそうよ。受けられる者もいるけど、ごく一部ね。よほど優秀じゃなければ受けられないわ」
そうですよね、と僕は頷いた。それは本で読んで知っていたから。
「確か、驟雪でも水柳でも同じだったな。条国だけは庶民でも半数の者は教育を受けられるらしいですよ。確か、子供が一つの場所に集まって受けられる授業があるとか」
「へえ。珍しいのね。普通は家庭教師だもの」
「ですよね」
僕は相槌を打って、
「先々代の王がそういう風にしたって紅説王に聞きました」
「へえ、立派ね。ハーティムも全ての子供達が教育を受けられるようになると良いのに」
「うん。僕もそう思います」
僕は前を見据えた。
「倫理観は宗教によってもたらされると言う人も多いけど、僕は教育によってもたらされるものなんじゃないかと思うんです。幼少期に教わるという意味では同じだから」
アイシャさんに向き直ると、彼女は意外そうな顔をしていた。
驚きと、感心がまざったような顔だ。
「だから、アイシャさんは良い教育を受けてきたんだなと思って。同じ貴族でも、ちゃらんぽらんなやつはいるから」
「そうね。両親には感謝しかないわ」
アイシャさんは優しい瞳で微笑んだ。
「リンナード家って上流貴族なのよ。貴族の娘に生まれたからには、政略結婚に出されるのが常じゃない?」
「ええ。どこの国でもそうでしょうね」
「でも、両親は私の好きなように生きていいって言ってくれたの。官吏として働くだけでなく、戦場で戦うことも了承してくれた。能力者として生まれれば、女だって戦場に立てるでしょう。でも、そういう女性は少ないわ。両親はきっと、娘を戦場に立たせるのは心配でしょうがなかったと思うの。でも、戦場に赴くときはいつも笑って送り出してくれたわ」
僕はアイシャさんを見つめながら頷いた。
ハーティムと条国は他の国と違って、国同士で争う事はあまりない。ここ三十年以上は戦争は起きてないはずだ。
条国は外交によって五十年間それを阻止してきたけれど、ハーティムは少し事情が違う。
もちろん外交によってということもあるけれど、ハーティムと驟雪の間に流れる紅海の影響でハーティムに攻め入るのもハーティムが他国に攻め入るのも困難なんだ。やろうと思えば出来るけれど、魔竜の存在や他のドラゴンの討伐で、両国ともそんな暇はない。
だから、ハーティム国はこの三十年他国との戦争は無かった。
「アイシャさんは、竜討伐に出てたんですね」
「そうよ」
「人同士の戦いには――」
出た事は無いですよね? と、続く言葉を僕は切った。それで十分通じると思ったからだ。アイシャさんは苦笑しながら頷いた。
「そうね。それはないわ。幸いな事にね」
「アイシャさんはどうして兵士になったんですか?」
そんなに美人で頭も良ければ、そんな必要はないと思うけど。
「ドラゴンに苦しめられる人が一人でも減れば良いと思って。魔竜だけでなく、ドラゴンは人に危害を加えるものが多いでしょう。それで」
「へえ。そういえば、ハーティムは魔竜が多いそうですね」
「ええ」
アイシャさんの瞳が暗く曇ったような気がした。
「でも私は、戦場で魔竜に遭った事はここに至るまではなかったわ」
アイシャさんは何故か哀しげな表情を浮かべる。
(どうしたんだろう?)
僕は疑問に思ったけれど、それを訊く前にアイシャさんが僕に尋ねた。
「レテラはどうして記録係に就いたの?」
「僕ですか。僕は、元々物心がついたころから人の話を聞いたり、歴史や色んな物事を知るのが好きだったんですよね。ただ単にそういう理由です。アイシャさんみたく、誰かのためなんて高尚な理由じゃなくて恥ずかしいですけど」
「私だって結局は自分のためよ」
そうかな。僕とは雲泥の差のような気がする。
「それに、さっきレテラの話を聞いていて思ったんだけど、レテラには哲学的な考えが自分の中にあるんだと思うの。だって、倫理観は宗教ではなく教育で作られるものだなんて、私は考えた事もなかったもの」
「それは多分、僕が生粋のルディアナ教徒じゃないからだと思います。世界には色んな宗教があって、皆それに乗っ取って、それを信じて生きて行くけれど、僕は早い段階から色んな宗教や教えがあるというのを色んな本を読んだり、旅人を招いて聞いたりして知っていたから、ヒナタ嬢みたく生粋のルディアナ教徒じゃないんです」
言ってから、僕は苦く頬を歪めた。多分硬い笑みになっているだろう。
ヒナタ嬢のそれは生粋の教徒から見ても行き過ぎだと頭に過ぎったからだけど、僕はそれは口にしなかった。
生粋があれでは、ルディアナ教自体が疑われそうだけど、ヒナタ嬢が行き過ぎなのは誰の目から見ても明らかだし、アイシャさんはそれに気づいているだろうから。
「僕は、どの宗教にも深く関わることはしないんです。知る努力はしますけど」
「ええ。だからそれが私には考えが及ばなかったことなのよ。私だって、ハーティムのハデイ教に深く感銘しているし、その教えが一番だと信じているわ。だから道徳の教育は宗教がするものだと思っているの。だけど、レテラの話を聞いて想像してみたの。立派で高尚な人徳者が子供達に道を説いたなら、どうなるか。他にも、例えば心優しい誰かがその教えを子供達にしたのなら……きっと世界はその人のように優しい人で溢れると思うの」
アイシャさんは瞳を輝かせて、僕を見据えた。
「あなたが記録係になったのは、きっと誰かに何かを伝えるためよ」
その瞬間、アイシャさんから光が溢れたように感じて、僕は息をするのを忘れた。
「色んな人から聞いたり、自分で見て知ったものを誰かに伝えて、その人の見聞を広げる。そういう使命があなたにはあるんじゃないかしら。レテラ」
ハーティム国のハデイ教には、運命や使命に絡めて物事を見るという考え方がある。アイシャさんはその教えが身についていて、そういう結論を出したんだろう。
僕はそれを理性で知っていた。
でも、アイシャさんのその一言が、僕には啓示のように思えた。
僕の本能が、何かを見つけた瞬間だった。
* * *
それから五日ほど経って、紅説王に呼ばれ、皆が大広間へ集まった。
この五日間、危険だからという理由から、僕達は研究室に入ることを禁じられていた。
だから、僕は何も知らない。
わくわくしながら待っていると、王と青説殿下と一緒にマルが姿を現した。
この五日間、マルと会うことはなかったからか、少しどきどきする。マルもああ見えて女の子なんだよな。性別が何であれ、マルとは気が会うし、友達であることに変わりはないけどさ。
僕達が叩頭しようとすると、紅説王はそれを制した。
「いや。良い。そのまま聞いてくれ」
そう告げて、マルに促すような目を向けると、マルが少し前に出て、後ろ手に組んでいた手を前へ持ってきた。
手のひらの上には布が乗っていて、その上に吸魂竜の舌が乗っていた。最初に研究室で観たように、渦巻き状で、蝸牛のような形だったので、おそらくは、絶魂と呼ばれる筋組織部分だろう。あけぼの色が、何とも言えぬ生々しさを語ってくる。
「これは、絶魂と呼ばれる吸魂竜の舌の筋組織です。正確には喉でもあります」
「喉? 舌根って、舌の付け根のことよね」
訝しがったアイシャさんに、燗海さんは感心したように、「ほお、お嬢さんは物知りじゃな」と称賛を送ったが、マルはかぶりを振った。
「確かに舌根は舌の付け根のことを言いますが、この場合は違います。こっちの言葉だと、絶望のゼツに、魂のコン、で絶魂。これは紅説様がお付けになられました」
マルは軽く、首だけで振り返り、上段の間に座している紅説王を示した。
王は、特に感慨もないようすで静かに座っている。しかし反対に、王の後ろに控えるように座っていた青説殿下はほんの一瞬だけ、王に冷たい視線を向けた気がした。
この二人の確執は、どうやら深淵なものらしい。王族にはやっぱりありがちだけど。
「吸魂竜は、というかドラゴン自体は鳥類と同じように、鳴管によって唸り声や咆哮などの音を出しています。鳴管は通常、器官の分岐点にあって、この鳴管による発振音を鼓室で共鳴させて音を出しています。ですが、この鳴管、吸魂竜はまったく別の場所にあったことが判明したんですよ」
「なるほど、それが絶魂。舌かね」
燗海さんは確信を持ったように口元を緩ませた。その横で、陽空が俺もそう思ってたと言わんばかりに大げさに頷く。やつはすでに考えることを放棄したようだ。
「でも、それがそこにあったとして、なにに繋がるんだ?」
僕が問いかけると、マルはすっと僕を見た。そして皆の表情を一瞥していく。一周してから、マルは絶魂を畳に置いた。
「この絶魂は、振動させ、共鳴させることによって、特異な震音を発生させ、生物の脳や体の中の水分に影響を与えることが分かったんだ。そして、この五日、吸魂竜を調べつくした結果、吸魂竜の鱗にも秘密があることが分かったんだ」
「どんな?」
僕は思わず身を乗り出す。
「吸魂竜の鱗は、ある特異な電磁気を発することが分かった。陽空にも来てもらってその程度を調べてもらったんだけど、発する量としては微弱であることが分かった。ただ、その電磁気は、さっきも言ったように特殊なんだ」
僕は仰天しながら陽空に顔を向けた。陽空は涼しい顔で前を向いている。僕は、心の中で憎々し気に毒づいた。
(お前~! またお前だけか! 僕が見学に行きたがってたこと知ってただろーが! 僕も呼べよなぁ! この、女ったらし!)
僕の怨念を一身に受けて、陽空はぶるっと身震いしたけど、マルと王に説明を促されるような目で見られて、咳払いして切り出した。
「――んんっ。そうですね。えっと、なんて言ったら良いのかな。電磁気ってのは、まあ、簡単に言えば、つーか俺はそれしか知らねえけど、電気を帯びた磁気とか、電流によって生じた磁気なわけです。自然界で言えば、光がそうなわけだけど、光を浴びても日焼けするくらいで特に人体に影響はないわけだ。でも、この吸魂竜が発する電磁気はちょっと違う」
いつもお気楽な陽空の表情が、深刻な顔つきに変わった。
「俺が見た感じ、吸魂竜の電磁気は微量だけど、それでもこの星に降り注いでいる光よりも強い電磁気を発している。それを生物が浴びれば、脳の電気信号に混乱をきたすことは明白だと言えるくらいだ」
そこまで言うと、陽空は肩を竦めながら、急に明るく声音を変えた。
「まあ、死ぬほどじゃねえがな」
しかし、またすぐに表情が曇る。
「吸魂竜一匹につき、生物に影響を与えられる電磁波を発せられるのは、人間で計算すりゃ、せいぜい三人ってとこだろうが、魔竜となりゃ、話は別だ。やつは百人程度の人間に余裕で影響を与えていた。吸魂竜との体格の差もあるだろうが、おそらく絶魂も鱗の電磁波も吸魂竜より遥かに伝わる波を持ってる」
重苦しい雰囲気が漂ってきたのは肌で感じていた。しかし、僕は、驚嘆しながら陽空を見据えていた。こいつがこんなに博学だなんて、思いもしなかった。僕なんて、電磁気ってのも、光がそうだってのも知らなかったのに。
「お前、すごいな」
僕が感服しながら呟くと、陽空は少し驚いた表情のあと、僕の方を見て、
「俺はなんとなくで分かるだけだよ。磁力の能力者だからな。脳にうんぬんは、紅説王とマルが話してたんだよ。俺は脳に電気信号があって、それで体を動かしてるなんて初めて知ったぜ。王が教えてくださったんだよ」
「いや、そんなに大したことではない」
紅説王は照れたように謙遜なさった。
「今回の研究で判ったことだが、この二つの要素から、吸魂竜は魂を体から引き出していたようだ。絶魂の音波で脳や体を乱し、電磁気で更に脳を攻撃する。そうして死にいらしめて、その肉体から電磁気、あるいは磁気によって魂を吸着させ、取り出していたようだ。これらを術式に起こしたいと思う」
「呪符にするだけで良いのでしょうかね」
王が上げた士気を中断するように青説殿下が割り込んだ。殿下は冷静に進言する。
「吸魂竜は本来、同種の魂は吸わないはずです。兄上の研究結果が正しいのであれば、おそらく遺伝子的にその攻撃に対して耐性を持っているはずです。つまりは、吸魂竜の突然変異体であるアジダハーカもその耐性を持っている可能性があるということになるのではないですか」
「確かに、青説の言うとおりだ」
紅説王は考え込むように眉根を寄せた。援護射撃のようにアイシャさんが意見を口にする。
「ですが、此度のことは大きな発見なのではありませんか。これを生かさなければならないと思います」
「私もそれは思っている。だからこその進言だ」
青説殿下は真面目な表情を崩さすに、きっぱりと言った。
案外兄王のこと認めてるところはあるのか。僕が暢気にそんなことを思った矢先、じゃあ、と陽空が声を上げた。
「呪符にそういう作用って加えられないですかね」
「そういうとは?」
紅説王が興味深そうに尋ねる。
「え~と、魔竜の魂のみ吸う術式、みたいな」
陽空はあいまいに笑う。
そんな都合の良いもんあるわけないだろ、と僕は呆れたけど、紅説王は真剣に考え込んだ。マルも思考をめぐらすように顎に手を当てている。
(まさか、あるのか?)
僕は期待に胸を膨らませたけど、
「魔竜の、肉体の一部でもあればあるいは可能かもしれんが……いや、やはりダメか」
自問自答して、王は僕らに向き直った。
「相手の細胞を組み込めば、その相手だけを指定して魂を吸い出すことは可能になるだろう。だが、それは耐性を持っていなければの話だ」
やっぱりダメなのか。
「そうですね」
マルが王の話に共感して頷く。
「今のところ、青説殿下の仰ったとおり、耐性を持っている可能性は高いと思います」
「捕まえて調べる事は不可能なの?」
僕が口を挟むと、視線は一気に僕に向って降り注いだ。
皆どことなく驚いているようだったけど、その驚きは良い類のものではないように感じた。視線が痛い。
「それは無理だよ」
マルが困ったように答えて、
「捕まえんなら、殺した方が簡単じゃねぇのか」
陽空が冗談めいて笑った。
「だったらさっさと殺しに行くぞ。こんな会議なんて無意味だろ」
「無意味じゃないさ!」
真に受けたのか、皮肉なのか、ヒナタ嬢が立ち上がると、マルが声を上げた。
二人はしばらく睨み合って、ヒナタ嬢が鼻で笑って座った。
「一年以上もジャルダ神に血を捧げていない。あたしはそろそろ本気で戦いたいんだがな」
鋭く紅説王を睨みつける。王は苦笑し、王の後ろに控えていた殿下がヒナタ嬢と睨みあった。
(本当、やめてくれよ)
僕は若干泣きそうになりつつ、慌ててヒナタ嬢の代わりに頭を下げた。
「申し訳ございません!」
「まあ、魔竜の巣に出向けなかったレテラは知らないじゃろうが、魔竜はかなりやっかいな相手じゃて、陽空の言うように捕らえるよりは殺してしまった方が簡単だな」
燗海さんが話を戻して、やっとヒナタ嬢は青説殿下から顔を背けた。つまらなそうに外に視線を投げる。
僕はほっとして、胸を撫で下ろした。
それにしても、陽空の言ってたことってあながち冗談でもなかったのか。
「その簡単という例えに使われた殺すのでさえ、容易にはいかないからこうして各国で手を組んでいるんですけど……」
アイシャさんが表情を曇らせながら、呟くように言った。
陽空と燗海さん、紅説王が、何故かアイシャさんに心配そうな視線を送ると、珍しいことにヒナタ嬢も興味を示すような視線でアイシャさんを見た。どことなく気にかける――そんな瞳だった。
(やっぱり、アイシャさんに何かあったのか?)
僕が訝しみながらようすを窺っていると、マルが場にそぐわない声を出した。
「うん。やっぱり」
快活に出された声音からは、今の状況をまったく読んでなかったことが伝わってくる。
マルはそのまま続けた。
「もう一度魂の塊を作り、その中に吸魂竜の術式を組み込んだ呪符を入れて、それを餌におびき寄せて、結界で魂の塊と魔竜を取り囲むしかないんじゃないですかね。取り囲んだら、術を発動させれば良い」
さすが研究狂い。
さっきから実験の事しか考えてなかったみたいだ。
僕は呆れつつも感心してしまった。
おかげで空気は元に戻ったし、アイシャさんも曇り顔ではなくなった。
「でもそれでは、青説殿下が仰ったように魂を吸い出せないのではありませんか。同種は可能性が低いのでしょう?」
アイシャさんの懸念にマルは、「だからだよ」と続けた。
「突然変異の段階で、その機能が失われた可能性もあるんだ。確かに、耐性を持っている可能性は高いんだけど、でも持ってないとは言い切れない。だからこその、実験だよ」
「実験?」
陽空が怪訝な声を上げた。皆は声のした方、陽空を向いたけど、僕はマルから視線を離さなかった。だから気づいたんだ。今度はマルの後ろにいる紅説王の表情が暗雲のように暗くなったのを。そして、その後ろで、王の表情をその背から読み取ったように、青説殿下が顔を顰めるのを。
でも、その変化に気づかなかったマルは、話を続けた。
「そう。何事にも検証をしてみる価値はある。それによって魔竜に耐性があるのかないのか知ることは重要なことだと思う」
「まあ、確かにそうさなぁ」
燗海さんが呟いて、ちらりと王を窺ったような気がしたけど、すぐに青説殿下がマルに賛同した。
「円火の言うとおりだ。すぐに実践しよう。兄上も、それで宜しいですな」
青説殿下は伺うというよりは、押し付けるように言った。有無を言わさぬ口調に、紅説王は暗い表情で頷いた。
話が決したところで解散となり、僕は大広間を出るさい振り返った。
そこには、思った通り、紅説王と青説殿下が残っていた。向き合うようにして立っていた青説殿下は僕の視線に気が付いて、こちらに目線を向けた。僕は慌てて向き直り、皆に続いて歩き出した。
そして少し行ったところで、こっそりと列から離れて戻った。
僕が戻るとすぐに青説殿下の声が聞こえた。僕はしゃがみ込んで、すでに閉まっていた障子に耳を寄せた。
「兄上、すでに貴方の頭の中にマルの意見は浮かんでいたでしょう。何故、言わなかったのですか」
「それは、お前ならば分かるだろう」
青説殿下の声音は、責めるものでも疑問に満ちたものでもなかった。ただ、淡々としていた。それに答える紅説王の声音は、反対にうんざりとしたような感情が乗っていた。
「分かりますよ。でも、私は兄上の口からお聞きしたい。その甘ったれた考えをね」
当然だというように、青説殿下の声音はきっぱりとしていて意地が悪い。
王はしばらく黙っていた。
表情が見えないのが悔しいところだけど、想像するに不満げであったり、困惑していたりするに違いない。
そしてやっと聞こえてきた紅説王の声音は、憂鬱そうに沈んでいた。
「また、数多の犠牲を出すことになる。きっと、今度は人間も増えるだろう。お前がそうさせるのだろう。青説」
「当たり前です」
青説殿下は一蹴した。
僕はどういうことだろうと疑念に駆られながらも、ペンを動かした。
「此度の件で必要になった犯罪者の命は、すべて条国の者達です。動物も、そのほとんどがこちらで用意した。共闘だと言いながら、列国は我らの恩恵にあずかろうとしかしていない。そんなことがまかり通りますか」
青説殿下は怒りを押し殺したような声音で言い、紅説王はそれを宥めるように、「だがな、青説――」と言いかけたけど、青説殿下はそれを遮った。
「兄上。我らの国は、他国に比べて人口が少ないんですよ。国土も狭いうえ、その半分以上がドラゴンの住処になっている。そして、魔竜の住む数も他の国よりも多いんです」
「それはそうだが、魔竜の多さなら、ハーティムや水柳だって引けを取らないだろう」
「だが、人口は勝る」
きっぱりと言って、青説殿下は続けた。
「このままでは、我々の国が一番最初に死に絶えてしまいます。そしてそれを、やつらは知っているのです。弱みを知っているからこそ、やらなければならないことを知っているからこそ、列国は我らにこの実験を押し付けてきたのでしょう。兄上が発案者だということを、差し引いてもね」
青説殿下の生真面目な表情と、紅説王の困ったような渋面が頭に浮かんだ。
「それに」と、青説殿下は冷静に付け足した。
「此度のことで、条国の死刑囚はもう残っておりません。他の犯罪者を犠牲にするにしても、そうなれば国民から反感の声は少なからず上がるでしょう。罪の軽い者もいるのですから。まあ、お優しい兄上のことですから、それも考慮しておられるのでしょう。死刑囚ですら、庇おうとなさったくらいですからね。ですが、動物を使おうにも、この国にはもう犯罪者よりも数が少ない。到底、兄上が開発なされた術を発動するほどの数は集められません」
淡々とした青説殿下の声音の中に、僅かに皮肉が交じっていたように僕には感じられた。そして、紅説王は呻くように語調を弱めた。その声音は悲痛で満ちている。
「分かっている。他国に頼る他ないことは。しかし、囚人を要求せずとも、列国からドラゴンを含めた動物を集めれば、人間が犠牲になることはない。動物を犠牲にして良いとは言わないが、人が犠牲になるさまは、私には耐え切れん」
「それでも耐えてもらわねば困ります」
哀願のようにも聞こえた紅説王の嘆きは、青説殿下に冷たく一蹴された。
「王よ。他国ですら、今は動物を飼育することは困難。捕まえるよう要請しても、とても五千は集まりますまい。人間を集める方が遥かに効率が良い」
「青説!」
紅説王は、悲鳴に似た激昂を浴びせた。だが、青説殿下は歯牙にもかけないようだった。
「それは列国も認めましょう。犯罪者を差し出せば良いだけなのだから。獄にいる者は動物よりも遥かに多い」
そこで、二人は黙り込んでしまった。おそらく、睨みあいが続いているんだろう。僕はペンを走らせるのを終えて、少し考え込んでしまった。
条国はこの世界の中で、一番犯罪率が低く、囚人も列国に比べて遥かに少ないと聞いたことがある。
犯罪が起こる確率が低いのは、この国の法によるものだろう。天変地異などによって飢饉に陥ったさいには、国庫を開くという法が定められている。また、ケガや病気によって仕事を失ったさいには、国がしばらくの間食べ物を配給するという制度もある。
食う物に困らないというのは、それだけで犯罪が減る。死刑囚が五百人で底をついたというのはあながち嘘ではないだろう。
しかもこの国では幼い頃より、命を含めた人の所有物を盗んではいけないとの教えを親や教育を受ける場で子供達に教えるらしい。僕は裕福だったからか、親にそんなことを言われた事は無いし、家庭教師にも勉強意外は教わらなかった。
ルディアナ教ではそんなことに触れる経典はない。
だからなのか、ルクゥ国では盗みが多い。特に孤児になった子供の犯罪が多かったし、そのまま成長して凶悪な犯罪を犯す者も多かった。盗賊や山賊になって、人や町を襲ったり。
法も厳しいから、そういう重罪を犯した者でなくてもすぐに死刑になった。だから、青説殿下の仰った『獄にいる者は動物よりも遥かに多い』という言葉は、僕の国では当てはまる。
耳の痛い話だ。
僕はペンとメモ帳を内ポケットに閉まった。
やっぱり人に必要なのは正しい教育なんだな。
* * *
その日の夜。僕は、真新しい巻物にメモ帳のいくつかのメモを清書した。
実験の様子は、立ち会ったものをさらさらと書いて、会議の様子はかいつまんで書いた。全部書いたら、巻物に入りきらないから、しょうがない。
でも、紅説王と青説殿下から盗み聞いた話は書かなかった。
陽空や、燗海さん、あのアイシャさんですら、自国に一報は入れるだろう。それは、当然なことなのだ。
紅説王も青説殿下もそれは承知の上だろう。だから、会議で出た話や、参加が許可された実験の話は書いても良いのだと思う。
でも、盗み聞いた話となれば別だ。それは僕が知りたくて聞いた話で、誰かに報告したくて記したわけじゃない。僕が知っていれば、それで良いんだ。
バルト王から密偵の勅命が下ったわけでもないんだし。
ふと僕は筆を止めた。
もしもバルト王から密偵せよと命じられたら、僕はどうするんだろう。
僕の頭に、陽空、アイシャさん、燗海さん、紅説王、マル、青説殿下の顔が浮かんだ。
もしもそうなったとしたら、王もマルも困るだろうな。もしも殿下に見つかったら、かなりヤバイことになりそうだ。
投獄され、死刑台に乗せられる自分が浮かんで、僕はぶるっと身震いした。
(まあ、そんな命令はないだろう)
僕は引き攣った頬を戻して、
「よし……」
一息吐いて、文机に手を突いて立ち上がると、小さなドラゴンが入っている籠を開けた。そのドラゴンは伝使竜と言って、全長は約四十センチ。灰色で、岩のようにゴツゴツとした肌を持つ翼竜だ。
伝使竜の背には、巻物を入れられるホルダーを取り付けている。そのホルダーのボタンを外して僕は巻物を滑り込ませた。
伝使竜を籠から出し、続き部屋の障子を開けて縁側へ行くと、腕を軽く投げるようにして、腕に捕まっていた伝使竜を羽ばたかせた。
天高く飛んだ伝使竜を細い三日月が、淡く照らしていた。