第九話
書き直しました。2019
僕は縁側を歩きながら、額から流れ出た汗を拭った。
もう秋に差し掛かるというのに、残暑は厳しい。
恨みを込めて、僕は太陽を睨みつけた。
条国の夏は、月国と違って蒸し暑い。湿気が多い国柄なため、じめじめとした熱気が肌に纏わりついて不愉快だ。
条国の夏は大嫌いだ。初めて夏を迎えた時は、湿気に慣れなくて具合が悪い日が続いた。今はもうそんなことはないけど、相変わらず不快な気分にはさせられる。
月国は大国だから、条国のように湿気が多い地域もあるけど、僕が生まれ育った王都は、乾燥地帯だったから、夏でもそこそこ快適だった。
故郷を懐かしんでいると、
「レテラ」
声をかけられて、僕は振り返った。
陽空がせっせと駆けて来る。
「おめでとう。あと一週間だな」
祝いの言葉を告げると、陽空は、「ああ」と頷いて嬉しそうに笑む。
「結婚式は水柳で挙げるんだよな」
「ああ。俺はハーティムでも良いって言ったんだけどな」
「アイシャさんが水柳が良いって?」
「俺の方を気遣ってくれたんじゃないか。嫁になって、水柳の人間になるんだから、水柳国で挙げたいんだってさ」
「へえ。アイシャさんらしいっちゃらしいね。式には、紅説王も出席なさるんだろ?」
僕の質問に陽空は肩を竦める。
「さあな。多分、青説殿下か、他の王族になると思うぜ。一介の外交官の結婚式に王が出席することは滅多にないだろ」
「っていうか、絶対にないね。他国なら特に」
同意すると、陽空は僕を軽く小突いた。
「知ってるんじゃねぇか」
「通例はそうだけどさ、紅説王なら出席しそうな気がしてたんだよ」
「王は出たいと仰ってくださったけどな。例の如く青説殿下がお止めになられたよ」
「だろうね」
妙に納得した。青説殿下がガミガミと紅説王に説教している姿が思い浮かんで、苦笑してしまった。
「でも、結婚式が終わったらお前も退任だな」
「そうだなぁ」
陽空は頭の上で腕を組んだ。
短い沈黙が過ぎる。
「お前とさよならするのは、ちょっと寂しいな」
ぽつりと僕が零すと、陽空は目を丸くして僕を見据えた。
「お前からそんな言葉が出るとはな。レテラ」
「意外かよ」
不満げな表情をした僕に、陽空は容赦なく大きく頷く。
僕は深くため息を吐いて、思わず笑った。陽空もつられたのか、ふと笑う。ひとしきり笑い合うと、陽空は話題を変えた。
「そういえば、今日の魔竜退治、お前行くのか?」
僕は首を横に振る。
「残念ながら、報告書が溜まっててさ。催促状が来てるんだよ」
「なんだよ。珍しいな」
「うん。まあね」
言葉を濁した僕を見て、陽空は、「はっは~ん」と笑った。
「晃ちゃんに夢中で手につかなかったか?」
「そんなんじゃないよ」
強めに否定したけど、図星だった。
晃と逢えるのは、二ヶ月に一度くらいなものだ。
本当はもっと晃に逢いに行きたかったけど、頻繁に転移のコインを使うわけにもいかない。私的だと知られれば使用を禁止される可能性もありえる。紅説王は許してくださるだろうけど、殿下に知られたらコトだからな。
逢えない日々の殆どが、晃を想って過ごす日々だった。
メモは相変わらず取れていたけど、取り出す機会は以前よりも減ったし、清書しようと文机に座っても、晃のことが頭から離れない。
晃からの手紙は来ないかとか、来たら何を書こうとか、文机の前に座るとそんなことばかりが頭を占める。
そんなわけで報告書を送る回数が減って、何をしている、どうしたと心配されたり催促されたりするようになってしまった。
回数が減っても送ってるんだから、それで満足して欲しいもんだよ。
むしろ以前が送り過ぎてたくらいなものだ。
アイシャさんや陽空は、一ヶ月のうちに二回。燗海さんなんか一ヶ月のうちに一回しか自国に報告してないのに、僕は一週間に二回も送ってたんだから。
ブスッとした表情の僕を見て勘違いしたのか、陽空は気遣うように僕をぽんと叩いた。
「まあ、あとちょっとすればまた逢えるだろ。なんなら今から行っちゃえば?」
僕だって逢えるなら今すぐに行きたいさ。
「ありがとな」
僕は礼だけ言って、前に向き直った。
陽空は話題をさっきの魔竜に戻した。
「それにしても、久しぶりだな。魔竜出んの」
「そうだね」
初めてオウスに行ってから、半年が過ぎて、今では魔竜の出没情報もめっきり減った。この三ヶ月では一回も報告が上がっていなかった。絶滅したかと思われていた矢先、条国の東地方で魔竜が二頭目撃された。つい先日のことだ。
それで、今日の夕方ヒナタ嬢と燗海さんが王族と兵士を連れて退治に出かける。僕ももちろんついて行きたい気持ちはあるけど、いいかげん溜まった仕事を片付けなくちゃ。
今回くらい見逃しても、どうせ結果は変わらないだろうし。
「僕は研究室行くけど、陽空はどうする?」
「俺は遠慮しとく。結婚する前にやることもあるからな」
「……」
白い目を送った僕に、陽空はにっと悪びれなく笑った。
「浮気すんなよ!」
離れて行く陽空に忠告すると、陽空は振り返って、「飲み屋に行くのは浮気じゃねーだろ!」と、明るく言い放った。
「〝女性のいる〟飲み屋だろ」
僕の呆れきった独り言は、当然の如くやつには届かないだろう。
* * *
研究室に赴くと、珍しい事にマルの姿がなかった。紅説王が椅子に腰をかけ、足と腕を組んで寝ていた。
息をしてるんだろうかと思うほど、静かな寝顔だ。
僕は王の顔を覗きこんだ。
整った顔立ち、通った鼻筋、厚めの唇に、長いまつげ。――羨ましい。
こんだけの美形なら、誰であっても落ちるだろうな。しかも、王だなんて。世の中は不公平だよ、本当。
僕はじっと王の顔を見つめながら、小さくため息をついた。
それでも王は、女遊びをしたりはしないだろう。正室どころか、側室の一人だっていないんだから。いかんせん、紅説王は真面目すぎると思う。というか、この国の人は全体的に真面目な人が多い。
青説殿下しかり、晃しかり。
僕は、そういう条国人の気質を結構気に入ってる。
ルクゥ国はどっちかっていうと、陽空みたいないいかげんな人間が多い。それはそれで良いもんだと思う。肩の力を抜いて生きられるから。
でも、規律正しく、真面目に生きるというのは、誰かを傷つけたり、迷惑をかける可能性がすごく低くなる気がする。でもその分、自分を傷つけそうでもあるけど。
その上、紅説王は優しいし、気さくなところもある。頭だってすごく良いし。この世にこんなに完璧な人間を見たことはない。
「……でも、完璧な人間なんていないよな」
僕は胡乱気な瞳で王を見た。
「もしかして、王ってそっち系か?」
低声で呟いて、にんまりしてしまった。
〝男が〟好きなら、それはそれで面白い気がする。
「そっち系って、なんのことかな?」
不意に、王の唇が動いて心臓が跳びはねた。慌てて立って、数歩下がる。
開いたまぶたから青い眼が顔を出す。優しい瞳が僕を捕らえた。
「お、お、起きてらっしゃったんですか」
「まあな」
「いつから!?」
声が上ずってしまった。
王はおかしそうにくっくっと笑った。
「すまないな、レテラ。多分、キミが入ってきた頃だよ。ぼうっとしてしまってね。中々目を開けられなかったんだ」
「そ、そうですか……。いや。滅相もございません。こちらこそ、勝手に御尊顔を拝見してしまい、申し訳ありません」
深く頭を下げると、王は、「いや、良いんだよ」と仰ってくださった。
まだ眠そうに王は強く目を瞑る。
「御疲れですか?」
「いや。大丈夫だ」
王は軽く胸の前で片手を上げて、
「ところで、そっち系というのは何の話かな?」
唐突に話を蒸し返した。
にこっとした王の笑みは、他意はないのかも知れないけど、僕には意地悪な笑みに見えた。
思わず苦笑が洩れる。
「いえ。すみません。忘れてください」
「そうか?」
王はきょとんとした表情を浮かべた。
わざとなのか、本当に見当がつかないのか分からない。でも、頭の良い王のことだ。絶対見当はついてるはずだ。王はまた、意地悪そうに笑んだ。
やっぱり確信犯か……。存外、紅説王はちゃめっ気がある。
「すいません」
僕はもう一度頭を下げた。
王は申し訳なさそうに笑いながら、「いや。良いんだよ」と仰ってくださった。それで更に、僕は申し訳ない気分になったわけだけど、同時にほっとした気もした。
「ちょっと、考え事をしてしまってね。夕べは良く眠れなかったものだから」
「そうなんですか」
話を戻した王に、僕は同情の目線を投げた。
「何を考えてらしたんですか?」
また、術式のことだろうか? それとも民や政治のことだろうか。もしかしたら、青説殿下とまた何かあったとか? 僕は思考をフル回転させた。なんだか、わくわくしてくる。
「……魔竜のことだ」
紅説王は、哀しそうに眉尻を下げた。
「魔竜、ですか?」
今のところ順調にいってるはずだけど……。僕は怪訝に眉根を寄せる。
「レテラは、魔竜がこのまま減っていくことをどう思う?」
「喜ばしいことだと思います」
きっぱりと答えた僕を、王はやっぱりか――というような目で見た。予想が当たって喜んでいる感じではない。むしろ、残念がっているように見えた。
「もしや、生態系が乱れることを危惧してらっしゃるのですか? でも、元々魔竜が生まれる前は、他のドラゴンに脅かされることもありましたが、一応は人間が頂点であったわけですから。そんなに支障はないのでは?」
王は僕の質問にかぶりを振った。
「そうではない。絶滅させてしまって良いものなのかと思ってな」
「そりゃ、良いでしょう」
僕は明朗に返す。魔竜が滅んで喜ばない人間はいないだろう。
「だがな、レテラ。生き物には誕生した意味があるのではないだろうか」
「意味ですか……。魔竜が誕生した意味があるとすれば、人間を減らすことなのではないですか」
ちょっと冷たい言い方になってしまった。でも、魔竜が誕生した意味を考えるなら、それまで頂点にいて、他の動物を管理したり殺したりしてきた人間をそうするためだとしか考えられなかった。
現に魔竜は多くの人間を殺しているし、それは他の動物よりも遥かに数が多い。魔竜の一番の好物は人間の魂だからだ。
「そうか……」
そう一言だけこぼして、王は悲しそうに瞳を伏せた。
「王は違う御意見がおありなのですね。良かったら不肖者に教えていただけませんか」
「……」
王はためらうように、視線を動かし、「青説には鼻で笑われたのだが……」と、前置きをして、言い辛そうに切り出した。
「魔竜にもな。心があるんじゃないかと思うのだよ」
「心?」
「動物にも、もちろん我々人間にもあるように、ドラゴンにだって心や感情があって当たり前なのではないだろうか」
「……かも知れません」
そんなこと、考えた事もなかった。
「魔竜もそうだと考えると、魔竜を全滅さて良いものだろうかと……。人間にさして害のない数まで減らせば良いのではないだろうか」
王は顔を曇らせた。
王の考えは分かる。でも、だからと言って僕にはとても賛同できなかった。
「失礼ながら、王よ。その考えは人間を犠牲にしても良いと仰っているように聞こえます。やつらの餌は主に人間の魂なのですよ。やつらが生きているという事は、人間は常に狙われ続けるということに他ならないのではないでしょうか」
「……そうだな。青説にもそう言われた」
紅説王は哀しげに瞳を伏せた。
「どうにか、人間と魔竜が共存できる道はないかと思考を巡らせていたら、眠れなくなってしまってね」
明るい調子で言って、王は顔を上げた。にこりと笑いかけてくださったけど、無理をしてるのは明らかだった。
「出すぎたまねを致しました」
僕は深々と頭を下げる。
王はまた、「いや、良いんだよ」と優しい声音で言ってくれた。僕は、長年この王の許にいるけれど、この王のことを理解していると思えたことがない。
紅説王の言葉や思想を理解は出来ても、深く共感出来たことがない。むしろ、あまり話をしたことのない殿下の方が、共感できる点は多いように思う。
紅説王は優しい。優しすぎる。だから僕は、いつも思ってしまう。どうしてだろうって――。もっと、自分のことばかり考えたって罰は当たらないのに――って。
気まずい雰囲気が流れて、僕はぎこちなく頬を持ち上げた。王はそれを見て、柔らかく笑み返してくださった。
* * *
その日の夕間暮れ、僕は自室で清書をしていた。
文机の前で胡坐を掻きながら、メモ帳とにらめっこする。清書を始めてかれこれ五時間は経過しているだろう。
(さて、次はどれを写そうか)
一つのメモ帳に目が止まって、僕の胸は痛んだ。それは、晃と食事をした日のメモだった。帰ってからあったことをすらすらと書いたものだ。
オウスに行く時は、火恋のことを口実にして行ってたから、王やマルに火恋のことを報告しなくちゃいけなかった。
だから、必然と火恋と過ごす時間も多かった。晃が常に側にいるから、晃ばかり見て火恋に密かにからかわれたこともあったけど、それもなんだか幸せだった。
結婚して子供が出来たら、あんな感じなんだろうか。
晃の笑顔が胸を過ぎる。
いつか、晃と結婚できたら良いのに。でも、それはまだまだ先になりそうだ。それに、告白が成功すると決まってるわけじゃない。
ただの友達だって、ふられるかも知れないし、仕事に生きたいと断られるかも知れない。
僕は憂鬱な気分で、文机に頬杖をつく。
恋をするって、楽しいことばかりじゃないんだな。本で読んで知ってたけど、こんなにも胸を締め付けられるものだとは知らなかった。
僕は適当にメモ帳を選んで、めくっていく。そのメモ帳は晃と街で偶然再会した日が載っていたものだった。
自然と笑みが洩れ、ふと、火恋のことはどうしようかと思い至った。彼女のことはいずれ正式に国内外にも発表されるだろうと思って報告してなかったけど、僕が先んじても良いだろうか。
「う~ん」
僕は唸ってから、報告書である巻物を閉じた。このことはやっぱり国同士のことに関係しそうだ。黙っておいた方が良い。
僕は筆を置いて、伸びをした。
「一休みしよう」
一段落すると、外から「ピュイー。ピュイー」と、甲高い鳴き声が聞こえた。伝使竜が縁側で羽ばたきながら、中に入りたそうにしているのが、障子ごしに影となって現れていた。どうやらもう、月が出てるらしい。
僕が障子を開けると、伝使竜はそよ風を纏いながら部屋へと入ってきた。籠に取り付けてある掴まり棒に降り立った伝使竜のホルダーから巻物を取り出した。
宛名を見ると、晃からだった。
僕は弾んだ気持ちで巻物を開いた。そのとき、縁側をばたばたと人が走り去って行った。僕は障子を開けて縁側を覗く。
「おい! どけ、どけ! 頭引っ込めろ!」
後ろから誰かが怒鳴って、僕は反射的に頭を引っ込めた。すると、陽空が慌てたようすで走り去って行く。僕は素早くその背に声をかけた。
「おい、どうしたんだ?」
陽空は提灯の明かりを揺らしながら、振り返って声高に叫んだ。
「燗海の爺さんと、ヒナタちゃんがやられた!」
そう言い残して走り去っていく陽空の背を見つめながら、僕はしばらく絶句していた。
(やられたって、誰に? あの強い二人が、なんで?)
そう自問して、やっと僕は走り出した。
陽空の後を追って大広間へ行くと、ヒナタ嬢と燗海さんを含む数人が、傷だらけで横になっていた。
見た目にひどいのはヒナタ嬢で、彼女は利き手である左腕を失い、息も絶え絶えに肩で呼吸していた。燗海さんは目立った裂傷がふくらはぎと腕に幾つか、内臓を損傷しているのか、血を吐いた跡が服にこびりついている。
陽空やアイシャさん、新しくきたムガイ。マル、紅説王に青説殿下までもが対応に追われる中、僕はしばらく体が硬直して動けなかった。嫌な予感が背を這う。
混乱する頭を振って、僕はヒナタ嬢に駆け寄った。
「大丈夫?」
僕の問いかけに、ヒナタ嬢は僕を睨みつけることで応えた。
「ちょっと、すいません」
渋い声で、僕の横に割るように入ってきたのは、ムガイだった。僕は少しあっけにとられながらムガイを見た。ムガイはヒナタ嬢の左腕の患部をまじまじと見つめている。
ヒナタ嬢の腕は、ちょうど肘から下がなくなっていた。切断面は鋭利な刃物で落とされたように見えた。でも、ムガイは意外なことを言った。
「これは、氷系の能力で切断されたものですね。断面に氷が張り付いたことによる凍傷の痕が見られます」
(どういうことだ?)
てっきり、魔竜にやられたものだと思っていた。だって彼らは魔竜討伐に行った隊だったのだから。
「治癒します。少し痛いですが、我慢してください」
ムガイは、青白い顔のヒナタ嬢を勇気付けるように言って、「切断された腕はありますか?」と、訊いた。
ヒナタ嬢は小さく首を振る。
「そんな余裕はなかった」
ヒナタ嬢の表情が、悔しさで歪んだ。
あのヒナタ嬢が、余裕はなかったなんて口にするなんて……。
一体どんなやつにやられたんだ。
不安に駆られる一方で、無性に探究心が疼いた。
「分かりました。では、腕は諦めてください」
ムガイは残念そうに言って、両手をヒナタ嬢の左腕の真上でかざした。
すると、淡く、白い光がヒナタ嬢の左腕の傷口を包み込み、あっという間に筋肉がくっつき、皮膚が再生された。
(ムガイは治癒能力者だったのか……)
顔に似合わない能力に、僕は心底尊敬してしまう。治癒能力者は、能力者の中でも稀だった。僕はすかさずメモ帳を取り出して、今あったことを記載して行った。
ヒナタ嬢は治癒力のためか眠りについた。すやすやと眠る彼女は、出会ってから七年近く経つのに、相変わらず少女のように若く、妖しく煌めいている。黙っていたら――というか、行動しなければ、絶対男は放っておかないのに。
残念な気持ちでいると、燗海さんがむくっと起き上がった。
「今、治癒を」
ムガイが慌てて立ち上がったが、燗海さんはそれを制した。
「良いんじゃよ。ワシはもう治ったからの」
(もう治ったって、そんなバカな)
僕は驚きながら燗海さんを見上げる。燗海さんはふらつくようすもなく、しっかりと立っていた。身体強化能力は、回復力も並外れているらしい。っていうか、こんなのもう絶対、伝説の剣士、目黒燗海本人でしかないだろ。
僕の胸はおのずと確信故に高鳴っていた。
燗海さんが言葉を発する、そのときまでは。
「王に報告申し上げる。討伐隊、三十人中、ここにいる五名を残し、全滅致しました。魔竜はほぼ無傷で、生きております」
「嘘だろ……」
僕は思わず呟いていた。討伐隊は、精鋭部隊だ。条国の王族は選りすぐりの者が選ばれていたし、何よりあんなに強い燗海さんとヒナタ嬢が倒せないどころか、相手が無傷だなんて、ありえない。それに――。
「魔王がいるはずだろ?」
僕の疑念は無意識に口から飛び出た。燗海さんのみならず、皆の視線が僕に集まる。そんな中、燗海さんは口を開いた。
「魔王は、吸収されてしもうた」
僕は自分の耳を疑った。今なんて言った?
「ワシらは、魔竜を退治しに向った。おそらく、魔竜はこの二頭が最後であったと思う。魔竜の目撃は、もうその地域にいる二頭しかあげられてなかったからな。いつも通りに、一頭をワシとヒナタで倒し、もう一頭を倒そうと魔竜の口に魔王を放ったんじゃよ。じゃが、そこで予想だにしないことが起きたんじゃ」
燗海さんは悲痛を隠すように、眉を顰めた。僕は、燗海さんを見据えながら、時折メモ帳に目線を落として速記する。
「魔竜は滅びるどころか、どういうわけか、能力を得てしまったのじゃ」
「能力を、得た?」
怪訝に満ちたアイシャさんの質問に、燗海さんは頷いた。
「やつは、魔王を口にした途端、氷の槍や、重力を操りだしたんじゃよ。そして、あの魂を吸い出す咆哮と能力を武器に、ワシらを襲ってきおったわ。ワシが今回やつにしてやれたのはこのくらいじゃ」
燗海さんは手に握っていた黒い物体を畳の上に放った。
それは、魔竜のどこかの皮膚だった。
ピンク色の肉が裏側に張り付いている。
(じゃあ、やっぱりヒナタ嬢のあのケガは、魔竜にやられたのか)
僕の背筋をぞっとした悪寒が走った。
あのときの、死に掛けた記憶が脳裏に蘇ってくる。
咆哮だけでもあっという間に動きを封じられ、瞬く間に命を刈り取られるのに、その上、能力まで身につけたら……。
僕の頭に、絶望の二文字が浮かんだ。
それは多分、この大広間にいる誰もが過ぎったことだろう。
重苦しい沈黙が、それを物語っていた。