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障壁

不妊に関する話題がでてきます。苦手な方は注意してください、

 公平からプロポーズをされたのが、実家を訪ねた二週間後の土曜日。昼下がりの喫茶店でだった。


 受けるよね、受けていいよね。


 結婚するなら、公平と思ってはいるけど。念のため、と自分の心を最終確認をする。

 その間、じっと黙っていた公平だけど、私が答えを出す前に待ちくたびれたらしい。

 ダメおしの言葉を重ねてくる。

「名前のことが気になるなら、俺が小早川になってもいいから」

「本気?」

「もちろん。俺にとっては、それくらい、麻里のこと本気で思っているから」

「いや、その本気じゃなくって」

「家族っていう、麻里にとって゛一番゛にならせて。俺の一番は、ずっと麻里だから」

 人と争ったり優劣をつけられたりすることの苦手な公平が『一番になりたい』と言う。その、あまりにらしくない言葉に、自分が強く求められていると実感する。

 その実感に顔が綻ぶのを感じながら私は、プロポーズを受ける意思を伝えた。


 私は、公平と家族になる。

 互いにとって、一番の存在に。



 名前の件に関しては、公平の提案に甘えさせてもらうことにした。

 ただ、彼のご両親には反対されるだろうと、思ったけど。結婚の挨拶に行ったときに、意外とあっさり認めてくれた。

「うちのお婆ちゃんがね」

 そう言って、公平のお母さんが話してくれたのは、彼にとって父方の祖母にあたる人の話だった。


 お祖母さんは、通称的に、”ヨネコ”を名乗っておられたらしいのだけど、戸籍上は”米”の一文字で。

「お婆ちゃんの病院に付き添った時に保険証を見て、初めて私も知ったのよね」

「はぁ」

「で、カルテとか薬の袋とかに書かれた名前が、すごく違和感があるのよ」

 黙って立ち上がった公平が、どこかからメモ用紙と鉛筆を持ってきて、さらさらと文字を書き付ける。

 書類仕事に慣れた、読みやすい文字で書かれたのが。


 ”水田米”


水田(すいでん)(こめ)って、ひどいわよねぇ?」

 お茶を一口飲んだお母さんに同意を求められたけど。

 なんと、答えたものやら……。

「昭和初期の結婚だったみたいだから、『そんな名前、嫌』なんてわがまま、言わせてもらえなかったんだろうな」

 公平の言葉に、お母さんも頷く。

「それを思うとね……」

「うちは、跡取りが必要なほどの家でもなし。将来、お墓の管理だけ、きちんとしてくれたらそれでいいから。二人で納得の行くように決めたらいい」

 公平のお父さんである、水田部長もそう言ってくれた。


 ゛普通の女の子゛は、好きな人ができたとき。『お嫁さんになったら、名前が変わるんだ』と、彼の苗字を自分の名前に当て嵌めてみるらしい。

 そんなことを一度もしたことのない、”普通ではない”私でも許してもらえたような気がして。

 心からの感謝の気持ちを込めて、ご両親に頭をさげた。 



 改めて、私の両親にも挨拶をしに行って。母が、ちらりと苗字の変わらないことに対する外聞を気にしたけど。

 『男勝りの小早川』と言われた私の外聞なんて、今更……と、受け流す。

 父も、

「一人娘に婿養子をとった、とでも思わせておけ」

 と、笑い飛ばす。


 私たちは結婚後の姓を選ぶだけで、公平が養子縁組みをするわけではないので、それは誤解、なんだけど。

 ここで暮らすわけではないし、誰かに戸籍を見せるわけでもないので、勝手に誤解してもらうことにした。



 そうして、結婚への準備が始まる。


 仲間へは、夏の初めの飲み会で報告した。

「最近、飲み会が減ったとおもったら……」

 八木さんがニヤニヤ笑いながら、公平のグラスにビールを注ぐ。

「減った? そう?」

「去年の……三割減?」

「それは、言い過ぎじゃない?」

「減ったのは、認めるんだ」

 揚げ足を取られた公平が、困った顔で私を見る。

 確かに……減っている……か。

 企画係の今井さんが退職したし、丹羽さんを諦めた私が『遊びに行こう、呑みに行こう』と言わなくなった分、公平も企画しなくなっていた。


「そこ! 見つめ合わない!」 

 私と同期の橋本さんの指摘に、冷やかしの声が上がる。

「丹羽といい、水田といい。みんな、いつのまにか彼女作っているし……」

 ぼやいたのは九州から一緒だった宮内さん。

「おい、丹羽」

「うん?」

「お前は? いつ結婚?」

 テーブルの向こう端で宮内さんに絡まれだした丹羽さんが、答えをはぐらかすようにのらりくらりと返事しているのを、聞くともなく聞きながら、自分と公平のお皿にササミの大葉巻きを取り分ける。



 幾分かアルコールが回ってきたところで、

「小早川さん、仕事は続ける?」

 と、誰かに尋ねられた。

「うん、とりあえずは」

 そう返事をして。

 隣に座る公平を見たとき。


 彼が軽く、顔をしかめたのが見えてしまった。


 そういえば。

 まだ、そこまで相談していなかった。


 公平は、専業主婦になって欲しいのだろうか。



 金曜日だったその夜は、店の前でお開きになった後、公平が私の部屋に泊まった。

 さっきの結婚後の仕事についての相談が気にはなっていたけど。互いにアルコールも入っていたので、そのままベッドに入った。


 翌朝、朝食を食べ終えるあたりで私は、話を切り出した。


 向かい合って座っていた公平は、手にしていたマグカップをローテーブルに戻すと、組んだ手の上に顎を乗せて。しばらく言葉を選ぶように、口を開いてはやめることを繰り返した。


「先週、出張で本社に行った時に、廊下で先輩と会って」

 重い口が、やっと開かれた。

 その先輩という人は、公平の前任で研究所の総務主任をしていて、私が転勤してくる半年ほど前に本社の人事部へと異動になったらしい。

「世間話をしているうちに、結婚の話になって。社内結婚なら、どっちかが退職だなって」

「は? 退職?」

 そんな規則、あったか? 私がきちんと就業規則を読んでないだけか?

「うん。で、その先輩に、辞めるなら俺の方、みたいなことを言われて」

「なんで、そんなことを先輩が決めるわけ?」

「島野チーム、コンスタントに結果を出してるだろ? だから、麻里を辞めさせるのはもったいないって」

「それは、チームに対する評価じゃない。私なんて、一番の新入りだよ?」

「『あの島野リーダーのもとで二年も働いている時点で、只者じゃない』って言われた」

 確かに、島野リーダーは、仕事に対してシビアな人ではある。

 そんな研究所内部の事も人事の評価も知っている先輩に公平は、『会社の評価でも給料面でも、負けている』と言われたらしい。


 畑違いの私と公平を比べてどうする。

 そんな心ない言葉で、彼の泣きどころをえぐらないで。


 会ったこともない゛先輩゛を、脳内の竹刀で五発ほと打っておく。


 それでも治まらないイライラを、軽く貯めた息をゆっくり吐くことで身体から追い出す。 

「やっぱり、麻里は続けたいよな? 仕事」

「そりゃぁね。辞めたくはないよ。専業主婦になった自分が、想像できないし」

 私の返事に頷いた公平は、頭の後ろで手を組むと天井を見つめた。



 昨夜、何度もシミュレートしてみたけど。

 身近な”専業主婦”である実家の母はいつも、お台所が定位置で。おやつを作って、ご飯の支度をして、針仕事をして。合間に近所のおばさんとお茶を飲んでいた。

 そんな毎日に、どうしても自分を当て嵌めることができなかった。


 そして、私が学校に行っている間の家の中の様子は、想像もつかないけど。母の生活の何割かを、私という゛手の掛かる子゛の存在が占めていたのは、確かだった。

 

 だけど。私は

 私には……。


「公平。私、子供、産めないかもしれない」


 改めて口にすると、重みに潰れそうな事実。

 


 公平と結婚する意思が、自分の中で固まりつつあった春ごろから、私は基礎体温を測っていた。

 仕事柄、一見ばらばらに見えるデータも数を集めてプロットすると、おぼろげに見えてくるラインがあると知っている。

 でも、私の体温データは、どう見ても理想的なラインには乗っていなくって。

 実験の結果としては、”失敗”の状況を示し続けていた。


 先月、そのデータを持って受診した時。

 診察してくれた先生はため息をついて、『もう十年。いや、せめて五年、早く来ていれば……』と言った。

 公平と付き合いだして、生理が整ったように見えていたけど、それは表面的なものでしかなかった。

 

 二十代。女の自覚が……なんて、言っている状態ではなかったことを、私は知らなかった。

 三十歳を過ぎた心が女として目覚める前に、体が女としての機能を諦めてしまっていた。



「そろそろ年齢的に妊娠しにくくなる上に、機能的にも無理かもしれなくって……」

 そこまで話して、そろっと伺い見た彼の顔は、想像以上に険しくって。

 

 『あぁ、ダメだ』と。

 心の奥で囁く声がする。

 その声に押さえられるように頭がさがる。


 テーブルの下で握りしめた手の甲を、どれほど眺めていただろう。

「だったら、麻里」

 静かな公平の声に目を上げる。

 真剣な色をたたえた細い目が私を射る。

「仕事をやめて、治療に専念する、って選択肢はない?」

「それも、考えはしたのだけど……」


 いつかはきっと授かる。

 そんな限りなく薄い期待を抱いて公平の帰りを待つ毎日は、想像しただけで気が狂いそうだった。

 そして数年後、その期待が夢で終わったとしたら。

 現在の仕事には戻れないだろう私は、その先、何を支えに生きていけばいいのだろう。



 そんな事を、なるべく穏やかな言葉を選ぶようにして伝える。

 黙って聴いていた彼は、

「やっぱり。ワーカホリックの集団みたいな島野チームだもんなぁ」

 と言って、また考えこんでしまった。

 

 その沈黙が私を責める。

 もしかして嫌われた、だろうか。

 こんな女とは結婚しない、と言われるのだろうか。


 そう考えただけで、胸が苦しくって。

 いつの間にか、こんなにも公平のことを好きになっている自分に気付く。



「公平……」

「うん?」

「子供、欲しい、よね?」

 そろっと尋ねた自分の声が震えているのが判る。

 私の方をちらりと見た公平は、腕組みをして目をつむった。


 そして

「欲しくない、と言えば、嘘になる」

 彼の答えに心が割れる。


 公平のために身を引くべきだという理性と。

 公平を誰かに渡したくないという感情と。


 二つの心が、綱引きをして。

 公平への想いが、悲鳴を上げる。



 そっと手を握られて、彼が隣に移動してきていることに気付いた。空いている方の手で、涙がにじんだ目を拭う。

「ごめん、公平。ごめん」

「謝る前に、話の続き、聞いてくれるかな?」

 さっきから何度呼んでも、返事をしてくれないし。

 そう言った公平の顔を見て。

 目の表面に残ったような涙を、瞬きで払い落とす。


「麻里の生む子、だったら欲しいよ、俺は。でも、『一番欲しいのは、麻里』って、いつだったか言ったよな?」 

「……プロポーズのとき?」

「そうそう。だから麻里を苦しめてまで、子供が欲しいわけじゃない。麻里が一番、大事」

 言い聞かせる口調の彼が、言葉を脳に染み込ませようとするように、頭を撫でる。髪を梳く。

 去年、短くした髪は、『もったいない』言ってくれた公平のために、付き合いを始めた頃から再び伸ばし始めていた。

 彼の手からこぼれた髪が肩に落ちてくる感触は、彼とすごした時間の長さを物語る。



「本当は、死ぬまで隠すつもりだったけどさ。丹羽の彼女」

「は?」

 脈絡なく出てきた丹羽さんの名前に、驚いて涙が引っ込む。

「丹羽と出会うようにって、俺が裏で糸を引いていた」

「……うら?」

「お父さんに、頼んで。丹羽の見合いをセッティングしてもらった」

 

 水田部長は最初、自分の息子に見合いをさせるつもりだった。

 『公平がその気になったら相手を探す』と言っていたらしいから、あの女性が相手になったどうかは誰にも分からないけど。


「どうあがいても丹羽には勝てそうもなかったから。丹羽に彼女ができたら、麻里が諦めてくれないかなって」

「あぁ、それで。丹羽さんに彼女がいること、知っていたんだ」

「うん。見合いの翌日くらいには、付き合うような話を聞いていた」

「あの日、あそこで会ったのも?」

 あんなに都合よく、デートをしている二人に出会って。そのとき、隣に公平が居たのも、何か作為があった?

「いや、あれは全くの偶然。俺もびびった」

 そう言って、公平が苦笑いをした。  



「どうしても、麻里の”一番”になりたくって。でも、真正面から丹羽と勝負することもできなくって。卑怯な手を使った」

 後ろめたさを含んだような声で、公平が呟く。

 いつの間にか、彼の視線が床に落ちていた。

「出会いは、勝負じゃない、って言わなかった?」

「”同じように出会って”しまったら、その先は勝負になっちゃうだろ?」

「……そうね。勝負、よね」

 一年前。私も圧倒的な優位を示していた丹羽さんの彼女と、自分を比べて打ちひしがれた。

 その思い出をトレースするように、公平の苦しそうな声が重ねられる。

「ましてや、絶対に手に入れたい相手の見ている先に、自分じゃない奴、それも勝ち目のない奴がいると、気付いてしまったら……」

 


 『勝負』と何度も繰り返す彼の言葉に、これまで交わした会話の断片が浮かび上がる。


 同期である自分と丹羽さんの関係を、サリエリとモーツアルトになぞらえては、『落ち込む』と言っていた公平。

 同い年のプロ野球選手や、織音籠(オリオンケージ)なんかとは、『高校に入る時点で差がつきすぎて比べる気にもならない』と、肩を竦めていた公平。

 かつてのメッシー扱いだった頃でも、”本命の男”に勝負を挑むだけの負けん気なんてなかった、と苦笑いしていた公平。

 

 比べられることを厭う公平の心の裏側に、『勝てない勝負はしない』ような、こじれた”負けん気”が潜むように感じる。

 その反動が、何度も繰り返される『麻里の一番になりたい』という言葉として表れている気もして。

 


「公平」

「うん?」

「卑怯でも何でも、私の縁は公平と繋がったでしょ?」

「……うん」

「今の私にとって、公平が”一番よ?」

 私にとって゛一番゛であることで、彼の心が安らぐのなら。

 一日中でも、一生でも言い続けてあげる。


 それは、嘘偽りのない。

 真実の言葉だから。 



 私の手から、彼の手が離れて。

 ぎゅっと、その胸に抱きしめられた。


 互いの体を伝って、鼓動が聞こえる。

 その音に重ねるように、ポツリポツリと、彼の声が耳元で聞こえる。


 もしも、先輩の言うとおり、自分が退職することになったら。そのまま一緒に仕事を続ける私と丹羽さんを想像するだけで、気が狂いそうだったと。


「公平。ものすごく、いまさらな話だけど。結婚退職って、就業規則に在った?」

「いや。お父さんに尋ねても、慣習的に……って。でも、多分どっちかが転勤にはなるらしい」

「そう」

「転勤先によっちゃ、単身赴任だよなぁ」

「結婚早々、って考えたら、結局退職になる、わけか」

「うん」

 研究所から一番近いのは、本社だ。県境をまたいだ、東隣の市にある。

 主任の肩書きのある公平なら……可能性はあるかもしれないけど。

 それでは、彼の”気の狂いそうな”状況と、何も変わりない。


 だったら、私が”気の狂いそうな”状況に、足を踏み入れるか。

 それとも、全く新規の仕事になる事務職に転属して、どこかの営業所とか支社へと勤務することになるか。


 互いのぬくもりを感じながら、思いつくことを言葉にしてみる。

 ふっと、公平が息を吐いた。


「使えるものは、親でも使え、か」

 それは、『立ってるものは親でも……』じゃなかったっけ?

 何か違う、と思っている私をよそに、彼の言葉は続いていた。

「お父さんのコネでも七光りでも利用して、何とか単身赴任も退職も回避しよう」

「できる、かな?」

「まずは、週明け。所長に結婚することを報告がてら、相談してみよう」

「うん」

「仲人も頼まないといけないし」

「うん」


 一番大切なお互いが、”気の狂いそうな状態”に陥らずにすむように。

 何とかして、この状況を乗り切りたい。


 そう決意したことでなんだか

 人生の全てに立ち向かえる気がしてきた。


 公平と一緒なら。    


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