縁は出会い
年明けから、正式に”恋人”となった水田さんのことを、”公平”と名前で呼ぶようになったのは、その月の終わりごろ。
その頃には、いわゆる男女の一線も越えていた。
自分の体が、触れられるだけで、あんな反応をするとは知らなかった。
自分の喉から、あんな声が出るとは知らなかった。
彼との間につながった情は、私の体に化学反応を起こす触媒のようだった。
そして、その”触媒”は、私の体内にも変化を起こした。
もともとかなり不順で、”女の自覚”が生まれてから、二ヶ月に一度くらいの周期で安定していた生理が、翌月からきっちり毎月訪れるようになった。
生体ホルモンというものは、ごく微量でも多大な影響を及ぼすとは聞いていたけど。
ここまで、劇的に変わるとは思わなかった。
互いの関係も、私自身の体も。
着実に結婚へと向かおうとしていた。
その年の春、今井さんが故郷に帰るから、と、退職して。代わりに、二人ほど新入社員が研究所にも配属されて。
新しい年度が始まった。
母から、一度”恋人”を紹介してほしい、と連絡があったのが、その年のお花見の頃。
公平は二つ返事で、承知をしてくれて。
ゴールデンウィークに二人で帰省することになった。
「連休……後半だけ、かも?」
デートの途中で立ち寄ったコーヒーショップで、スケジュール帳を眺めながら言った私に、公平は
「なに? また実験が大詰め?」
頬杖をついて笑う。
「うーん。大詰め、じゃ無いけど。どうも区切りが中途半端で……」
この年の連休は、前半に三連休、後半が四連休とカレンダーどおりの休みでも、”おいしい”並びだったけど。
前半の三連休の前には終わりそうに無い実験は、三日も間を空けたらそれまでの積み重ねが全て、ダメになりそうな気配で。
「休日出勤になるかな、って、話してる」
「代休、ちゃんととりなよ」
「うん。それは、チーム全体として、後半とくっつけて五連休にするから」
代休を取るのが連休前の水曜日になるか、連休後の月曜日になるかは、これからチーム内の話し合いをしてから決まることだけど。
「じゃぁ、それに合わせて、俺も有給を使うかな」
「そう?」
じゃぁ、連休は実家に行くだけじゃなくって、一緒にいられる時間がたくさん持てる。
そう言った私に、公平もうれしそうに笑った。
公平に対する両親の評価といえば。
『ちょっと気が弱そうな所が気になるけど。まぁ、いい人そうで安心』といったものだった。
反対されるような相手だとは思っていなかったけど、”認めてもらえた”という事実が、一つの自信になって。
結婚への意識が、しっかりと根を張る。
互いの中で、結婚に対する意識が実を結ぶ日も近い。
たぶん。きっと。
実家で一泊したその夜は、公平とお酒を酌み交わしていた父が私のアルバムなんか引っ張りだしてきて。茶の間のちゃぶ台の上で、男二人が好き勝手なことを言いながら、古い写真を眺めていた。
行きつ戻りつ、何度かページがめくられて。
生後すぐの写真が貼られた、最初のページが開かれていた時だった。
私の横でお茶を飲んでいた母が、小さな声を上げた。
「どうしたの?」
母につきあってお茶を飲んでいた私の問い掛けに、母が何かを言い淀んだ。
父の前のお皿から一切れ摘んだカマボコを、口へと運ぶ母。
逃がすものか、と意気込んでじっと見つめていると、モグモグとしばらく口を動かした後で
「名前、つけ間違えたかなぁ、って」
根負けしたように答えが返ってきた。
父が、ため息ともうなり声ともつかぬ声を立てながら、お七夜の写真を撫でる。
ベビー布団で眠る私の枕元に飾られた、墨痕鮮やかな”麻里”の文字。
亡くなる一年ほど前の、祖父の手蹟。
「水田さんと結婚したら、ほら……」
思わせぶりな母の言葉に、公平と二人、顔を見合わせる。
「名前がね……」
「だから、なに?」
「みずた まり」
それがどうした、と言いかけて。
”水溜り”か、と気付く。
それは、考えてもみなかった……。
なんともいえない沈黙が落ちたうえに、そろそろお酒も飲みきった、と、誰からともなく席をたつ。
公平を客間に案内して、私も自分の部屋に引き取る。
翌朝、遅めの食事のあとで、実家を後にして。交代で運転しながら、高速道路を走る。
昨日、母が言った名前の件については触れないようにしながら、いつものような世間話を交わす。
二度目の交代で私がハンドルを握っているときだった。
渋滞情報を拾うためにつけてあるカーラジオから、私たちの住むあたりを活動拠点にしているロックバンドの曲が流れた。
「最近、よく聴くよね。織音籠って」
助手席で、曲にあわせて軽くハミングしている公平に話しかける。
「あぁ、去年くらいからかな?」
一年ほど前に発売になった、バラードを集めたベストアルバムから、妙に人気が出たらしい五人組。
”ご近所さん”だし、同年代だし、となんとなく親近感が湧いている。
それに。
「一度、私、会ったことあるんだ」
「へぇ? いつ?」
「えーっと。去年の冬、かな。公平が同窓会でいないからって、私一人で美術館に行ったときに」
「あぁ、あれか。」
美術ってよく分からない、といっている公平と行くのも悪いかな、と思ってあえて一人で出かけた県立美術館。
「ボーカルのJINが、彼女連れで来てたのよね」
「おぉ」
感心したような相槌に、威張るように胸を張った所で、前の車のブレーキランプがともる。
渋滞情報はまだ流れていないけど。そろそろ始まりだしたらしい。私もぶつからないようにと、速度を落として。
「どんな彼女だった? やっぱりきれいな人?」
公平の質問に、潜めた声で話しながら作品を眺めていた二人を思い出す。
はっきりとした面立ちなんかは覚えていないけど。
「うーん。かわいい人だったと思う」
「へぇ」
「芸能人の彼女、って雰囲気じゃなくって」
「雰囲気?」
「ほら、丹羽さんの彼女なんかは、芸能人の彼女でもおかしくない気がしない?」
「あぁ、確かに、きれいな人だったよな」
そんなことを言っている間に、前の車が完全に止まって。
私たちも、渋滞の列の後ろにつく。
いつの間にか、織音籠の曲は終わって、ラジオからは呑気なコマーシャルソングが流れていた。気の抜けるようなメロディーに唆されるように、ちょっとした懺悔を。
「あの時、どうして丹羽さんの彼女がJINの彼女じゃなかったのかなぁって、思っちゃったのよねぇ」
「はぁ?」
怪訝そうな公平の声に続きを促されて、醜い嫉妬心を曝け出す。
「こんなに近い所に芸能人がいるんだから、丹羽さんじゃなくって、JINと付き合っていてもいいと思わない? そしたら、丹羽さんはフリーのままか、彼女が居てももう少し゛普通の人゛だったかなぁって」
「麻里……」
公平の声が剣呑な響きをおびて、まずいと、思った。
「まだ、吹っ切れていないときだったから、許して」
チラチラと前の車を気にしながら、片手で拝むように謝ると、隣で彼が深い息を吐いた。
「許すも何もないけど。普通の人だったら、何か変わった?」
「気後れせずに、勝負を挑む気にもなったのかな、って思ってね」
「人の縁は勝負じゃないでしょ? 人の縁は、出会いだよ」
宥めるような彼の声が、脳裏に浮かんだ”丹羽さんの彼女”の姿を溶かし去る。
「さっき、麻里が言った同窓会、なんだけど」
「うん?」
じわりと動き出した前の車を注意しながら、返事をする。少しだけ前進して、またブレーキ。
サイドブレーキを引いてから、彼の方を見る。
「同窓会がなに?」
「うん。中学校の頃の同窓会でさ。飲んでいるうちに、織音籠の話題が出たわけ」
「へぇ」
どんな同窓会だ。
「同じ部活だったヤツが、織音籠の連中と一緒の高校だったらしくって」
「自慢?」
「そう言ってしまうと、身も蓋もないけど」
小さく笑って指差した公平に教えられて、前がまた動いたことに気付く。
「俺が落ちた高校なんだよね。それが」
「……」
「俺も合格してたら、織音籠と同じ学校の同級生だった」
えぇっと。織音籠って……。
「ああ、そうか。私より一学年下、だっけ」
「そう。麻里はこうやって遠くで育って学年も違ったのに、織音籠と会った事がある。俺は、同じ高校になったかもしれないのに、一度も会った事がない。人の縁、なんてそんなものだろ?」
「そうか」
「JINの彼女はJINと出会ったけど、丹羽の彼女は出会わなかった。それだけのことじゃないの?」
それだけのこと。
確かに、人の縁は出会えることが、最初の一歩。
今朝出てきた故郷や、入社後しばらく暮らした九州では゛姫゛を見つけられなかったし、公平と結ばれることもなかった。
今につながる゛縁゛を思いながら私は、左にウインカーをだして、サービスエリアにつながる側道へと進路を変える。
休憩と運転の交代をして。
私たちが出会った゛街゛まで、後少し。