訪れた転機
泣き酒の翌日は、さすがに二日酔いで。
泣きはらした目も悲惨な状態で。
”美容院に行く”なんて気力の無いまま、一日をダラダラ過ごす。
「あれ? 小早川さん。プチ整形?」
「は?」
翌、月曜。朝のロッカールームで八木さんに訊かれて、面食らった。
「整形? 誰が?」
「だって。小早川さん、二重瞼になってる」
「あぁぁぁ」
左手をロッカーの引き手に掛けた状態で、右手で顔を覆う。
「元は、一重?」
「いや、奥二重なんだけど。ちょっと、土曜に呑みすぎて……」
アルコールと涙で浮腫んだ昨日の顔を思い出す。
丹羽さんの彼女を見た翌日に、アレを鏡で見たショックといったら……。
「浮腫みが取れたら、なんか瞼の山折り谷折りがおかしくなったみたい」
「へぇ。そんなこと、ってあるんだ」
「八木さんも、次の連休にどう? 深酒アイプチ」
そんな馬鹿話をしていると、後ろで総務の小野さんがクスクス笑っている。
大丈夫。私は、大丈夫。
いつも通り笑えているし、このあと、仕事もできる。
と思ったのは、大きな間違いだった。
この週は、小さなミスが続いて。全く実験が進まなかった。
金曜からの三連休に絡めた有給を月曜日に取っていたことが、救いだった。
金曜は、朝のうちに美容院に行って。
気分転換、とばかりに、転勤直後くらいの長さまで短くした。
そのまま、実家に帰って。
翌日、祖父母の法事に参列する。
午後からは親族一同でお墓参り、と町外れの山腹にある墓地へと向かった。
ワイワイとしゃべりながらお墓の掃除をしている母や伯叔母たちの邪魔にならないようにと、ちょっと離れた所でお供えの荷物番をしていた。
松林の間から、海が見えた。
自宅のある県は、海が遠くって。久しぶりに見る白波を、じっと眺める。
「おばちゃん」
ツンツン、と手を引かれて視線をおろすと、六歳になる従姉の長女が私を見上げていた。
「なぁに、由美ちゃん? 疲れた?」
しゃがみこんで、そう尋ねると、由美ちゃんは小さな頭を横に振る。
おかっぱの髪が広がる。
「おばちゃん、歯、痛い?」
「は? 歯?」
いーっと、歯を見せながら指差すと、勢いよく頷いた由美ちゃんの、
「おばちゃん、痛いお顔、してる」
そう言った顔に、心配の色を見た。
そうか、こんな幼子にも分かるほど、落ち込んでいるか。
元気、出さなきゃ。
「うん。大丈夫。おばちゃん、海で泳ぎたいなーって思ってただけだから」
「何を、馬鹿なこと言ってるの。泳ぐんだったら、夏に帰ってきなさい」
母の声と同時に、グリっと固い物が背骨に当たる。
振り返ると、母に肘鉄をされたらしい。こっちに突き出していた肘をさげた母は、汚れた手を擦り合わせながら、水道へと歩いていく。
その顔にも、見えた気遣う色。
だめだなぁ。
失恋ごときで、こんなにあっちこっちに心配掛けて。
グーッと、背伸びをする。
防砂林沿いに並ぶ家々を見下ろす。
この町から離れて就職すると決めたとき、思ったじゃない。
姫は、見つからないかもしれないから。
私は一生、一人で生きていくと。
日曜日の午前中に、実家を発って。高速道路を運転している最中、助手席のバッグの中から、携帯がメールの着信を告げる。
ダッシュボードのデジタル時計は、そろそろ一時間半ほど運転を続けていることを示していた。
次のサービスエリアで、休憩しよう。
眠気覚ましのホットコーヒーを飲みながら、メールをチェックすると、水田さんだった。
【帰っているなら、呑みに行こう】という誘いに、先週の醜態を思い出す。
『こんな状態の女の子と割り勘なんて、鬼の所業じゃない?』とか言って、奢ってもらってしまったし。帰りも、タクシーで送ってもらったし。
あぁ、そういえば。帰りのタクシーで、実家から戻るのは今日になるかも、と予定未満の話もしたっけ。
先週のお詫びがてら、呑みに行くのも悪くない。
今日は、私の奢りで。
自宅に戻って一息いれてから、軽く身だしなみを整えて。
待ち合わせの駅へと向かう。
約束した時間を少し過ぎて、水田さんが改札を通ってくる。
「うわっ、そこまで……」
細い目をいっぱいに見開いて、大袈裟にのけ反る彼に、こっちが驚く。
「女の子って、失恋で本当に髪を切るんだ」
「あぁ、これ?」
短くなった髪に、指を通す。
三日目にもなると、自分では慣れてしまってて、そこまで驚かれるとは思っていなかった。
「せっかく、似合ってたのに……」
「そう?」
「うん、もったいないなぁ」
しみじみと言われると、少し後悔のような気持ちが芽をだす。
「仕事でミスが続いたから、ちょっとした現直しのつもりだったんだけど」
「ミスをした償いに、髪を下ろすのはどうかと……」
「いや、仏門に入る気はないから」
尼削ぎが云々、と与太話をしながら、夕暮れの道を歩く。
いつもの飲み会の延長でチェーン展開の居酒屋に入って、互いに適当に注文を入れるのもいつものことで。
『とりあえず』と頼んだビールで、乾杯した辺りまでは……いつもと同じだったと思う。
だけど、水田さんの口数が徐々に減ってきて。
そのうちに、気分を変えるような話題を探すのも難しいほど、会話がなくなってしまった。
何か鬱屈をかかえているような彼のグラスにビールを注いでは、チラチラと様子を見ながら黙って料理に手を伸ばす。合間に彼の取り皿にも、勝手にとりわける。それを文句一つ言うわけでもなく、機械的に口へと運ぶ水田さん。
先週の私とは違った、何かを抱えて。
彼は、私を呑みに誘ったのだろうか。
そろそろ春巻きのお皿も空になるし、と、メニューを手にしたところで、彼に呼ばれた。
軽い調子を装って返事をして。メニューをいったん片付ける。
何かを思いつめたような顔をした水田さんは、グラスに少しだけ残っていたビールを飲み干した。
「小早川さん。俺と、つきあってください」
唐突な申し出に、頭の回転がついていかず、何度も瞬きを繰り返す。
「弱っている所に付込むみたいだけど」
「あー、うん」
「あんな風に泣かすことだけは、絶対にしないから」
さっきまでのだんまりの反動のように、勢い込んだ言葉が降ってくる
「丹羽の代わりになれるほど、できた男じゃないから、物足りないだろうけど」
うん?
「好きな気持ちだけは、あいつが彼女を思うより絶対に強いから」
「ちょっと待って」
テーブルの上に置いていた私の両手を握り締めて力説している水田さんに、ストップをかける。
さっきから繰り返される、丹羽さんと比較するような水田さんの言葉に、のどに刺さった小骨のような違和感を覚える。
「丹羽さんに彼女ができたから、負けたくないとか思って、言ってない?」
「そんな負けん気、俺にはないよ」
「そう? 今の私なら、楽勝、とか……」
失恋した直後に告白されるなんて、人生はそんなに甘くないと思う。
思うから、”裏”をかんぐってしまう。
ひどい勘繰りをする私を、水田さんの眠たそうな目が、意外と鋭く睨む。
「だから、弱ってる所に付込むみたいで、ごめんって言ったじゃないか」
「あぁ。そうか」
話がグルリと一周して、最初に戻った。
「本当に衝動とか負けん気とかで、言ってるわけじゃなくって。実は、小早川さんが転勤してきた年の花見の頃から好きで……」
「二年も前から?」
それに、花見なんて……転勤から何日後だった?
「言い出す勇気がどうしても出なくって」
その気持ちは分かる。
この街に転勤して以来、浮き沈みを続けてきた自分の心を思い出す。
「でも、小早川さんが丹羽に近づくのは我慢できなくってさ。丹羽と二人になるのを邪魔しようと思って、仲間の飲み会の予定を入れたり……」
「あー」
そっかぁ。悪いことしたなぁ。
知らなかったとはいえ、勝手に自分の恋を応援してくれると思い込んで。
失恋の泣き酒にまでつき合わせてしまった。
「丹羽が食えないのをいいことに、小早川さんが渡したバレンタインチョコを横取りしたり……」
「え? 食べれない?」
「あ、やっぱり知らなかったんだ。あいつ、アレルギーか何かでチョコがダメらしいよ」
そんなこと、有り?
チョコアレルギーなんて、聞いたこともない。
初めて知った諸々の事実に頬杖をついて、唸る。
しばらく黙っていた水田さんは
「とりあえず、失恋の痛みが癒えるまでの間だけ、隣に居てもいい?」
さっきまでの勢いが嘘のような弱気な言葉を呟くように言いながら、手酌でビールを注ぐ。
「とりあえず?」
「いや、本当はちゃんと彼女になって欲しいけど」
それは勝手すぎるかと思ったり……なんてことを口の中で、ゴニョゴニョいいながら、私のグラスにもビールが注がれる。
「それって、今までと何かが変わるのかな?」
ぬるくなったビールの入ったグラスを指先で撫でながら、改めて考えて。
休日に二人きりで会ったり? って考えたら、今までの”仲間付き合い”との違いが分からなくなってきた。
「少しずつ変わってくれればいいよ」
「少しずつ?」
「とりあえず、の期間が過ぎたときに、結婚相手として考えてもらえれば、俺としては最高」
そう言って、照れたような顔で笑った水田さん。
おぉっと。
彼は、そこまで意識してるのか。
この私を。
そう思うと、嫌な気分はしなくって。
赤くなっているだろう顔を一回、縦に振った。
翌週末から、休日には一緒に出かけたりご飯を食べたり。
一緒に帰ることは互いの仕事の具合とか、車通勤であることとか障害が多くってなかなかできなかったけど。それでも時々、どちらかの車に同乗して帰ることもあった。
「学生時代はほら、バブルの真っ只中だからさ。メッシー扱いとはいえ、彼女みたいな存在はいなくも無かったけど」
そんなことを言いながら、手ごろでおいしいお店を見つけてくる水田さん。
「彼女みたい、な?」
「そう。本命はどうも他にいる感じなんだよね」
「ふーん」
「それこそ、負けん気が強かったら、『俺が本命になってやる』って、下克上も起こすだろうけど」
「起こさなかったんだ」
「うーん。自分に自信が無い、っていうかさ……」
恥ずかしそうに顔を伏せながら、出されたお絞りで手を拭いていたりする。
二人で過ごす時間が増えて、水田さんのことを少しずつ知る。
小学校から高校まで野球をしていたけど、レギュラーには一度もなれなかった、とか。
”決済の関係”で、主任の肩書きをもっているとか。
開発の水田部長の息子が私の一期下で入社したらしい、と言う噂の主だった、とか。
親の七光り、と言われる事が嫌で、あまり出世に意欲が無いとか。
小さい頃から、人と比べられることが苦手だとか。
私のことも色々話した。
さすがに、前世からの丹羽さんとの因縁までは話さなかったけど。
そんな日々を重ねるうちに、その年も暮れた。
「麻里、お見合いでもする?」
ミカンを剥いていた母にそう尋ねられたのは、正月の二日だった。
明日の朝には実家をでて、明後日には仕事始めと、このあとの予定を話していたはずだったのに。
「何? 突然」
「うーん。秋のほら、法事のときからちょっと、ね」
ああ、最悪のタイミングで帰省したっけ。
「なんだか、麻里の仕草を見てたら、『最近、髪を切ったな』って思ったし、なんだか落ち込んでるみたいだったから。これは失恋でもしたのかなって、ね」
「……そこまで、分かるもの?」
「何年、あなたの母親をしてると思ってるの」
剥き終えたミカンの房を口に含んで母が微笑む
お見合いをして、結婚、かぁ。
そう思ったときに、自然と水田さんの顔を思い浮かべた。
御伽噺のような”恋”でも、魂に刻まれた”愛”でもないけど。
この数ヶ月の間に、彼を想う”情”が、確かに私の中で育まれていた。
そして。
「今、結婚を意識して付き合っている人が一応いて……」
自分の言葉に、”とりあえず”の期間が自分の中で終わっていたことにも気付く。
「へぇ? どんな人?」
「同じ研究所の総務主任でね……」
うん、うん、と相槌を打つ母に、彼のことを話す。
次のデートのときには彼に伝えよう。
改めて、彼とは。
『結婚を意識した相手』として、付き合いたいと。