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覚醒

 『姫と出会った時に、性別が決まる』

 かつて信じていたことは、間違いではなかった。


 第二次性徴の兆しから、二十年を経て。私に女である自覚が宿った。

 その自覚は、日頃から不順な生理を、三ヶ月ぶりに呼び起こしたらしい。その夜、薄暗い部屋で一人、ふとんの中で丸まって、ゆっくりとお腹を撫でる。


 不快でしかないはずの鈍痛が、高らかに゛女である゛と宣言しているように感じられて。

 誇らしいような気分で眠りにつく。



 私に゛自覚゛を与えるきっかけとなった旅行の計画は、皆の予定がなかなか合わず、立ち消えになった。

 『残念だけど。仕方ないよね』『また、次の機会に』なんてことを、仲間達と言い合っていたけれど。

 内心では、『貞操観念が薄い』と丹羽さんに思われなくて済んだと、胸を撫で下ろしていた。


 こんなに私に都合よく物事が運ぶのは、きっと。

 運命が味方してくれている。



 『運も実力のうち』と言ったのは……高校のときの顧問の先生だったか。

 そして、『運が味方についた試合は、絶対に落とすな』とも。


 その思い出にしたがって、『飲みに行こう』とか『遊びに行こう』と、仲間を巻き込んでは丹羽さんと出かける口実を作る。

 ストレートに”告白”なんてことができず、恐る恐る距離をつめようとしているのは、女としての自覚を持ったばかりの初心者としては、仕方ない。

 だけど、時々。自分でも情けないと思う。


 もうちょっと、こう……勉強してくれば良かったなぁ。

 学生時代の他愛ない恋愛話に、まじめに耳を傾けていれば、何かヒントがあったかも知れないのに。


 実験の合間に報告書を書きつつそんなことを考えて。資料室から持ってきたらしき論文雑誌からノートになにやら書き写している丹羽さんの顔を眺める。


 まさか、姫のほうに記憶が無いなんて、思ってもみなかった。



 仕事のほうもパッとしないまま、その年が暮れる。

 正月休みは、とりあえず実家に戻って。近所のおばさんや、親戚からの『まだ、嫁に行かないのか』攻撃をうけるのは、いつものこと。


「もうちょっと、女らしく髪を伸ばすとかしたら、違うのに」

「……はぁ」

「麻里ちゃんって、造作は悪くないと、おばさん思うのよね」

「あー。どうも」

「服装だって、そうよ。スカートとか穿いたら?」

「いや、寒いじゃないですか」

「そんなこと言っててどうするの!」

「……すみません」

 ”人生の先輩”として、いろいろアドバイスをしてくれるおばさんたちに、いつものように弱く反論しながらもこの年は、ちょっとばっかり考えてしまう。


 髪を伸ばして、スカートを穿いたら。

 丹羽さんに、意識をしてもらえるだろうか。



 実家から戻ってきた私は、新春バーゲンで数年ぶりにスカートを買った。

 試着室では似合うと思ったし、仕事始めには穿いて出勤する気でいたけど。

 当日の朝、スカートから覗くストッキングの足を見て怖気づく。


 なんか、とてつもなく恥ずかしい。


 友人の結婚式とか、転勤の初日といったスカートを穿くのが当たり前のような日とは違う、普通の日に足を出して外に出るのがこんなに恥ずかしいなんて。

 高校のセーラー服の延長でスカートを穿き続けていたら、そんなことは考えもしなかったかもしれないけど。

 うーん。


 しばし考えた私は、やっぱり脱ごうとしてウエストのホックに手を掛けた。

 ふと見た壁のカレンダーが目に入る。


 今日は、仕事始めだ。

 スカートを穿いて出勤しても、”理由”はつけられる。

 今日、穿かなかったら。

 次に穿ける日はいつ?



 意を決して、そのまま通勤バッグを手に取る。

 運転用のローヒールパンプスに足を入れる。


 今年一年、がんばろう。



 朝からあれほど悩んだ末に穿いたスカートだけど、職場についてしまえば動きにくいから、いつも通りTシャツとジーンズに着替えて、白衣を羽織る。

 悩むほど、たいしたことじゃないんだよなぁ。実は。

 でも、まあ。踏ん切りはついた。

 週に一度くらいは、スカートで出勤してもいいかもしれない。



「おや、スカート」

 後ろからそんな声がかかったのは、その日の仕事を終えて駐車場へと向かっていたときだった。

「珍しいなぁ」

 振り向くと、腕組みをした水田さんがそんなことを言いながら、一人で頷いている。

「どんな、心境の変化?」

「いや、たまにはいいかな、と」

 仕事始めだし……と、今朝、自分を納得させた理由も口の中で付け足す。

「たまにじゃなくって、毎日でもいいんじゃない?」

「そう?」

「うんうん。似合うって」

 そう言われたら、やっぱり悪い気はしない。

 毎日穿こうと思ったら、ちょっとお財布的に厳しいけど。もう一着くらい買い足して、月末に予定している仲間内の新年会にも穿いて行こうかな、なんて考えてしまう。  



 その新年会の日。

 終業まであと一時間くらいになったところで、丹羽さんがシャーレを三つ並べて唸っていた。

 いい結果なのか、悪い結果なのか。

 天井を見上げて、首を捻って。チャートシートを指で辿っては、なにやら呟いている。


「丹羽さん?」 

 私のほうの実験は、明日までの結果待ちなので、手伝えることが無いか声を掛けてみる。

「あー。小早川さん、今日の……」

「夜?」

「遅れていくか……最悪、無理っぽい、かも」

 仕事中、珍しいことに”仲間”の会話をした彼は、椅子から立ち上がると島野リーダーの所へと相談をしに行ってしまった。


 残された私は、おとなしく明日の計画を立てるほうに頭を切り替える。

 島野リーダーに提出する報告書と計画書は、片手仕事で片付けようとすると、些細な間違いをしてやり直しを食らうことになる。

 そんなつまらないミスの積み重ねで、チームからはずされたりしたくない。

 丹羽さんに女として見てもらう以前の問題として、一緒のチームで仕事ができる”運”を無駄になんかしない。


 それに。

 もしも将来、チーム編成が変わるようなことがあるなら。丹羽さんに『小早川さんと一緒に仕事がしたい』と言ってもらいたいから。

 私はいつも、目の前の仕事に全力を尽くす。



 念のため、と、その日の仕事を終えて、あとは着替えるだけの状態で、丹羽さんに声を掛けてみた。

「行けそう?」

「うーん。一時間遅れ、かな?」

 あと少しだけ、様子を見て。その結果次第とはいえ、たぶん、明日に持ち越し。

 そんな見通しを告げる丹羽さん。

「私、今日は運転係だから、待っていようか?」

「いや、今井さんたちが困るだろ?」

「男性陣の車に、余裕があるじゃない」


 公共交通では通勤できないこの研究所では、仕事のあとで飲みに行くのにも車が要る。

 出勤のときに使った自分の車は研究所に停めておいて、数台に分乗して移動。翌日は、最寄り駅でピックアップしてもらっての出勤、というのがいつものパターンだった。

 そして女性は女性同士で、というのも私が来る前からの慣習で、今日みたいな仲間うちの飲み会でもそれは変わらない。 

 今夜の女性グループは、私の軽自動車で移動することになっているから定員ぎりぎりだなのだけど、男性グループ側の車は若干の余裕があった。更に、丹羽さんが乗らないとなると、私以外の三人が乗るには何の問題もない。


「あのさ、小早川さん」 

「なに?」

「男と二人きりで車に乗るのは、ダメじゃない?」

「……昭和のお父さん?」

「そういうことに、昭和も平成も関係ないよ。それに、今井さん達を乗せる方が先約だろ? 先約が優先だよ」

 小早川さん自身の残業なら、仕方ないけどね。

 そう言った丹羽さんは、実験台の上においてあったマイクロピペットを手に取った。


 あ、仕事モードにきりかわった。

 無駄話は、ここでおしまい。



 その夜、丹羽さんは結局来なかった。

 始まって一時間が経とうか、という頃、テーブルの上に置いてあった携帯が鳴った。持ち主である水田さんが手に取ったと同時に鳴り止んだ着信は、メールだったらしい。彼が画面を確認している間に、空になっていたグラスに隣からビールを注ぐ。

「丹羽、今日は泊まりってさ」

 という水田さんの報告に、少し離れた所から、私と同期の湯沢さんが

「何、やったんだ? 帰れないようなミス?」

 なんて、冗談交じりに尋ねる。

「うんにゃ……」

 猫の子のような返事をしながらメールを打っていた水田さんが、携帯をテーブルに戻してグラスを手に取った。 

 ビールを飲みこんだゴクリという音を聞きながら、私は大皿に手を伸ばした。


「なんか、ここで止めるのはもったいないとか言ってる」

「お、大発見か?」

「かもな」

 そんな湯沢さんと水田さんの会話を聞きながら、取り分けたホタテのフライをかじる。

 さすがは、院卒だなぁ。

 水田さんと同期の丹羽さんは、私より一年あとの入社なのに。結果を出そうとしている。



 『金一封出たら、丹羽に奢らせろ』なんて声もあがる中、丹羽さんの食事が気になった私は、水田さんに尋ねてみた。

「多分、カップ麺とかじゃないかな。ロッカーにいくつか置いてあるみたいだし」

「カップ麺……」

「明日の朝は、俺がコンビニでパンを買って行ってやるし」

 始業前の休憩室で慌ただしくパンをかじりながら、オレンジジュースを飲んでいる姿が思い浮かぶ。


「……あれ?」

 違和感を覚えた会話を頭の中でトレースする。

「どうした?」

 私のあいたグラスにビールを入れようとしている水田さんを押しとどめて。

「ロッカーにカップ麺? 備蓄?」

「は?」

「丹羽さん、今までにも、泊まってる?」

「あぁ。時々やってるな。ほかにも……」

 と、水田さんが何人かの先輩の名前を挙げる。そして、当然のように、島野リーダーの名前もあがる。

「そっかぁ。泊まりで……」

「事務処理が面倒だから、総務としてはやめてほしいんだけどな。聞きやしない」

 『ああいうのをワーカホリックって言うのかね』と言いながら、にらチヂミに手を伸ばす水田さんの方へと大皿を引き寄せてあげる。


「今井さんは、泊まりってしてる?」

「は? 泊まり?」

「丹羽さんみたいに、泊まりで残業って」

 向かいの席の今井さんに尋ねてみたら、横から水田さんが慌てたように

「女子は、だめ!」

 とえらい剣幕で話の邪魔をする。

「女子はダメって、丹羽さんじゃあるまいし」

 来る前の会話を思い出して、眉間にしわ寄る。

 ここにも”昭和のお父さんが”いたとは。

「ダメなものはダメなの。法律できまってるから」

「なにそれ?」

「労働基準法で、女子の夜勤は職種が限られてるの。泊まりの残業なんて、もってのほか。そうでなくても事務処理が大変って、今さっき、俺言ったよね?」

 残業と夜勤って、別物じゃ……ない?

 そんな疑問が頭を過ぎったけど。

 『まったく、研究者って、これだから』と文句を言っている水田さんを宥めて、ビールのお代わりを注ぐ。



 丹羽さんと私の、研究者としての距離は日々開いていってしまう。

 そして、男女の距離は……


 縮められる日が来るのだろうか。

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