1 非日常のはじまり
何もない、真っ白な空間で目が覚めたとき、ああ、死んだんだなと雫は妙に冷静に思った。静謐に包まれた乳白で不透明の世界は、生き物の気配を一切感じない。ちゃんと立っているし、汚れもない制服を着ているけれど、四肢の感覚はあまりない上に、はっきりしてきた意識は、気を失う前の情景を浮かび上がらせてきたから。
静──楚々とした女性の名前のようだが、立派な高校男児──と一緒の帰り道、後ろから車に轢かれた。衝突の瞬間を見たわけではないが、あれだけの衝撃と轟音なのだ。相当のスピードが出ていたはず。
──あんな静の顔が最後なんて。
「一人で納得しているとこ悪いけど、君、死んでないよ」
「え?だって、すっごくありがちな展開じゃない」
こうやって説明してくれる人類外セイブツ的なモノとか、この空間だって超常現象でしょう。仏教で言うところの、死んで生まれ変わる間の『中有』ってやつじゃないの?
やわらかい声に脊髄反射で応えると、相手はくすっと笑った。少し高い、もう間違いなく綺麗な顔をしているに違いないと確信をもてるような、やたら美声な青年の声だ。
「君は相変わらずだねぇ。同じ状況で、そうやってやたら冷静に悪い方へ納得するなんて」
白の世界に光が差す。彩りが宿る。長い黄金の髪、金色の瞳、真珠色のゆったりとした衣服に包まれたしなやかな肢体、その剥き出しの部分に見える範囲に絡みつく、蔦のような刺青までもが淡い金色の光を宿した…。
「美形じゃない、やっぱり」
雫は青年の顔を見上げて言った。自慢じゃないが雫の身長は150センチ以下、おまけに平凡を絵に描いたような顔だ。無駄に長身の美形なんぞ、いっそ腹立たしい。なに、この神々しいばかりの美貌は!
「おとこのくせに、みょうな色香をしたたらせているのは、はんざいだとおもうのよ」
「なんだか変な情感が篭っているけど、私の姿は見るものによって違う。君が持っているいわゆる神の概念の集大成だからね。年齢も性別もあってないようなものさ」
じゃあ、小首を傾げるしぐさも様になる、うつくしい外貌すべてが自分のせいだというのか。腹の立つっ!雫は心の中で拳を握った。
「……で?死んでないなら、私はカミサマとご対面する夢を見ているとでも?」
頭を切り替えて尋ねる。ぶすっとした顔と声になったのは仕方がないと割り切った。
「そうだね、それに近い。紛れもない現実だけれど」
と自称カミサマは軽く手を振った。白の世界。スクリーンとなったそこに切り取られた情景が浮かぶ。
───それは。
「なにこれ!」
電柱と縁石とひしゃげた車、その間のわずかな隙間に横たわる自分。不思議と血の赤い色は見えないが……ここまではいい。想像していた、と言うか覚えていた通りだ。
だが、運転席から出てきたと思しき男が、なぜ包丁を握っている?なぜ静を刺そうとしている?
「覚えているかな?轢かれる前、クラクションの音もブレーキの音も聞こえなかった事」
すぐ近くにいるのに、やけに遠くから青年の声が聞こえて。雫はのろのろと首を縦に振った。
覚えている。車が迫ってくる気配がして振り返ろうとした。その時は、もうぶつかる瞬間だった。視界が黒に染まって、それで。
「あの運転手は、ブレーキどころかアクセルを踏み込んだんだよ。狙われたのは主に君。あわよくば君の幼馴染の里内静君を害そうとした。今日、学校で言われただろう?昨日、学校の近くで不審者を見かけたようだって。あれは君を探していたこの男だよ。下見のつもりだったんだろうね、あからさまに怪しい言動をしたせいで、学校側が警戒して学生たちに注意を呼び掛けた」
静止画だと思っていた映像は、じりじりとひどくゆっくりと動いている。憤怒の形相をした静の足が、男の包丁を持った右手首へ決まる。空手の全国大会優勝者に相応しい、お手本のように綺麗な前蹴りだ。聞こえないけど、ぐしゃりと音が聞こえたような気がした。
包丁がアスファルトの上を滑る。男も右手を抱えて地面に転がる。……素人目にも骨が砕けたと、そう思った。
「まあ、ちょっと考えなくても、この通りの有様なのだけど」
静が落ちた包丁をさらに遠くへ、男の手の届く範囲から離すように蹴飛ばした。痛みで転がる男を放置して、静は打って変わって蒼白の顔で携帯を取り出そうとしている。手が、体が、ぶるぶる震えていた。視線の先には意識のない自分の姿。唇がしずく、と動いた。
「これがまさに今現在の出来事。時間を限りなく緩やかにして、君をここに呼んだ。話す時間がほしくて」
青年は再び手を振って画像を消すと、雫のほうへ向き直った。
「今、君は意識だけでここにいる。あんな状態でも、君は死んでないどころか傷一つない。体が小さいからうまく隙間に挟まって無事だった。倒れたときに頭を打って脳震盪を起こしただけ。最終的にはそれで済んでしまう。…本当は直撃しているから、全身打撲、内臓破裂で即死だったのだけど…ぶつかった時、痛くなかっただろう?」
ひどい映像を見せてすまない。
青年はそう頭を下げる。
「このあとも、万が一にも怪我をするようなことはないから、それだけは安心してほしい。君が望めば元の体にちゃんと戻す。けれどその前に、私の話を聞いてほしい」
「……望めば、病院かどこかで目が覚めるのね?」
「いま、静君が救急車を呼んでいるから、目覚めるとしたら搬送先の病院になる。約束する」
「………わかった」
静と自分の身が無事なこと、ちゃんと帰れる保証をもらった雫は、こっくりと頷いた。
「…よかった。私のことはユークレースと呼んでくれ」
ふわりと笑った青年は、本当にうれしそうだった。多分というか、確実に人知を超えた神様的存在なのに、腰が低いというか親切なのが少々気になる。
雫の知る神は、洋の東西に関わらず、傲慢で無慈悲な一面がある。とくに日本の神は八百万といわれるくらい数が多いが、その多くが祟り神と言われる存在だ。あげ奉って触らないのが一番という付き合い方だったと思うのだが。
「……それで?どうして私が、というか私に会いたかったの?」
ユークレースはため息をついた。どこから話そうか、思案するように。
「先に言っておく。私は君に死んでほしいとお願いしに来た」
「……は??」
「さっき言った通り、君が望む限り元には戻すよ。その場合、君の余命はあと一年だ」
「はあぁぁ???」
雫は絶叫した。
長くなるから座って。そう言われて、いつの間にかあった応接セットみたいな、白くやわらかいソファに腰掛ける。
ユークレースは雫の横に座った。……なぜ横に??
「私は時の流れを見定めて、よりよい方向に導く役目を持っている存在だ。君が理解できる概念に一番近い言葉だと、時と運命を司る神、かな?いくつかの世界を見守っているけど、そのうちの一つが、君のいる地球を含むこの時空だ」
綺麗な顔が近い。光を放っているような金色の髪が、ユークレースのちょっとしたしぐさによって、さらさらと流れた。なるほど、いくら自分の中の神の概念だとしても、人でなければこの美しさは許されないだろう。白磁の肌に這い回る金色の刺青が、青年の美貌に一層の凄みを与えている。
「……で?どうして私は狙われたの?」
「そっちからか。……余命のこと、聞くのが怖い?」
「…………怖いに決まってる」
運命の神のご宣託なんていうからには、変えようもない決定事項として自分の『死』があるのだろう、と簡単に予測ができるからだ。
「…………私は、なんで死ぬの?今回みたいに事故とか、怪我とか?」
「───病気だよ」
意外だった。
雫は産まれたとき息をしていなかったそうで、そのせいか今でも体は小さいし、発育不良を疑われてはいたものの、至って丈夫で風邪もろくにひいたことのない健康優良児だったのだ。
「まだ自覚はないだろうけど、これからだんだん症状が顕著になる。倦怠感、動悸、息切れ、微熱。そんなものが続いた後、寝床から起き上がれなくなり、ちょっとした動作でめまいがして息が苦しくなる。高熱が続いたあと体がうまく動かなくなり、やがて死に至る。地球上の医学では治療ができない。これは如何な私でもどうにもうならない、変えようもない事実。……だけど方法がないわけじゃない」
「それが今すぐ死ねってこと?そんなの、意味ないじゃない」
今死ぬか、一年後に死ぬか。どちらか選べと言われたら、大概が後者を選ぶだろうに。
「意味ならあるよ。……そうだね、先に君が今すぐ死なないで、あと一年生きた場合の話をしようか」