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少年法の壁  作者: リンダ


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母の名前

後日談


「母の名前」


 私は、小さい頃から、“母の昔”について詳しく聞かされることがなかった。


 ただ、どこか不自然だった。


 学校で提出する家族紹介。


「お母さんはどんな人?」


 そう聞かれるたび、私は少し困った。


 母は優しかった。

 少なくとも、私には。


 ご飯も作ってくれた。

 熱を出せば看病してくれた。

 運動会にも来てくれた。


 でも、時々、母は異様なほど“人の視線”を怖がった。


 外食中、誰かがこちらを見ただけで顔色が変わる。


 SNSを見て、急にスマホを伏せる。


 夜中、泣いている声が聞こえたこともある。


 何かがおかしい。


 でも、私は踏み込まなかった。



 高校二年の冬だった。


 きっかけは、本当に偶然だった。


 学校で、社会問題を扱う授業があった。


 テーマは、「いじめと加害責任」。


 そこで教師が、ある有名な作品を紹介した。


『少年法の壁』


 私はそのタイトルを聞いた瞬間、妙な違和感を覚えた。


 なぜか、母が何度も見ていたネット記事と同じ名前だった。



 その夜。


 私は軽い気持ちで検索した。


 最初は、ただの興味だった。


 だが、読み進めるうちに、背中が冷えていった。



 加害者。


 神谷莉央。



 画面の文字を、私はしばらく理解できなかった。


 同姓同名。


 そう思おうとした。


 でも、年齢。

 出身地。

 過去の投稿。


 全部、つながっていく。



 私は、息が苦しくなった。



 理人。


 美羽。


 飯山。


 転校。


 いじめ。


 隠蔽。



 母は、その“中心”にいた。



 その夜、私は吐いた。


 トイレの床に座り込んで、スマホを握りしめる。


 頭の中で、母の顔と、記事の内容が何度も重なった。



 どうして。



 どうして、そんなことを。



 どうして、何も言わなかったの。



 そして、もっと恐ろしかったのは。


 記事の中の理人や美羽が、“普通の子ども”だったことだった。


 悪人じゃない。


 特別な人じゃない。


 ただ、普通に学校へ通っていた兄妹。


 その人生を、母たちは壊した。



 翌朝。


 私は、母の顔をまともに見られなかった。


 母はいつも通り、「朝ご飯できてるよ」と言った。


 でも、その声が遠かった。



 数日後。


 私は、母に聞いた。


「……神谷莉央って、お母さん?」


 母の顔から、一瞬で血の気が引いた。



 その沈黙で、全部分かった。



「……そう」


 小さな声だった。


 私は、その瞬間、自分の中で何かが壊れる音を聞いた。



「なんで」


 声が震えた。


「なんで、そんなことしたの」


 母は泣き始めた。


「ごめんなさい……」


「違う!」


 私は叫んでいた。


「私に謝ってどうするの!」



 母は何も言えなかった。



 私は、その夜、自室のドアに鍵をかけた。


 母の足音が廊下で止まる。


 でも、開けなかった。



「話したい」


 母が言う。


「……お願い」



 私は、布団の中で耳を塞いだ。



 それから、私は母を避け始めた。


 食事の時間をずらした。


 会話を減らした。


 学校でも、ずっと考えていた。



 私は、加害者の娘なんだ。



 その事実が、頭から離れなかった。



 友達に知られたらどうしよう。


 先生は知ってるのか。


 誰かが、もう気づいてるんじゃないか。



 でも、一番苦しかったのは、別のことだった。



 母は、私には優しかった。



 そこだった。



 あんなことをした人間が、私には普通に笑いかけていた。


 その事実が、怖かった。



 私は、何度も理人たちの記事を読んだ。


 飯山のジム。


 星空教室。


 理人が子どもたちへ話す言葉。



「この力は、人を傷つけるために使うものじゃない」



 私は泣いた。


 母が壊した相手のほうが、ずっと人として強かった。



 そして私は、メッセージを送った。



「もう会いません。

 これから先、私の人生に関わらないでください」



 送信ボタンを押したあと、手が震えた。


 涙が止まらなかった。



 私は母が憎かった。


 でも同時に。


 嫌いになりきれなかった。



 小さい頃、一緒に海へ行った記憶。


 熱を出した時、朝まで看病してくれたこと。


 誕生日ケーキ。


 入学式。



 全部、嘘じゃなかった。



 だから余計に苦しかった。



 人は、こんなにも矛盾したまま存在できるのか。



 優しい母。


 誰かを壊した加害者。


 その両方が、同じ人間の中にいる。



 私は、それを受け止めきれなかった。



 数年後。


 私は家を出た。


 進学を理由にした。


 母は駅まで来た。


 でも、私は最後まで目を合わせなかった。



「元気でね」


 母が言う。



 私は、答えなかった。



 新幹線の窓から、ホームが遠ざかる。


 母の姿が小さくなっていく。



 私は泣いていた。



 でも、その涙が。


 母を愛している涙なのか。


 母を失う涙なのか。


 自分でも分からなかった。



 それから長い時間が流れた。


 私は結婚した。


 子どもも生まれた。



 そして、ある夜。


 眠る娘を見ながら、私は突然、理人たちのことを思い出した。



 もし。



 もし、自分の娘が同じ目に遭ったら。



 私は、絶対に許さない。



 その瞬間。


 ようやく私は、本当の意味で理解した。



 理人たちは、正しかった。



 会わないという選択も。


 許さないという選択も。



 全部。



 私は、静かに泣いた。



 母はもういない。


 最後まで、私は会わなかった。



 でも今でも時々、考える。



 もっと早く、母が止まれていたら。


 もっと早く、本当に謝れていたら。



 違う未来は、あったのだろうか。



 答えは出ない。



 ただ一つ分かるのは。



 誰かを壊した瞬間から。


 その傷は、被害者だけでなく、加害者の家族にまで、静かに広がっていくということだった。

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