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少年法の壁  作者: リンダ


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その先に残る問い



スピンオフ小説


「その先に残る問い」


 結婚式が終わっても、飯山の家のにぎわいはしばらく続いていた。


 親族が帰ったあとも、居間にはまだ花の匂いと笑い声の余韻が残っている。

 祖母は片づけをしながら「今日はよう笑った」と何度も言い、祖父は少し酒が入って上機嫌だった。

 健斗と葵は、ようやく肩の力を抜いたようにソファへ座り込み、美羽はまだドレス姿の光を見ては「やっぱり似合ってる」としつこく繰り返していた。


「もうそれ十回目」

 光が苦笑する。


「だってほんとだもん」

「お前はそのうち、自分が主役のときに同じこと言われる側だろ」

 理人が言うと、


「私はまだ先」

 と美羽は即答した。

「今はボクシングで忙しいから」


 その言い方に、家族みんなが笑う。


 笑いながら、理人はふと思う。

 昔、自分はこの“なんでもない家族の笑い”さえ、もう二度と戻らないかもしれないと思っていた。


 でも今、ここにある。


 戻ったわけではない。

 壊れる前のままに戻ったわけでは決してない。

 けれど、壊れた先で新しく作り直した時間が、ちゃんとここにある。



 数か月後、美羽は女子フライ級の全国大会へ出場していた。


 兄と義姉が世界の舞台へ立ったからといって、自分まで特別になれるわけではない。

 そんなことは、美羽自身が一番よくわかっていた。


 縄跳び。

 ロードワーク。

 ミット。

 スパーリング。

 繰り返しの毎日。


 汗で前髪が額に張りつき、呼吸が苦しくなっても、美羽は止まらなかった。


「もっと腰入れて!」

 トレーナーの声が飛ぶ。


「はいっ!」


 リングの中で返す声は、昔よりずっと強い。

 ただ元気なだけじゃない。

 怖さを知ったうえで、それでも前に出る子の声だった。


 観客席には、理人と光が並んでいる。

 理人は少しだけ身を乗り出し、光は腕を組んでじっと見つめている。


「美羽、前より詰めるタイミングよくなったな」

 理人が言う。


「うん。でも、ちょっとまだ感情が前に出る」

 光が静かに返す。

「そこ抑えられたら、もっと上行く」


 まるで自分たちの試合を見るような目だった。


 そして試合が終わる。


 判定は、美羽の勝ち。


 グローブを外した美羽は、汗だくのまま兄と光の方へ駆け寄ってきた。


「どうだった!?」


「よかった」

 理人が言う。

「でも最後、ちょっと雑」

「えー! 勝ったのに!」

「勝ったから言えるんだろ」

「うわ、理不尽」

「いや、正論」

 と光が笑う。


 美羽はむくれたあと、結局自分でも笑った。


 こうして前へ進む時間が、伊達家にはもう根づいていた。



 夜、家へ戻ったあと、美羽は一人でメダルを机の上へ置いた。


 派手な金ではない。

 世界の舞台でもない。

 でも、自分で勝ち取ったものだ。


 その横には、兄と光の新聞記事の切り抜きが置いてある。

 オリンピックの金メダル。

 世界王座統一。

 結婚会見。


 昔なら、その眩しさに気後れしたかもしれない。

 でも今は違う。


 追いつけるかどうかは分からない。

 でも、自分も自分のリングで前へ出る。


 それが、美羽の答えだった。



 一方で、横須賀の時間も止まってはいなかった。


 かつての六年一組の子どもたちは、それぞれ別の人生へ進んでいた。

 進学した者。

 就職した者。

 地元を離れた者。

 逆に横須賀に残った者。


 だがどこへ行っても、ふとした瞬間に理人の名前を見かける。


 世界戦の結果。

 光との夫婦特集。

 美羽の国内大会優勝。

 インタビュー記事。

 テレビのスポーツコーナー。


 そのたびに、胸の奥の何かがざらつく。


 誇らしい、と思ってしまう瞬間がある。

 すごい、と思ってしまう。

 あの理人が、ここまで来たのかと。


 でもそのすぐあとで、もっと冷たくて重い現実が落ちてくる。


 自分たちが、その理人を一度は壊しかけたのだという事実。


 それは何年たっても消えない。



 神谷莉央は、仕事帰りの電車の中でスマホ記事を見ていた。


 理人と光、夫婦そろっての特集。

 飯山のジムで並んでミットを打つ写真。

 記事の最後には、二人が地元の子どもたちへボクシングを教える活動もしていると書いてある。


「……ほんと、すごいな」


 そう思う。


 でもその言葉の後ろに、絶対に消えないものが続く。


 それを自分は言う資格があるのか。

 その人の人生を一度壊した側なのに。


 電車の窓に映る自分の顔を見て、神谷は目を逸らした。


 後悔は、もう一生分あるのかもしれない。

 それでも足りない気もする。

 そういう重さを抱えたまま、ただ今日も生きている。



 高石正美は、ある冬の午後、飯山の小さなジムを訪れた。


 もう教師としてではなく、ただ理人たちの今を見たいと思ったからだった。


 リングの中では、理人が地元の中学生へステップを教えている。

 その横で、光が別の子のミットを持ち、美羽が一年下の女子に縄跳びのコツを教えていた。


「違う違う、手首だけで回すんだって」

「こう?」

「そう、それ!」


 高石は少し離れた場所から、その光景を黙って見つめた。


 あの教室では守れなかったものが、ここにはある。

 自分はそれを、一生忘れずに生きていくのだろう。


 理人が気づいて近づいてくる。


「高石先生」


「久しぶり」

「はい」


 短い沈黙のあと、高石は言った。


「……いい場所ですね」


 理人は、小さくうなずいた。


「そうですね」


 それ以上、多くは語らなかった。

 でも、その短いやり取りだけで十分だった。



 夜。

 ジムの練習を終えた理人と光は、家へ帰る途中で少しだけ立ち止まった。


 冬の飯山の空は澄んでいて、星がよく見える。


「寒い」

 と光が言う。

「そりゃ冬だし」

「ロマンのない返しすんな」

「事実だろ」


 そう言いながら、理人は少し笑う。


 光がその横顔を見て、ふっと目を細めた。


「……なんかさ」

「ん?」

「ここまで来たね」

「……うん」


 どこまで、なのか。

 世界王者になったことか。

 夫婦になったことか。

 それとも、あの教室で息ができなくなっていた少年が、こうして誰かと肩を並べて夜空を見られるようになったことか。


 たぶん、全部だろう。


「でも、消えないな」

 と理人が言う。


「何が?」

「横須賀のこと」


 光は、すぐには何も言わなかった。

 その沈黙のあとで、静かに答える。


「消えなくていいんじゃない」

「……」

「消えないままでも、ここまで来れたし」


 理人は、その言葉を何度か胸の中で繰り返した。


 消えないままでも、ここまで来れた。


 それはたしかに、この人生が証明していることだった。



 スピンオフの最後に、画面は静かに切り替わる。


 理人の金メダル。

 光の世界王座ベルト。

 美羽の汗で濡れたグローブ。

 飯山の夜空。

 横須賀の街を流れるニュース画面。

 どこかでそれを見る、かつての六年一組の誰かの横顔。

 学校の校舎。

 空いた教室。

 閉じられた扉。


 そして、ナレーションもBGMもないまま、最後に一つの問いだけが残る。



守らなければならないのは、被害者の未来ですか。

加害者の未来ですか。

それとも、学校関係者の昇進レースですか。



 画面は暗転する。


 答えは、示されない。


 だがその問いだけが、最後まで観た人の胸に残る。


 それぞれの教室へ。

 それぞれの家庭へ。

 それぞれの社会へ。


 そして、観る者自身の中へ

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