スピンオフ 「遠い拍手」
スピンオフ小説
「遠い拍手」
テレビの中で、理人はまっすぐ前を見ていた。
ライトを浴びたリングの中央。
巨大な歓声。
金色のベルト。
肩には日本国旗。
実況アナウンサーの興奮した声が、夜の部屋に響いている。
「伊達理人、これでヘビー級世界王者防衛成功です! 圧巻の判定勝ち! そして来月には、女子ミドル級統一王者・秋生光選手との結婚披露会見も予定されています!」
その画面を、獅童は一人で見ていた。
アパートの狭い部屋。
缶ビールは半分ほど残っている。
仕事から帰って、何気なくつけたスポーツニュースだった。だがチャンネルを変えることができなかった。
理人が勝った。
また勝った。
もう何度目だろう。
世界戦のたびにニュースになり、特集が組まれ、過去の苦労や、飯山に移ってからの再生の物語が語られる。
そのたびに、獅童は画面を見てしまう。
見なければいいのに、見てしまう。
自分には関係ない顔をしながら、最後まで見てしまう。
画面の中の理人は、昔の理人とはもうまるで違っていた。
背は高くなり、体は鍛え抜かれ、目には揺るがない光があった。
だが、ふとした笑い方の端や、試合後のインタビューで少し言葉を選ぶ間に、あのころの面影が残ることがある。
それがいちばん苦しかった。
「……すげえな」
誰に聞かせるでもなく、獅童はつぶやいた。
すげえ。
本当にすごいと思う。
あの理人が。
自分たちが、あそこまで追い詰めた理人が。
世界チャンピオンになって、何万人もの歓声を浴びている。
少しだけ、誇らしいと思ってしまう自分がいた。
同じ教室にいた。
同じ空間で、同じ時間を過ごしたことがある。
そんな理由にもならない理由で、胸のどこかが熱くなる。
だが、そのすぐあとに、冷たいものが落ちてくる。
自分たちは、その理人を壊した側だった。
何年たっても、その事実だけは変わらない。
誇らしいと思う資格なんてない。
獅童は缶ビールを持ち上げかけて、やめた。
口の中が妙に乾いていた。
⸻
一方、神谷莉央は実家のリビングで、母親と無言のままそのニュースを見ていた。
画面が切り替わる。
今度は光の特集だった。
女子ミドル級世界王座を統一したばかりの光が、ジムで笑っている。
汗だくの髪を後ろで束ね、サンドバッグを打つ姿はしなやかで力強い。
ナレーションが流れる。
「秋生光選手は、長野県飯山市出身。幼いころからボクシングに打ち込み、伊達理人選手とは少年時代から互いを支え合ってきた存在として知られています」
そして次の画面には、記者会見の映像。
理人と光が並んで座っている。
左手の薬指には、それぞれ指輪。
光が照れくさそうに笑い、理人が少しだけ穏やかな顔でうなずく。
「競技のことでも、生活のことでも、ずっと支えてもらってきました」
理人が言う。
「これからも一緒に前へ進みたいと思っています」
光も笑って言う。
「昔から、こいつは私が守るって勝手に思ってたんで。今はもう守る守られるっていうより、一緒に立ってる感じです」
記者たちの笑いが起きる。
フラッシュが光る。
神谷は、その映像をまっすぐ見ることができなかった。
眩しかった。
理人は、もう自分たちが知っていたころの理人ではない。
でも、あの人生のどこかに、自分たちが刻んでしまった傷があるのだろうとも思う。
そう考えると、胸の奥がひりついた。
母親が小さく言った。
「……立派になったね」
神谷は何も答えなかった。
立派。
そうだろう。誰が見てもそうだ。
でも、そんなふうに言われるたびに、神谷の中では別の声が響く。
お前が、あの子の人生を一度壊しかけたんだろう。
神谷は膝の上で手を握りしめた。
「……うれしいよ」
自分でも驚くほど、小さな声が出た。
「少しだけ、うれしい」
母親が振り向く。
神谷は画面から目を逸らしたまま続けた。
「でも、それ言っちゃいけない気もする」
母親は何も言えなかった。
神谷自身も、答えを持っていない。
ただ、理人が幸せそうにしているのを見ると、救われるような気持ちが少しだけある。
その一方で、自分がしたことを思うと、その感情を持つ資格すらないと思う。
その矛盾を抱えたまま、大人になってしまった。
⸻
海野ひよりが演じた中島こころのモデルとなった少女――中島こころは、地方の小さなカフェでスマホのニュースを見ていた。
そこには美羽の姿もあった。
『伊達美羽、女子フライ級国内王座防衛成功』
兄に似た目元。
だが笑うと、兄よりずっと快活で明るい。
試合後のコメントで、美羽は笑っていた。
「兄と義姉が世界でやってるんで、私も負けてられないです。うちは全員、しつこいんですよ」
会場が笑う。
こころは、その記事を見つめたまま、ふっと息を漏らした。
美羽まで、ここまで来たんだ。
あのころ、自分は美羽にまで嫌な言葉を向けた。
兄を守ろうとしただけのあの子に、正義のヒロインぶるな、みたいなことを言った。
今思い返しても、最低だと思う。
それなのに、画面の中の美羽は強くて、明るくて、ちゃんと前を向いていた。
「……すごいなあ」
こころは誰にともなくつぶやいた。
そして、目の奥が熱くなる。
後悔は消えない。
もう消えないものとして、ずっとここにある。
でもその後悔の隣で、理人や美羽や光が前へ進んでいることを、少しだけうれしいと思ってしまう。
それはたぶん、許される感情ではない。
けれど嘘でもない。
⸻
そのころ、飯山の家では、理人と光が帰省していた。
居間には大きなスポーツバッグが転がり、祖母が台所で忙しく動いている。
祖父は「世界チャンピオンが二人おる家は狭いな」と笑い、美羽は「私もそのうち入るからもっと狭くなる」と本気で返していた。
光がソファに寝転がりながら言う。
「美羽、次の試合いつだっけ」
「来月」
「勝つ?」
「勝つ」
「よし」
「何その雑な応援」
「でも勝つんだろ?」
「勝つけど」
理人がそのやり取りを見て少し笑う。
その笑顔は穏やかだった。
昔の傷が消えたわけではない。
横須賀のことを忘れたわけでもない。
学校からの表彰を断ったときの気持ちも、今でも変わっていない。
でも、それでも今の自分には、この家がある。
光がいて、美羽がいて、父と母がいて、祖父母がいる。
壊されたまま終わらなかった人生が、ここにある。
⸻
同じ夜、横須賀のどこかで、かつての六年一組の誰かがまたテレビをつけるかもしれない。
理人の試合。
光の特集。
美羽の勝利。
そのたびに、胸の奥の古い傷が少しだけ開くのだろう。
自分たちのしたことは、何年たっても消えないと知るために。
でも同時に、少しだけ思うのだ。
あの人が生きていてよかった。
幸せそうでよかった。
強くなってよかった、と。
その感情を持つ資格が自分にあるのかは分からない。
たぶん、ないのだろう。
それでも、そう思ってしまう。
そして、そのたびにまた思い知る。
後悔は消えない。
許されもしない。
けれど、その重たい宿題を抱えたまま、自分たちもまた生きていくしかないのだと。




