秋の初めに
群青色の空に白い月が浮いている夜。錆びついた数年来の友とも呼べるママチャリで国道を走る。遠くの草むらで虫が澄んだ声でりんりんと鳴いている。数日前までは暑苦しい風だったのに、今はもう涼しい。むしろ、半そでのシャツからのびる腕が冷たいぐらいだ。気付けばもう秋なのだ。時が経つのは早い。
そこまで考えがいたって、ふと笑いがこみあげてくる。そうか。僕がこの土地に来て、もう五ヶ月ほどになるんだ。
僕がここに来たばかりの頃は桜が溢れんばかりに咲いて、桜の木々を見上げながら歩くのに大変だった。その桜の木も、夏には生い茂った青葉が所々夕日の茜色に焼け、数枚の葉が既に足元にあったものだ。
そんなことを思い出しながら自転車を漕いでいると、とある公園が見えてきた。公園は静かだった。いつもの昼間の面影ですらない。そう思えば、この公園はいつも賑やかだった気がする。夜にも人が憩う場所だった。春には夜桜を眺め、酒杯を傾ける花見客が大勢賑わい、夏には祭りの提灯が空に浮かんだ。だが、人が賑わう季節は過ぎ去ったのであろう。そこには人っ子一人存在していなかった。
ふと気づいて空を見上げると、日がどっぷり暮れていた。電燈に灯りがともり、辺りを静かに照らしていた。ふいに、僕は何か得たいのしれない心細さを感じた。なんとなく誰かに会いたいような気持ちになった。自然と自転車をこぐ力が強まった。それに伴い、スピードがどんどんと上がる。風が冷たかった。夏は終わったのだと改めて思い知らされた。
公園と僕の住んでいるアパートは近い。しかし、今日は何故かいつもより長く距離を感じた。ぎしぎしと錆で軋む自転車を漕いでいると、管理人室の窓から零れる明かりが見えてきた。何故か少しほっとした気持ちになった。自分の部屋の郵便ポストを除く。郵便物がないかを確かめると、すぐそばの階段を上がった。僕の部屋は階段を上がって、手前から4番目の部屋だった。何回も穿いてボロついたジーンズのポケットを探って部屋の鍵を確かめる。ポケットの中で冷たい金属の感触がする。さっき感じた一抹のもの寂しさが再び込み上げてきたが、とりあえず部屋の鍵を開けた。部屋に入る前にふと目を右にやると、いつも灯りの着いている隣の部屋が真っ暗なことに気付いた。まだ帰ってきてないのか。また少し心細くなった。
自分の部屋に入ると、どっと眠気が溢れてきた。耐え切れなくなって、靴だけ脱いで、ふらふらと布団に近づき、そのままうつ伏せに倒れ込んだ。何か懐かしい匂いがする。左に目線を向けると、昨日届いた実家からの食糧やら日用品やらが詰まった段ボールがどんと狭い部屋の中に鎮座している。窓を見上げると、ちょうど雲の間から月が顔を出した。畳の上の青い光が幻想的だった。目を閉じると、世界を支配するのは何処かでちりんちりんと寂しそうに鳴る風鈴と、まだ何処かの家庭で焚いているのであろう蚊取り線香の匂いだけ。懐かしいような、寂しいような、そんな思いに包まれながら眠りに落ちた。
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「おーい。起きろー」
聞きなれた声と頬の痛みで目が覚めた。どうやら僕はうつ伏せのまま寝ていたようで、ゆっくり起き上がると頬だけではなく腕にも赤い畳の跡がついていた。寝ぼけた頭のまま視線を上げると、隣にしゃがんでいるひとつの影があった。
「そんな格好で寝てると風邪引くぞ、お前」
そう言って彼は立ち上がった。月明かりでしか見えないが、まぎれもなく隣の住人だった。
「なんで、ここにいんの?」
「なんでって、鍵が開けっ放しだったぞ。泥棒入ったらどうすんだよ」
そう言われて、ようやくぼんやりしていた思考回路が冴えてきた。僕は鍵も閉めずに寝てしまったのだ。不用心と言われても仕方ない。
「最近物騒なんだから、どんなに眠たくても戸締りはちゃんとしろよ」
うん、と小さく頷く。とりあえず体を起して、布団の上に胡坐をかいて、体をひねったりのばしたりする。コキコキと小聞みの良い関節の音が聞こえた。
「お前なんかいい夢でも見たの? ものすごく楽しそうな顔してたぞ」
え? と思わず聞き返してしまう。そう言えば、帰ってくるまでに感じていたものは、いつの間にかどこかへ飛んでいってしまったみたいだ。寂しいとも懐かしいとも感じなくなっていた。
「あ、それと、後であいつら来るって。月が綺麗だから、月見パーティーしようってさ。まぁ、まだ九月十三日じゃないけど、先取りも悪くないよな。もう秋だしな」
僕はまた小さくうんと頷いた。隣人はその反応を見て満足したのか、彼もまたうんと頷いて軽くステップを取りながら玄関に近づいて行く。ドアを開けてトントンと靴の履き心地を確かめた後、「じゃ、後でな」と軽く手を挙げながら言ってドアを閉めた。
そっと立ち上がってドアの鍵を閉めると、小さい机の上に乗せておいた手紙を手にとって、開けっ放しの窓に寄り添った。手紙は昨日届いた段ボールに付随していた両親からの手紙。空を見上げて、改めて本当に綺麗だ月だと思った。そして、手にしている手紙に書いてある一文を思い出す。
「僕はもう、ひとりじゃないよ」
独り言のように呟いた。否、完全に独り言だ。こんなこと照れくさくて誰にも言えない。隣の部屋からは灯りが零れていた。そう言えば月見パーティーはあの公園でするのだろうか。また賑やかになるなと思い、笑いたくなった。窓を静かに閉めた。澄み切った夜のことだった。
“The autumn beginning is a viewing the moon party”――END