六 香港
晋江訪問の翌年の六月中旬、香港の九龍地区から香港島に向かうフェリーボートの群衆の中に、商社の広岡と土田の姿を見出すことができる。一九九一年(平成三年)というと日本のバブル経済にも陰りが見えて来た頃であって、土田の会社が請負う先々の工事の受注単価も明らかに下降を始めており、工事の規模も小粒になりつつあった。この二年後の一九九三年秋をピークとして建設業界のバブルも弾け、業界は深い低迷期に入ることになるのだが、この頃の土田建材はまだ一年後、二年後竣工の、横浜みなとみらい地区や、赤坂、六本木、丸の内などの、中型、大型工事を抱えており、売上予想も採算もまずまず良かったので、自社工場の過大な設備投資や在庫投資に眼をつぶれば社業は順調であった。
殊に横浜みなとみらい地区の「熱狂」はすさまじいモノがあって、超高層ビルを着工して、まず鉄骨を立ち上げる鳶職の親方は勿論、土田の会社の職人のような外壁に石を取り付ける仕上げ業者の親方に至るまで、通常の三倍ほどの手間(日当)をもらって働いていた。当然そこで使う材料にしても構造材のH鋼から仕上げの石材に至るまで、良い材料の奪い合いとなり、単価の下がる要素は無かった。石材の場合は、当時流行っていた北米、特にカナダ材やスペイン、イタリー、ブラジルなどの、高価だが安定した材料が横浜地区でも使われ、安い中国材の出番はまだ無かった。
「こんな時期に、建一は何で香港に行けって言ったんだろう?」
と、この時は土田も思ったのだが、後から考えれば確かに先々の工事の受注単価は下がって来たし、すでに複数の同業他社が中国の加工工場を使い始めており、一方の土田建材は山東省から福建省まで廻ってみても、社長の建一の眼にかなう適当な工場が見つからず、この時は、建一が、
「香港から経済特区の広州まで足を伸ばして調査して来い」
と土田を送り出したのだった。しかし三日ほどかけて、経済特区の広州から深玔、東莞、と一通り廻って観たが、石だけでなく、建築資材関係の工場というのは、まだ殆ど見られなかった。
フェリーの人混みの中で、広岡と土田が話している。
「いやあ、深圳はまだ建築関係の目ぼしい工場はありませんなあ」
「そうでしたね」
「広州よりも深玔や東莞の方が工場はあるんだけど、石屋みたいなローテクじゃなくて、機械とか電機とかのハイテク産業の誘致に力を入れてる感じでしたね」
「福建省や山東省のように石の丁場に近い訳でもないからね」
「だけど、一応は港もあるんだから、よその石でも、それこそブラジルやカナダの石でも引いて来て、深圳で加工したらどうですか?」
「いや、それじゃあ高くなっちゃうでしょう。景気が落ち込みそうなんだから、中国の良い材料見つけてやらないと、競争できないんじゃないですか?」
「でもそれなら福建省なんかでやる方が早いよね」
「そうですね。まあ、香港や深圳の場合は、香港企業と中国本土の企業との合弁とか、外資系と中国の合弁事業も結構出来て来ているから、そのうちに、大きい工場が出来るかもしれませんよ」
「しかし機械使うのには技術指導も要るからねえ。そういうのは誰が教えるんですか?」
「それなら、イタリー人が機械にくっつぃて来て教えるでしょう」
「そうですかねえ?」
「いやこの前もイタリーのロベルトがね、中国の人口が十四億だとしてそのうちの二%がすごく金持ちだとしたら、二千八百万人のすごい金持ちがいるんだって言ってましたよ。もう、やや、日本なんかより、将来的には、中国に期待してる感じでしたよ」
「なるほどね。そういうことになりますか。じゃあ、おカネ出して機械揃えたら、技術指導の人も来るっていうことだね」
「そういうことでしょう。とにかく、今回は下見ということだったんですが、まだ中々良い工場が見つからなかったけれども、大体の様子はわかったんで、後は福建や山東省の工場と比べて、また検討しましょう」
「わかりました。上海にも工業団地が出来たらしいんで、そっちの方も調べておきます」
「よろしくお願いします。じゃ、後は香港島の建物見ましょうか」
こんな話をしているうちに、九龍を出たフェリーは一〇分ほどで香港島に到着した。おそらく二〇〇人以上は乗船していたと思うが、殆ど立ったままデッキにいた乗客が一斉に下船したので、広いタラップが大変混雑した。
「すごい熱気ですね」
「何か、東京よりみんな元気ですね」
「やっぱり、中華料理はカロリー高いからね」
「そういう理由ですか?」
「いや、どこ行っても人口多いですから、競争が厳しいんじゃないですか。だから日本人より集中力があるんじゃないかなあ」
「そうかもしれませんね」
二人で地上に降り立つと、とりあえずタクシーを拾って香港上海銀行本店に向かったのだが、すぐ渋滞に巻き込まれてしまい、地下鉄にすれば良かったと後から後悔したが、二〇分ほどで、漸くその銀行の本店に到着した。
とにかく香港上海銀行、通称ホンシャンは、香港の紙幣である香港ドルを発行する三つの銀行の一つという事だ(元々は確か四つあったのだが、そのうちの一つのハンセン・バンクをホンシャンが合併して発券銀行が三行になった)が、英国資本の民間企業だった。この辺の仕組みが土田にはよくわからなかったのだが、香港には、ホンシャンの他にも、同じく英国資本のスタンダードチャータード銀行、通称スタチャンと、中国国営の中国銀行が発券銀行として、香港政府の認可を受けていた。随分と昔には「金本位制」というのがあって、各国の中央銀行は金の保有量に準備率を掛けて通貨の発行高を決めていた時代もあったはずだ。しかし金の産出量が限られていたのでそういう仕組みが長く続くはずもなく、現在は国際的な基軸通貨であるドルをどれだけ持っているか、そのドルに準備率を掛けて各国が通貨発行量を決める「ドル本位制」とでもいう仕組みになっているらしい。結局のところ通貨の強さはその国の経済力で決まるらしく、その当時はドルの他にユーロと日本円がいわゆる基軸通貨と呼ばれていて、輸出入の決済にこうした基軸通貨が用いられるため、こうした通貨を各国が持つようになったという訳だ。
ところが、これがもう暫くすると、中国の人民元が、基軸通貨の一つとして加わることになる。土田の感覚からすれば、
「エッ、そうなの?」
という感じで、というのも、ついしばらく前まで人民元は完全な「マイナーカレンシー」で、通常の日本の銀行では円転も難しく、丸の内の大銀行の窓口に行くと、その当時東京駅八重洲口より東に十分ほど歩いたところにあったホンシャン東京支店を紹介され、そこの二階の窓口で漸く円に交換してもらえたものだった。つまり東京の外為市場では相場が立たないようなマイナーカレンシーだったのだ。それが数年間で基軸通貨にまで成り上がり、日本円の地位を脅かすまでになろうとは夢にも思わなかった。
そういう話はともかく、この日は、低層部にフランス産の青灰色の花崗岩を多用して、数年前に竣工した、ホンシャン本店の建物を、土田の強い希望で見学に来たのだった。現地ではむしろ前年に竣工したばかりの中国銀行本店の方が、高さもあって、何かと話題にもなっていたが、
「あゝ、あれは、アイ・エム・ペイさんっていう中国系アメリカ人の設計ですよね。ニューヨークのバッテリーパークも設計された方ですけど、あの中国銀行の方は全面が鏡貼りの奇抜なデザインで、何かと派手好みの中国のエグゼクテイブにはインパクトのある建物ですけど、業務スペースを確保するというよりも、外観のデザイン重視っていう印象で、使いにくそうですよね」
「土田さん、やっぱり建築の方は詳しいね」
「いや、僕なんか下請け会社の新米社員ですから、大したことないですけど…」
「でもこの香港上海銀行っていうのは、大きさの割には落ち着いた印象ですね」
「わかりますか。イギリスのノーマン・フォスターの設計ですよ」
中国銀行に次ぐ高さの超高層であったホンシャンの本店ビルは、頂部右側のヘリポートを除いて左右対称のシンメトリカルで重厚な印象の建築物であって、高層外部の鉄骨とガラスの足元に、意外に広く開けた通り抜けの空間があり、この低層部の壁と床にフランス産のランエラン(LANHELINランヘリンと読んでしまう人も多い)という青灰色の花崗岩がふんだんに使われていた。
「石の色、良く揃えましたね」
「そうですね。鉄分は石の長石の色を赤くしたり青くしたりするんですが、青や緑の色は安定しなくて、色をそろえるのが中々難しいんですよ」
「じゃ、これくらいそろってれば建築家も満足なんじゃないですか」
「そうですね。日本でも少し使ったんですけど、フランスの石は、高いんですよ」
「でも、きれいですよね」
「『美しいモノはすべて正しい』ってヤツですか?」
「それ、三島由紀夫でしたっけ」
「そうだったかなあ」
この銀行のある場所からそう遠くない場所に、ちょっとロンドンのハイドパークのような緑豊かな公園があって、丁度日曜日だったので、人が沢山出ていたが、良く見ると、大半は香港の人ではなくフィリピンやインドネシアから来たメイドさんたちが一杯に集まって、芝生の上で昼食を摂りながらゴロゴロしているのだった。
「いや、すごい人数ですな」
「これ、殆どみんな、欧米の企業の社員宅で働いているメイドさんたちですよね。何か、週末はいつもこんな感じらしいですよ」
「いやあ、日本の外資系の銀行員なんかの役宅にもこういうメイドさんいますけど、こんな人数じゃないよね」
「メイドさんの部屋って大体すごく狭いんですよね」
「だから日曜日にはこういう広いところで寛ぎ(くつろぎ)たくなりますねえ」
「そういうことなんでしょう」
「香港はまだまだこういうメイドさんが増えるんじゃないですか」
「そうですね」
どこからこんなに集まって来たのかと土田たちも少し驚いたが、当時はこうしたメイドを雇う外資系企業の管理職が香港に集積していたのだと思う。今では想像もつかないことではある。
この後は、市街から高台に昇る世界一長い屋外のエスカレーターというヤツに乗ってみたり、ピークトラムというケーブルカーにも乗り込んで、ヴィクトリア・ピークの頂上にも行ってみた。
「土田さんは『慕情』とかそういう古い映画は知らないでしょう?」
「いや、リバイバルで見ましたよ。ウィリアム・ホールデンと例のジェニファー・ジョーンズのヤツですよね」
「そうそう、良く知ってるねえ」
「中国とイギリスのハーフのハン・スーイン(ジェニファー・ジョーンズ)という女医さんが新聞記者のマーク(ウィリアム・ホールデン)と恋に落ちるんだけど、朝鮮戦争に従軍したマークは帰って来なかったってヤツですよね」
「そうそう。ヴィクトリア・ピークの丘に腰かけてたぶん海の方を向いているマークの後ろ姿がスクリーンに映って、でも時が過ぎて同じ丘をハン・スーインが眺めてみても、そこにマークの姿は無いっていう、切ないシーンがあって、そこで流れるテーマ曲が…」
「ラブ・イズ・ア・メニ・スプレンダード・シング…」
「そうそう。今見ると、いかにも古い映画って感じだけど、実話が原作で、何か心に残りましたね」
「やっぱり、香港は中国大陸の海に突き出たイギリスっていう感じですかね。もっとこういう欧米に近い街並みが、広州とか深圳とかに限らず、どんどん中国全体に広がって行くんじゃないかな」
「それで、中国も普通の自由な国になっていくのかな?」
「そうなると良いですね」
「そろそろ帰りますか?」
「はい」
ヴィクトリア・ピークを降りるとまたタクシーを拾い、少し渋滞したが、帰りはトンネルを通って香港島から九龍のホテルに戻った。
***
香港滞在の最後の晩、土田と広岡が九龍側のホテルのレストランから、香港島の高層ビル群を眺めている。ビルの黒い影が切れ目のないスカイラインを形造り、その下の無数の窓から漏れて来る光がまるで小さな蛍の群れが息をするかのようにかすかに瞬いていた。「これがいわゆる『百万ドルの夜景』というやつですか?」
「広岡さん、今どきそんなこと言う人少ないんじゃないですか?」
「まあ、しかし、東洋の真珠というか、ニューヨークみたいですね」
「電気の方も、山東省の自家発電なんかと違って安定しているようですね」
「そうそう。今は石炭火力が中心だけど、原発もどんどん作るらしいし、何でも国がすぐ決められるから早いよね」
「そうですね。ホンシャンに続いて中国銀行の新しいビルも出来て、香港も本当にニューヨークのような金融センターになっていくんじゃないですか?」
「でも、香港ドルだけじゃ弱いでしょう。やっぱり人民元がもっと強くならないと。それには中国本土の経済、特に沿海州(海沿いの地域)だけじゃなくて、内陸部が発展しないとね」
「そうですよね。福建省の山へ行く途中でも良く経済開発特区の看板見かけましたよね。しかし、何でこんなトコに作るのっていうのも多かったですよね」
「日本と同じで、地元の政治家が引っ張って来るんでしょう」
「でも、元々無理なところに建てたりしてるから、途中で止まってる工事も沢山ありましたね。アレ、どうするんでしょう?」
「まあ、国営なんだから誰も責任取らなくていいし、おカネが足りなくなったらそうですねえ、中国銀行に新しいお札をジャンジャン印刷してもらえばいいんじゃないですか」
「いや、それじゃあ景気が良くない中のインフレ、何でしたっけ?スタグフレーション?そうそう、それになっちゃうでしょう?」
「まあ、土田さん、そういう難しい事は、鄧小平さんにでも、解決してもらえばいいんじゃないですか。たぶん欧米のコンサルとか、アドバイザーもお使いだと思いますよ」
「そうですか」
「そんなことより土田さん、ご自分の会社の心配をした方がいいんじゃないですか?うかうかしていると、中国の会社に抜かれちゃいますよ!」
「はい、もう値段の方は完全に抜かれてるし、品質も日本のブローカーの石屋が色々教えて追い付いて来ていますからね。それに日本のゼネコンさん、最近は『集中購買』とかで現場が予算持ってないんですよ。現場見ないで本社で値段だけ見て決めるから、石だって落ちないで建物に付いてれば何でもいいや、なんていう所長さんもいますからね」
「急に風向きが変わって来ましたね」
「いやいや…」
と、応えかけた土田が、急に咳き込んだ。
「土田さん、大丈夫ですか?」
「いやその…広岡さんがこんな話するから、何だか急に寒気がして来たんですよ。そろそろ部屋に戻りましょうか」
「そうしますか」
実際に、香港から帰国後間もなく、土田は軽い夏風邪を引いて暫く寝込んでしまった。




