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五 晋江 (しんこう)

そういう訳で、数か月後に橋口と二人で福建省を訪れてみることにした。日本の商社は頼んでいなかったので、また五金公司に依頼して招待状をテレックスで送ってもらい、青山の中国大使館でビザを取得した。その頃はまだ日本からその地域への直行便が無かったので、まず上海に入ってから、確か中国民航空から分社していた、中国東方航空とか中国西方航空とかそういう新しい会社の飛行機で、福州に入った。

福建省の省都である福州市は、当時の人口が約70万人の大きな街で、といっても14億の民を抱える中国では、これくらいの規模の街は沢山あったのだが、福建省北方の海岸寄りに位置する大都会で、その当時はドイツのデュッセルドルフの姉妹都市でもあった。デュッセルドルフの人口も当時は福州と同じ70万人程度だったが、福州の方はまだデュッセルのような車社会ではなく、道路の全体をほぼバイクと自転車が占領しており、福州のホテルで眼を覚ました土田が外に出てみると、表の幹線道路は、通勤時のそうしたバイクと自転車とが同じ方向を向いて疾走しており、どちらかというと、バンコックとかそういった東南アジアの雰囲気に近いように感じた。

「やあ、すごい自転車の数ですねえ」

「バイクもすごい数だね。125CCくらいのが多いみたいだけど」

「しかし、これだけ密集してあんなにスピード出して、よくぶつからないですね」

「慣れてるんでしょう。でも、車線も何もあったもんじゃないね」

「結構ぶつかるらしいですよ」

「子供連れのお母さんもいるな。あれっ、あの人は一台の自転車に子供たちと赤ちゃんを入れて五人乗りだよ。たくましいね」

「皆さん元気そうですね」

「これからもっとどんどん伸びていくんでしょう」

橋口とそんな話をしているうちに、約束の午前九時頃、五金公司の担当者が到着した。

「おはようございます。五金公司北京総公司の(しゅう)秀英といいます」

「おはようございます。福建省五金公司の(てん)麗君といいます。どうぞよろしくお願いします」

「土田建材の土田と…」

「調達担当の橋口です。よろしく」

もうこの頃から、北京の総公司と各省の分公司との間で商売上の「綱引き」が行われていたようで、まもなく、山東省の分公司も、福建省の分公司も総公司から独立し、最終的には、民営化が進んでいくことになるのだが、この時はまだ北京の総公司を通して商売のお願いをしなければならなかった。

北京の総公司から来た(しゅう)君は二十代半ばくらいの若い人で、土田や橋口よりも小柄だが、直毛の頭髪をやや短く切り揃えたマッシュルームカットの下に、どちらかというと色白で少し神経質そうだが実直そうな笑顔を見せていた。

福建省分公司の(てん)さんは、三十代前半くらいかな、という印象で、当時、日本でも人気の高かった台湾出身の歌手テレサテンの中文名と偶々(たまたま)同姓同名だったのだが、福建省は台湾のほぼ対岸にあるので(こういうこともあるのかな)

と土田は思った。鄧さんは背も高く、一七〇センチくらいはあって、白い半袖のカッターシャツに灰色の無地のスラックスという地味な装いだったが、顔立ちも声も結構テレサテンに似た感じの、ショート・カットの活動的な印象のお嬢さんだった。

課長の橋口から、今回の行程について確認を入れた。

「東京から連絡が行っていると思いますが、今回は、決まった石を買うというよりも、全体的な調査が主体です。その中で、安定してすでに丁場に新しい原石が揃っているような処があれば、今回買うかもしれませんが、基本的には、次回以降の仕入れのための調査になりますので、よろしくお願いします」

「承知しました」

と北京の周君が答えた。

行程については分公司のテレサ((てん)さん、以下同じ)が説明した。

「今回は一週間かけて、福建省の海沿いの道を、北の福州市から、南の厦門市まで、ずーっと下っていきます。今日は、ここ福州から、()(でん)の辺りまで、明日は距離を伸ばして出来れば恵安まで、明後日は幾つか山を見て、泉州市に入ります。その次の日は、六〇三の山を見て、(しん)(こう)に泊まります。最終日は厦門に入ってそこで一泊して、出来れば少し観光してもらって日本に帰る、という行程です」

「それで結構です。かなり大変な行程ですがよろしくお願いします」

と土田が挨拶した。

「この行程で大丈夫です」

と周君が答えてから、少しテレサと話し始めた。何だか随分と話に時間をかけているので、

「何か問題ですか?」

と橋口が聞くと、

「いえ、その、二人の言葉が少し違うので、時間がかかりました」

「だって、同じ中国の人でしょう」

「はい、でも、私の言葉は標準語の北京語で、マンダリンとも言いますが、鄧さんのは福建語で、どちらかというと台湾の言葉に近いので、北京の言葉とはだいぶ違うんです」

「なるほどね」

「だから私が冗談を言ったり、時々周さんの悪口言っても、周さん、たぶん、あまりわからないのよ」

と言って、テレサが微笑んだ。

「じゃあ、そろそろ出かけようかと思いますが、車の方は大丈夫?」

「あゝ、それはもう、あそこに停めてあります」

テレサが、ホテルの車寄せから少し離れた処に停めてある薄茶色のライトバンを指差した。

「あれで、一週間、大丈夫ですか?」

ちょっと古そうな感じがしたので、橋口が聞いてみた。

「はい、今、中国は大体中古車が多いですけど、この車はトヨタの前輪駆動車で、最近サスペンションも整備したばっかりで、足回りも大丈夫ですし、ウチの運転手は優秀ですから…」

「テレサは車に詳しいんだね」

「いえ、車のことが少しわからないと、ここでは困るので…」

「そうなんだ」

テレサが手招きすると、トヨタのライトバンがすぐに動き出し、ホテルの正面で止まると、運転席から、色黒でかなり体格の良い、背も高い男性が降りてきた。

「運転手の(さい)さんです。悪い道でも、この人なら大丈夫です」

「悪い道でもっていうと、これから街を出ると道が悪くなるの?」「いえ、すぐではないですけど、田舎の道に入ると少し大変です。そろそろ出発しましょう」

「はい、では、行きましょうか」

一日目は、福州市を出発して、福清という街を経て()(でん)に入り、そこで一泊するという計画だった。テレサが、「悪い道でも…」、と言ったのが良くわからなかったが、これは福州市を出発して南下をし始めるとすぐにわかった。というのも、市街地を出て南へ向かう海沿いの道に入ると、まもなく道路の舗装が切れて砂利道となり、この状況がほぼ一週間続いたからである。数年後に、福建省出身の華僑である、インドネシア・サイアムセメントを率いる林紹良氏が、おそらく「故郷に錦を飾る」といった意味だったかと思うが、福建省全体の道路の舗装を進めて、道路事情は急激に改善するのだが、この時はまだ幹線道路の大半が舗装がされていない砂利道又は土のままの道で、しかも道幅が狭くほぼ片側一車線で、基本的には追い抜きが出来なかったので、一日に三〇キロ進むのも大変で、そこの処を一日に五〇~六〇キロも進んで、一週間で三〇〇キロ、仕事もしながら厦門まで行こうというのだから、運転手の力量が求められたのである。

道路が砂利道に入ると、崔さんがラジオを点けたが、雑音がひどくて音が入らない。するとまもなく崔さんが「壊れかけの」ラジオを消して、カセットテープに切り替えると、山口百恵を流し始めた。

「雪解け~間近の~北の空に向かああいい…」

イタリアのオペラ歌手みたいに体格の良い崔さんが、大きな声で歌い始めた。

「あれ、これ、今、流行ってるんですか?」

「はい、山口百恵は今、中国で大人気です」

「へえ、ちょっと古いけど、これ、中国で売ってるんですか?」

「はい、香港製の海賊版ですけど」

「テレサテンじゃないんだ」

「テレサテンは、良くわかりませんけど、山口百恵は、中国の人は、みんな知ってますよ」

「そうなんだ」

「いい日~旅~立ち~」

何故か日中のビジネスマンが、福建省の田舎道で山口百恵を熱唱した。砂利道の道路上を走る車の乗り心地は最悪で、テレサがサスペンションを補強した話をしたのも、なるほどと思われたが、そういう悪路の上でも周さんとテレサは元気一杯で、崔運転手の方も、時折出てくる舗装された路肩に入り込んだり、片側一車線の道路で何とか追い越しを繰り返しながら、上手に車を進めて行った。

しかし、所詮は片側一車線で、前に農耕車が走っていたりすると、速度は極端に落ちたので、どの車も常に追い越しの機会を狙っていたから、追い越しの末に反対車線の車と正面衝突、という事故が、ほぼ毎日あった。そうすると一時間は全く車が動かなくなり、車の乗客があちこちから降りて来て、事故の現場で当事者同士の喧嘩を見物する、という事態になり、従って一日五〇~六〇キロを進む、という今回の行程をこなすのは大変な事だった。

という訳で、車を「ノロノロ」、「ガタガタ」動かしながら海沿いの道を進んで行ったが、三日目の(しん)(こう)の付近で少し大きな交通事故に遭遇した。「大きな事故」といっても、どの車も元々砂利道を低速走行している訳だから、中々死亡事故にはならないのだが、その時は、土田たちの車の15台くらい前を走っていた「井関のトラクター」みたいな農耕車が、反対車線から追い抜きを試みて来た商用車と正面衝突、という内容の事故だった。

「また、停まりましたね」

「何か、あの、前の方の、遅い農耕車のようですね」

「ちょっと見て来ましょう」

運転手の崔氏が車を降りて、事故が起きた前方に向かって歩いて行った。どの道、大体一時間は動かなくなってしまうので、殆ど皆車から降りて、事故現場の周りは結構な人だかりになってしまい、余計に時間がかかることになる。当時の事で、その間に、男たちは、道端で小用を足したりしたが、さすがに女性のテレサは付近の商店などでトイレを借りているようだった。

「少し、お菓子と水も買って来ました」

「ありがとう。で、事故の方はどうなの?」

「はい。農耕車はおじいさんが運転していて、当った時に腰を打ったようです。でも、本人がすごく怒ってるんで、元気そうですよ」

「相手の人は?」

「相手の人も伯父さんで、何か二人とも、相手が悪いって言ってる」

「でもトラックの方が悪いんじゃないの?車線超えて来たんだし」

「いえ、中国の人は、自分から悪いって中々言わないんです。そうしたら『負け』になっちゃうでしょう?」

「そういうもんなの?」

「そういうもんです」

「警察は来たの?」

「いえ、まだあと30分くらい待たないとダメじゃないかしら」

「崔さんはどうしてるの?」

「まだ前で見物してますよ」

「また一時間遅れますね」

「申し訳ありません」

「いやあ、君たちのせいじゃないから…」

大なり小なり、こんな事が毎日のようにあって、随分と時間はかかったが、予定した白色~灰色系の「六一五」「六二三」「六〇三」などの丁場は何とか訪問することが出来た。その中でも「六〇三」という石は、その当時から中国の花崗岩では最大の生産量を誇っており、丁場の数も一五、六もあって、土田と橋口はその中でも二番目か三番目に大きいという採掘場を見せてもらった。

「これから行くのは、一番大きな丁場じゃないんですね?」

と、橋口が聞くと、

「はい、大きい方の丁場でも良かったのですが、先月の末に採掘場で事故があって作業員が亡くなったんです」

「それは大変でしたね。どんな事故だったんですか?」

「はい。石の上から()(石に打ち込んで割れ目を付ける五、六メーターから七、八メーターくらいの鉄製の細い角棒のこと)を打ち込んでいる最中に、岩盤が崩れて、上に立っていた二人の作業員もろとも、下に転落したんです」

「そうですか。じゃあ、一番大きい処は今やってないんですね」

「いえ、もう今月の初めから再開しました」

「随分早く再開したんですね。事故の原因は調べたんですか?」

「はい。地元の政府や警察が来て調べました」

「それで、何か手すりとか柵を付けるとか、何か、これから事故が起きないような対策はしたの?」

「いえ、それは、特に無かったみたいです。作業員の代わりは沢山いる訳ですし…」

「いやあ、ここでは、そういうもんなのかね」

イタリーのピサの斜塔の近くに、古代ローマ時代からの石材産地であるカララという地域があり、イタリアンアルプスの麓にあって「ビヤンコカララ」という著名な大理石を産出するその地区の多くの丁場でも、時折転落などの重大事故が発生したが、少なくとも、作業員の死亡事故が発生すれば、会社から家族への説明、お悔やみや葬儀、地元政府や警察の調査、再発防止策の実施、等々の一定の手順があって、丁場の再開までに一カ月近くはかかったように思われる。そうした一般的な状況と引き比べてみて、中国の丁場の再開は随分と早いように思われた。

(喪に服したりしないのかな?)

土田も橋口も、彼らと話していると、何となく、

(ここでは、命の値段が安いみたいだな)

と感じた。

(沢山の人がいるからいいじゃないか)

ということでは決してないと思うのだが…。

そんな話をしているうちに、六〇三の採掘場に到着した。建築用石材の採掘場は、ブラジルの丁場などで良くあるような、直径八~十二m程度の「ボール玉」(英語で「ボウルダー」と言う)が地面に埋まっている場合と、地面全体が固まってシート状の岩盤(英語で「シートロック」と言う)になっている場合と大きく二つに分かれ、六〇三の丁場は基本的にシートロックの岩盤だった。ボール玉は、シート状のものより掘削は容易だったが、品質の安定性が不確かであり、かつ埋蔵量の予測が難しかった一方、六○三のようなシート状の山は、機械力あるいはそれに代わる多勢の人力を必要とした。

「ここの丁場で月産一〇〇〇トン、約三〇〇立米の原石を生産しています」

と、テレサが説明を始めた。確かに、土田たちの眼の前に、高さ(タッパ)が三メーターほどの原石を切り出した壁面が左右に一五〇米~二〇〇米ほどの長さで広がっており、その左奥と右手前にも少し小さいが同じような壁面が切り出されていた。

「黒色火薬は使わないの?」

橋口が質問を始めた。

「はい、黒色火薬は値段が高いし、石を傷めるので、石工の親方が矢を入れて割れ目を入れるようにしています」

「石の目の方向はわかるの」

「それはもう、皆、慣れていますから…」

「石の目に沿って正しい方向で矢を入れないと、きれいに割れないからね」

「それは大丈夫です」

「大きい丁場で事故もありましたから、気を付けて作業するように、親方に言ってください」

「わかりました」

大体こんな会話をしながら丁場を見て廻った。そう言われてみると、正面と左右の三箇所の壁面に黒い火薬を使った跡は無く、それぞれの壁面のタッパの天辺(てっぺん)に二、三十人ずつの石工が並んで、石の前面から少し奥に入った所で、次の矢を入れたり楔を打ち込んだりしていた。

「火薬を使わないと時間がかかるけど、この方が石が傷まなくて、歩留まりもいいし、トータルでコストもかからないっていうことでしょう」

「そうだね」

その頃の、日本の代表的な花崗岩というと、東の稲田石に対して西の北木石(きたきいし)(まん)成石(なりいし)といったところだったろうか。白御影の稲田に対して、日銀旧館や明治生命観に使われた北木は、使い込むと少し地色に黄味が入り、また粒子が細かいので「コリント式円柱」などの繊細な加工に向くのに対し、丸の内の銀行の外壁や東証の新しい建物などに使われた稲田の方は、もう少し硬くて、目も粗いので、平石の叩き仕上げや割り肌、光沢の出る本磨きに向いている、と、これは土田の個人的感想かも知れないが、そんな細かな違いがある。福建省の六〇三は、墓石材としても日本市場に出廻り始めていたが、建築材としても、生産量の減ってしまった稲田石の代替として期待されていた。しかしこの頃、一九九〇年前後、というのは、日本はまだバブル経済の最盛期にあり、今回の土田たちも「コストダウン」を目指して買付けに来ていた訳ではなかったので、原石を人件費の安い中国で大板に切断加工したり、図面を持ち込んで完成品に加工したり、ということは、その頃はあまり考えられていなかった。

「この石、稲田より目が細かいし、少し柔らかそうだけど、地色の方は安定しているようだし、とにかく、ここだけでも相当な生産量なんだから、少しずつ続けて入れていけるんじゃないですか」

「そうね。とりあえず原石でウチの工場に入れて製品化しましょう」

と、いうことになった。

「橋口さん、山東省は中々丁場を見せてくれなかったけど、福建省の方は、六〇三でも六二三でも、良く山の方で受け入れてくれて、全部見せてもらえましたね」

「そうですねえ。何と言っても、福建省は、『世界に冠たる』華僑の出身地ですから、山東省よりも商売っ気があるんじゃないですか」

確かに、広く世界に散らばっている華僑、英語にすると、

「オーバーシーズ・チャイニーズ」

というのだそうだけれども、そういう人たちの多くは福建省の出身で、林紹良氏だけの話ではないようだった。土地の雰囲気も、福州から泉州、(しん)(こう)と南に下って、厦門に近付くにつれて、暖かな開放的気分になっていった。

昼食時になると、石工の親方や「手元」と言われる若い衆たちが、事務所のある建屋の周りに集まって来て食事を始めた。といっても八〇名~一〇〇名近い大勢の作業員が建屋の中には入れないので、基本的に野天で、ホーロー挽きの大きなボウル状の容器に飯を一杯に入れ、その上に肉野菜のようなものを盛り付けて食していた。

「気候が暖かいから、野天の食事でもいいんでしょうね」

「それより、大きい石の面が幾つも見えてるから、ここに居れば、当分は仕事にあぶれることもないからね」

「お茶も美味しそうに飲んでますね」

「そりゃそうだよ。福建省は、(うー)(ろん)(ちゃ)故郷(ふるさと)なんだから…」

「あゝ、そうでしたね」

いつの間にか、石工の家族らしい女性や子供たちも集まって来た。イタリーやスペインの石切り場では、山の持ち主の家族らしい小中学生くらい男の子が、しばしば山の手伝いで水を撒いたり、親方の手元のようなことをしながら仕事を習っていたりしたが、ここではそうした子供たちはいないようだった。

「大人が沢山いるんで、子供が仕事取っちゃいけないんでしょう」

「そういうことですか」

「あれ、でも、何か子供たちが近付いて来たぞ…」

八歳~一〇歳くらいの男の子たちが、直径二〇~三〇センチほどの円盤状の石の加工品を差し出して何か言っている。良く見ると、それらは、薬草をすりつぶして粉にする、小さな石臼(いしうす)のような形をしていた。

「この子たち、何て言ってるんですか?」

「あゝ、それ、買わなくていいです!離れてください!」

と、テレサが少し大きな声を出した。

一人の子が数字の「四」の形を手で作って盛んに何か言っていた。

「四元で買ってくれってことでしょう?」

「そうだね」

「そろそろ行きますか?」

「そうしましょう」

結局土田が男の子に四元(当時の五〇円くらい)を渡して、意外な重さの石臼を受け取ると、やはり、他の子たちが一斉に群がって来たけれども、彼らを何とかやり過ごして車に向かった。

(しん)(こう)に戻って、遅めの昼食を取る。

「とりあえず六○三の石は、今日見た丁場の正面と、左奥の面から採ってもらって一〇〇〇トン入れましょう」

「右手前の方はダメですか?」

「右の手前は地色が少し安定しないので止めてください。もう少し進んだら安定してくるかもしれないけど…」

「そうなるといいですね」

「六二三と六一五の方は、今回はサンプルだけ送ってください」

「わかりました」

複数の丁場の視察と商談が終わって、最終日は福建省のほぼ南端に位置する厦門市に入ることになっていた。

「それにしても、崔さんは良く食うね」

「崔さん、毎日ずーっと運転で大変ですね。疲れませんか?」

「大丈夫。食べてれば大丈夫」

崔氏は笑って黙々と食べ続けた。実際、福建省に限らず、当時の中国の田舎の道路事情は酷いもので、運転の巧拙が商談時間の確保に大きく影響したから、運転手の崔氏は、福建省五金公司の中で、経理と科長に次ぐ三番目に高い給料が支払われているということだった。だから昼食時に運転手が外で待っているなんて事はなくて、皆一緒に食事をした。土田はそういう雰囲気は嫌いではなかった。

翌朝、今回の旅の終着点である厦門市に入ると、周囲の雰囲気が一変したように感じられた。福州よりだいぶ南に位置する厦門市は、海流のせいもあるのか気温も高く、宮崎や沖縄にあるような椰子か棕櫚(しゅろ)のような並木道が、土田たちが宿泊するホテル近くの海岸線に沿って整備され、リゾート地に来たような明るさだった。

「何か、随分暖かくて明るい感じがしますね」

「はい、厦門は気候も穏やかで、観光地としても人気が高い処です」

「テレサが卒業した厦門大学もあるんでしょう」

「はい、これから車で前を通りますよ」

「外国の資本の投資もあるんですか」

「はい、福建省は華僑の出身地ですから沢山投資する人がいます。さっき見た、大きな私立の学校も、シンガポールからの投資で建てられたものです」

「あゝそう、さっき、厦門大橋を渡る時に、右側に見えた赤と緑のカラフルな建物ですね」

「そうです。外国の投資はどんどん増えています」

「それにしても、ここは他の街と違って、中国というよりもハワイか沖縄のようなエキゾチックな雰囲気ですね」

「そうですか。厦門は元々歴史的に、シルクロードの終点に当たりますので、シルクロードの西の端の方の文化も入って来ているし、カザフスタンとかトルクメニスタンとかそういう西域からの移住者が今でも厦門には二万人くらいいるんですよ」

「中央アジアの人っていうことですね」

「はい、でも今いる人たちは基本的にはコケイジアン(白色人種)です」

「そうなんだ。でも、街中を見てもそういう人たちは見かけないね」

「だって、土田さん、厦門の人口も五〇万人はいますから…」

「なるほど」

「では、これから仏教の寺院に向かいます」

厦門市内に、横浜の中華街にもある仏教寺院をかなり大きくしたような彩色鮮やかな建物が複数あって、土田たちはその一つの中に入った。かなりの人数が熱心に参拝しており、土田たちも右側の参道を入って直進し、突き当りを左に曲がって正面の本尊に参拝し、帰りは左側から退出するという「コの字型」の参拝通路を辿った。

花やお供物の量も多く人々の信仰心の厚さが見て取れ、日本のモノより随分太くて長い線香を使うのは、台湾の寺院と共通していた。

「横浜にもありますけど、この寺院は台湾のお寺に良く似てますね」

「はい、それは、やはり、厦門は台湾の対岸ですから…」

「中国共産党は、宗教はあまり勧めていないんじゃないの?」

「ええ、そうかもしれませんが、ここは福建省ですから…」

「ふうん、そうなんだ。そういえば、日本の弘法大師が仏教の勉強に来て、上陸したのも、確か福建省でしたね」

「そうです。それは確か福州の近くで、記念碑もありますよ」

「そうですか。中国は広くて、地方によって色々あるんですね」

福建省全体を通しても感じられたことだが、特に南の厦門では、人々や経済の力を感じた。後に土田も行ってみたが、厦門からモーターボートで20~30分も行くと、台湾領の金門島があり、両国の緊張関係も感じることが出来るが、少なくとも当時の市中は平和な印象で、土田は後に、厦門で複数の仕事を依頼することになる。


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