四 東京・一九八九
土田が初めて北京を訪れてから、二年半余りが経過した一九八九年の年明け、日本の国内には、一つの重苦しい空気が流れていた。年末から続いていた昭和天皇の深刻な病状は、年が明けても回復の兆しが見えなかった。
今は知らないが、その当時の日本人の天皇に対する平均的な感情というものは、右の人、左の人を問わず、押しなべて尊敬の対象であり、殊に昭和天皇の場合は、終戦直後の、マッカーサー元帥との面談の折に、ご自分の命と引き換えに国民を助けて欲しいと訴え、戦後日本の貧しい時代から、奇跡の高度成長に至るまで、ある意味、日本人の精神的支柱として、日々我々を励ましてくれた「ビッグファーザー」のような存在として、多くの国民から親愛の情を集めていたのだと思う。新年のニュースは、ほぼ毎日が、天皇の病状説明から始まり、天皇の御身体からの出血を表す「下血」という言葉が、国民の間に浸透した。毎日の輸血が施されたようだが、回復の兆しは無かった。
土田は、
(下血に対して、毎日どのくらいの血が輸血されるのだろう?)
と、やや不謹慎な疑問も抱いたのだが、やはり血液を作るのは臓器の主たる役割の一つであって、輸血でそうした機能を補うことは、直接的で、精一杯有効な治療と思われた。しかし、そうした懸命な治療の甲斐も無く、昭和天皇は一月七日に崩御された。
この頃、土田の会社を含めた日本企業は、概ね、
「上り調子」
だった、と思う。その後の二十年以上に亘る、長い建設不況を経た現在の単価からは考えもつかないことだが、その当時は、
(値段よりも仕事をキチンとこなしていれば大丈夫だろう、)とか、
(納期と品質を守れば、おカネは後から付いて来るんだ、)とか、
(職人の手間が上がったら受注単価を上げて貰う)とかいう考えが、土田の会社のような建設下請け業者でも一般的であり、バブル経済が膨らんでいく中で受注単価はどんどん上がり、石を建物に取り付ける石工事の親方の手間も以前の三倍以上に上がり、建設の現場で最も高い職方である「とび職」の単価並み、にまで跳ね上がった。岳父の建一を含む中小企業経営者の鼻息も荒くなる一方だったが、それにも拘わらず、建一が北関東に構えた工場の従業員や、本社の図面書きの待遇改善は依然として覚束ない状況であり、仕事の苦しさから会社を辞めて田舎に帰る若者も後を絶たなかったので、そうした一つの悪循環を建一のような経営者に伝えて社員の待遇改善を要求することが、若社長(実際には副社長)である土田の主な仕事の一つとなっていた。
二月に入ると、国事行為として、昭和天皇の葬儀、すなわち、
「大葬の礼」
の日取りが二十四日に決まり、土田の会社も俄かに忙しくなった。というのも、この石材会社は、日本でもかなり古い方の石材業者であったので、昭和天皇の御陵を建設する複数の石屋の一つに入っていたからである。その当時、業界全体として、建設工事の方はまださほどの大プロジェクトは無かったが、すでに横浜や赤坂、丸の内や六本木地区での大規模な開発計画が、経済新聞や業界紙を賑わせており、この年は、それに至るまでに終えておきたい中規模以下の建設工事で、土田の会社も満腹に近い受注量を抱えていた。御陵の工事では墓石本体ではなく、造成された敷地を石で仕上げる所謂、(外柵工事)
というのを請け負った。
工場の社員、約150名に、本社と大阪の作図の技術者と営業が合わせて約50名、これらの正社員に、主に外注の「専属下請け」として現場で取付を担当する親方と、手元を含む職人衆が、80~100名、総勢300名ほどが土田の会社だった。専属外注の親方衆を含めれば、人数だけ見ると、中小企業としてはかなりの規模と言えるが、建設下請けに典型的な労働集約的企業の一つであった。
本社では毎月の月初めに、
「工程会議」
というのを開いて、現場の工程と図面の進捗、工場での製品加工と取付の親方の手配等の「すり合わせ」を行う。こうした会議では、図面を担当する本社と大阪の工事部から、部長の寺井や次長の成瀬、課長の山下、係長の藤村などの古参の社員が全体の議論を仕切って、若手の指導もしながら話を進めた。
社長の建一が、次長の成瀬に話しかけた。
「それで御陵の図面の方は決まったの?」
「敷地に合わせて手書きの原寸図面を宮内庁に提出してあります。昔の資料も拝見しました。」
「材料の方は?」
「もう山から切り出した一番良いのを取ってあります。墨出しして石取りも出来る状況ですよ」
「それなら良いだろう。しっかり頼むよ。他の工事は?」
「青山の銀行の研修所は図面が決まってカナダの石で加工中です」「西新宿のタワーは南アの石の入りが悪くて加工が遅れています。石の割付けは決まっているんですが」
「同業者で同じ石が手に入らないかな?」
「この石、今人気なんで、ちょっと難しいです。石の斑(模様)も大きくて流れもあるんで、同じ処から採らないと…」
「調達の橋口君、少し当たってみてくれるかな?」
「調べてみます」
概ねこうした打合せをほぼ半日かけて行うのが決まりで、営業と作図の担当者ほぼ全員と、大阪営業所の関西の仕事の責任者、更に工場長と次席の加工部長二名、現場取付の責任者(世話焼きという)も加わって、かなりの人数になった。
「ああ、それから多摩の文化センターは中国の山東省の石で決まりました。原石のサイズが小さめですが、敷石が沢山あるので上手く割り付けて何とかします」
「ああ、頼むよ。とりあえずこの石の色は良いと思うので、上手く施工して流行らせてください」
「わかりました」
この当時の仕事は中小工事が多かったが、件数が多かったのと、バブル期の大規模開発を控えてその準備段階にも入っていたので、ゼネコン各社は、今と違って、有力な下請けの手を早めに確保しておこうというスタンスが強く、従って単価等の契約条件も良い中で、土田の会社は繁忙を極めるという恵まれた環境であった。その間に土田が見に行った中国の石を使った工事も少し入るようになったが、工事の主体はその頃流行っていたカナダやブラジルやイタリーなど、斑模様が大きくて彩も耐久性も高い花崗岩を使ったものが多かった。
日本の天然外装材の当時の加工場は殆どイタリーの同業者のそれに倣ったものであり、加工機械もイタリー製が主流だった。材料はほぼ一五トンから二十トンの大きさで入ってきて、これを、ギャングソーという数十枚の鋸の刃の付いた切断機で、三日くらいかけて大板に切断する。大雑把に言うと、この大板を磨いたり火で焙ったりして表面を仕上げた後、例えばこれを六〇センチ角の図面寸法に切断して現場の壁や床に取り付けるというのが、土田の会社の仕事だった。
ギャングソーというのは、文字通りノコギリ(SAW)が束(GANG)になっている、という機械で、この原型を描いたレオナルドダヴィンチのデッサンが残っているほど古い機械で、昔はこれを、北イタリーの中小河川の脇に置いて水車を回し、この回転運動を、歯車で鋸刃の往復運動に変換して素材を切断した。現在の機械は勿論電動で、鋸刃は平たい四ミリの鉄板を油圧で引っ張り、その上から尖った鉄砂を石灰と水でつないだ「スラリー」をスプリンクラーで散布しながら少しずつ切断していくというものであった。当時のギャングソーは、比重が三に近い建築用石材を切り進む速度が一時間に三センチくらいしか無かったのだから、高さ一・五メーターほどの原石を切断するのに、フルに動かしても三日間はかかった。
工場内にはギャングソーだけでなく、柔かい内装材を切るための工業用ダイヤソーや、曲面を作るワイヤソー、厚物を切る丸鋸や、表面仕上げ用研磨機、火で焙る大型バーナーその他仕上げ用の機械などが点在していた。加工に伴って、粉状の素材の切りクズが大量に出るため、一応の建屋はあったが、作業は基本的に野天で行ったから、山からの風が吹くと、冬期は非常に寒かった。工場は首都圏に近い北関東にあったが、冬は東京よりも三℃から五℃気温が低く、山からの風が吹いて体感温度は七~八℃は低く感じられた。
また野天にもかかわらず、素材の切りクズを吸込んで「珪肺」に罹るというのが、この業種の職業病のようなもので、加工場と取付の現場は、典型的な3K職場と言って良かった。特にギャングソーの操作者などは常に重量物を扱い、石灰や鉄砂が目に入ると、こすらず直ちに洗い流さないと失明のおそれがあるなど、常に危険を伴う職場であった。
***
ところで…
この時の内閣は、竹下登の第二次改造内閣であって、前の中曽根さんのような派手さは無く、記者会見でも、
(言語明瞭、意味不明)
などと揶揄されていたが、後に評価される消費税導入など、大変な不人気の政策も黙って実行された。最近でも消費税を上げるとなると、途端に内閣の支持率は下がったものだが、この時は、日本ではまだやったことの無い「消費税」という、ほぼ全ての品目、全ての取引にかかる間接税を、初めて日本の社会に導入するという大変な仕事だったので、庶民の抵抗はそれは激しいもので、野党の面々は、ここぞとばかり、
「竹下は、やっぱり大蔵省の言いなりだ!」とか、
「一律に三%取るとは、金持ち優遇じゃないか!」とか、
「政府、自民と大蔵省のせいで、景気が悪くなるぞ!」とか、
「税金の計算で、中小企業は仕事どころじゃなくなるぞ!」とか、
「ある事ない事」を言い立てて、政権の足を引っ張った。
土田が銀行時代に二年ほど滞在した米国イリノイ州では、当時の1980年代でも既に六%程度の消費税だったし、米国では州ごとに税率が違って、民主党の強い西海岸ではもっと高い税率だった。欧州でも、すでに多くの国で、付加価値税は導入されていたので、土田などは、
(三%くらいなら、しょうがないじゃないか)
と思ったが、土田の会社でも、
「消費税が始まったら、伝票の起票はどうしたら良いですか?」
「仕入れた時に消費税も乗ってきたら、コストが上がるよね?」
「お客さんからもらった消費税はどうやって国に払うの?」
「どうせ、ゼネコンさんに、消費税分値引きしろとか言われちゃうんでしょ?」
とか、導入前は何かと大騒ぎだった。とりあえず景気の方は、四月一日に消費税が始まっても、特に悪化することは無かったと思う。土田の会社の消費税の処理も二、三か月も経つと何とか慣れてきた。
しかし、自民党内での彼の力は別として、その地味なイメージと政策の不人気に、当時の世間をにぎわしたリクルート事件への関与等が重なり、竹下氏は二年と持たずに六月に退陣して、政局は一挙に流動化した。ただ、こうした世間の状況が、土田の会社の仕事に、直接影響するようなことは無く、昭和天皇の御陵の工事も無事終了したが、その後まもなく土田の会社が担当した外柵の石の一部を、おそらく左寄りの一人の中年男がハンマーで叩き割る、という事件が発生した。この事件はすぐに犯人が捕まり、石の破損部分も土田の手が入って、すぐに補修されたのだが、景気はまずまず良いのに、世間は何となく「ザワザワ」としてきた。
こうした中、お隣の中国では、六月四日、北京の天安門で民主化を求めて終結した多くの学生を含むデモ隊に対し、中国人民解放軍が直接武力を行使して、多数の死傷者を出すという事件が発生した。
世に言う、
「天安門事件」
である。奇しくもこの日は、竹下首相が退陣した六月三日の翌日に当たる。そのせいもあったのかどうかわからないが、日本の新聞やTVの報道は、
「竹下後の政局」
の問題を競って取り上げ、後に「深刻な人権問題」として国際的な非難を浴びた天安門事件について、一部の保守系の新聞社を除けば、日本側の報道に、目立ったものは無かったように思われる。
土田も一応、複数の新聞を読んではいたが、天安門の事は、
(70年代の、日本の学生運動みたいなモノだろう)
くらいに考えていた。日本でも土田の学生時代は、「革マル」とか、「ブント」とかの、学生同士の所謂「内ゲバ」で、悲惨な死傷者が出ることはあったし、警察や機動隊との衝突もあったが、この中国の天安門のように、軍隊が戦車まで出して来てデモ隊に発砲したりするようなことは、日本では一切無かった。現地で厳重な報道統制が敷かれたこともあって、この時の中国の事件については、詳細な情報が無かったが、実際にはこの事件は中国共産党内部の権力闘争をも巻き込んだ大きな出来事だったらしい。旧ソビエト連邦の書記長に就任した、ゴルバチョフの改革路線、所謂、「ペレストロイカ」などの影響もあって、東欧諸国や独裁的な一部の東アジア地域まで、民主化の波が押し寄せており、中国の若者たちも、そうした流れの中で、もう少し自由が欲しかったのだと思う。これに理解を示した共産党内部の、改革派の有力な政治家も複数おり、中国の庶民の間での人気も高かったので、こうした流れが加速すれば、次第に民主化が進んで、中国は、西側が望むような、
「普通の国」
になっていたかも知れない。
しかし西側の自由主義諸国からの人気も高く、今思えば何の根拠も無かったのだが、その種々の言動から、
「話のわかる男だ」
と、評価されていた鄧小平は、実際には所謂「守旧派」のリーダーとしてこの運動を弾圧して、人民解放軍を天安門広場に送り込み、多くの学生を含むデモ隊を戦車で蹂躙して事態を収拾し、結果的にこの運動に理解を示した複数の有力政治家を要職から追放した、と言われている。事件当時の報道統制や、その後の情報操作等の影響もあったかと思うが、事件の真相は、今でもはっきりしない部分があるが、西側諸国の発表では、
「一万人の市民が犠牲になった」
とも言われている。少なくとも日本の学生運動の比では無かったと思う。ここで、中国という国は、自由主義陣営の仲間入りを目指すのではなくて、独自の改革開放路線、つまり中国共産党の指導の下で、党が正しいと計画する方向へ国家を導いていくという、国家の運営としては一見効率的にも思えるが、西側の我々一般人が考える組織の意思決定方法としては難しい、チェックや歯止めの効かない統治方法を選択して現在に至っている、と言えるのではないか?
一方で、ペレストロイカで旧ソビエト連邦や東欧諸国を民主的な方向に導き、西側諸国で絶大な人気を誇ったゴルバチョフ書記長は、この年の12月に地中海のマルタ島で、アメリカのブッシュ大統領と共に、米ソ冷戦の終結を宣言する事になるのだが、その後の旧ソ連邦の解体を経て、経済の低迷等複数の要因から、どういう訳か、ゴルバチョフは失脚し、大柄な酔っ払いのエリツイン大統領を経て、現在のプーチン氏の、共産主義への回帰と厳しい言論統制と陰湿な制裁を伴う長期独裁政権へと変貌していく。
そうした意味で、この一九八九年というのは、世界史的に見れば、現代史に残る大きな歴史の転換点だったのかも知れない。中でも、天安門事件というのは、中ソ両国が「民主化」ではなく共産主義を標ぼうする「専制政治」へと回帰して現在のウクライナ侵攻を含む「第二次冷戦」へと世界を向かわせる起点の一つとなった象徴的な事件ではないだろうか?
しかし、先ほども述べたように、日本ではこの事件はあまり詳細に報道されず、中国に対する日本の政財界の積極姿勢は変わることが無かった。七〇年代の学園紛争などを経て、日本の社会の多くの人々が政治を語らない「ノンポリ化」しており、とりあえず英語にすると、
「アズ・ロング・アズ・マネー・ゴウズ」
というのだそうだけれども、おカネが儲かれば何でも良い、という所謂「エコノミック・アニマル」の姿勢で中国との取引拡大に血道をあげていた。
それは土田の会社でも例外では無かった。
土田が調達担当の橋口と話している。
「橋口さん、山東省の石、もうちょっと入れてみようか?」
「でも今、天安門事件の後でビザが中々出ないんじゃないですか?」
橋口は、国内外の材料の仕入れを担当する課長で在職二〇年ほどになるが、土田の会社には珍しく、英語も堪能で、土田の入社以前から、社長の建一に付いてあるいは単独であちこちの丁場(採掘場)の材料の検品、契約と仕入れ業務を行っていた。気の短い社長の建一に仕えるのは何かと気苦労も多かったせいか、四〇代前半にして、髪の毛は殆ど真っ白で、その良くいえば「ロマンスグレイ」の頭髪の下に、あちこちに出張して日焼けした細面の顔と黒目勝ちの瞳を備えて、いつも生真面目に話をする、注意深い男だった。
「やあ、でも、もう他社も随分色んな山に手出してるみたいだし、ウチもそろそろ行っとかないと、他に抑えられちゃうでしょう」
「それはそうなんですけど、どこから行くんですか?」
「山東省の石は薄紫の『三〇六』がそこそこ売れだしているけど、最近、岡山の万成石に似た『三六一』っていうのがあるでしょ?」
因みに「万成石」というのは、東京だと日比谷にある日生劇場の外壁などで使用された、長石が優しいピンク色をした、岡山県産の花崗岩の事である。
「あゝ、三六一ですか。あれは『中国万成』とか言ってますけど、日本の万成みたいなサーモンピンクじゃなくて、ピンクの長石の色がブルーがかってるでしょう。万成とはやっぱり違いますよね」
「でも三〇六より少し硬くて、磨くとツヤが出て性能は良いみたいだよ。他社も少し入れ始めたみたいだし、こっちも動き出した方がいいんじゃない?」
「それより、土田さん、福建省でしょう。『六〇三』とか『六一五』とか『六二三』とかいう日本の『稲田石』みたいな白御影が流行り出してるみたいですよ。もう敷石で使われてるようだし…」
「ああそうだ。山東省の石は三百番台の番号が付いてるけど、福建省は六百番台なんだよね」
「そうですね。広東省は四百番台です」
「ああ、そうでしたね。中国材も種類が増えてきたなあ」
「だから良い材料の山と早く話しておかないと…」
「福建省は、建一社長が行ってるだけで、あの人、何にも言わないから、良くわからないんだよね。一度、行ってみますか?」
「その方が良いと思います。福州から入って海沿いにずーっと南下して、厦門まで行ってみたらいいんじゃないですか?」
「何、もう調べたの?」
「ええ少し。でも今回は、商社の広岡さんと行かれたらいいんじゃないですか?」
「いやいや、まだどの商社にするかわからないから、行くんだったら橋口さんと二人で行くってことで、どうですか?」
「建一社長が許可しますかねえ。中国は俺がやる、とか言ってるし」
「私から頼んでおきますよ。建一社長、最近銀座の接待なんかで、疲れてるみたいだよ。自分で行くって言わないよ。たぶん」
「そうですね。社長は接待苦手ですからね」
「お客さんに『あと何杯飲みますか?』なんて聞いちゃうんだよな」
「怒るのは得意なんですがね。ご機嫌取るのは下手だからなあ」
「そういえば、何か、会社で毎日、橋口さんに怒ってるよね」
「アハハハッ、まあ、僕は、その、叱られ役ってことですから…」
確かこんな話をして、橋口課長と二人で福建省に行くことにした。中国行きのビザは、青山の中国大使館に申請して手続きを行う。昼の十二時に窓口が閉まってしまうので、昼前の窓口は中国側からの招待状を持った日本企業の担当者でごったがえした。誰も天安門のことなど気にしている様子は無かった。土田も、銀行から建設下請け業に転じて、仕事や取引先を覚えながら忙しく過ごしていたし、家庭的にも、育ち盛りの子供たちを、銀行の職場で知り合った元気な妻に任せてはいたが、何かと考えることの多い毎日だった。
この年の終戦記念日に、土田の妻の陽子が、三人目の子供である元気な長女を生んだ。土田が「奈津子」という名前を付けた。




