二 青島
朝の北京は、昨日と同じような肌寒さだった。
土田は、中国民航のイリューシンに乗り込んで出発を待っていた。
中国の航空会社がボーイングを機体に使うようになるのは、たしか一九九〇年代に入ってからで、この頃はまだ旧ソビエト製のイリューシンが主体だった。ソ連のアエロフロートと中国民航がイリューシンを使っていて、この会社の飛行機は、ボーイングの初期のジャンボジェットのようにお尻がブルブルするようなことは無かったが、総じて機体が硬くて乗り心地が悪かった。中国民航のパイロットの操縦も大体荒っぽくて、着地の時に普通の旅客機が「後輪→前輪」の順に着地するものを、中国民航は殆ど前輪と後輪を同時に、
「バンッ」
と着地するので、少し怖かった。しかし、この会社のパイロットはほぼ軍人上がりとのことで、乗り心地はともかく、事故の少なさと安全性の高さを彼らは誇示していた。ただ、離陸の途中から、すぐに右旋回するような癖があって、今回の飛行でも、右旋回すると、傾いた下方に向かって座席が少しスライドして隣席の客と接触した。座席自体がカーペットの上にビス止めしただけのアルミのレールに取り付けられているようで、土田は、
(これは設計ミスだよな)
と思ったが、アエロフロートでもこういう事はあった。
(機体が硬そうだから、たぶん、大丈夫なんだろう)
ともかく、朝の飛行機に乗って、北京から一時間半ほどで青島に着くはずだったが、青島空港が霧で着陸出来ず、そうなると一旦はさほど近くも無い焔台空港に降りて、そこで暫く待ってから青島に入ったので、六時間半もかかってしまった。空港で、名古屋の鉄鋼商社の広岡という次長が待っていた。
「いやあ、随分かかりましたなあ」
「どうもお待たせしました。烟台で中々飛行機が出なくて」
「いや、何か、海沿いの街はどこでも湿気があって、青島でも上海でも、霧が出ると中々飛ばないらしいんですな」
「申し訳ない」
「いや、公司の方には言っておきましたから、とりあえず今日は、ホテルに入って休みましょう」
「はい。よろしくお願いします」
広岡のタクシーで、青島の街へ向かった。確かに北京よりずっと暖かく、湿度もかなり感じられた。夕方になってホテル近くの一般道に入ると既に暗かった。ホテルの前にロータリーと花壇のようなものが設置されていたが、照明が暗くて良く見えなかった。
「随分暗いんですね」
「いやあ、北京と同じで、電気が足りないんですよ」
「ホテルは大丈夫なんですか?」
「ああ、はい、自家発電の設備があるそうです」
「それは良かった」
夜の七時を過ぎてホテルに到着した。この当時中国では、どこへ行っても、ホテルやレストランの名前は、「ダイナスティ」と言うのが多かったような気がする。北京でも大連でも上海でも「ダイナスティ」、というわけで、青島のホテルも「ダイナスティ」という名前が付いていた。「王朝」とかいう意味らしく、やはり、普通の中国の人は、昔の中国王朝への憧れがあるのかな、と土田は思った。
夜の八時を過ぎて、広岡と土田がホテルの食堂に入った。広岡は、土田の身長より十センチほども高い百八十センチ近くの偉丈夫で、白髪の混じったクシャクシャの髪の下に、度の強い眼鏡と馬みたいに長い大きな顔が付いていて、バレーボールで鳴らした腕っぷしの強さでゴルフも良く飛ばすし、良く食べ、大きな声で良くしゃべる明るい普通の中年男だった。
「誰もいませんな」
食堂が九時に閉まるとの事で、食堂の職員はもうすでに片付けに入っていた。
「小姐、小姐」
と広岡が呼ぶと、グレーのスラックスを穿いた短髪で無表情な仲居さんが、モゾモゾと寄って来たので、クラゲの前菜と肉野菜とまたチンジャオロースを頼んだ。
「あと、青島麦酒ね」
「はい。わかりました」
食堂のサービスはまだ全然ダメだったが、青島ビールは間違いの無い品質だった。義和団事件の後、ドイツが青島を割譲していた頃に建てたビール工場を、中国が接収して生産していたのが「青島ビール」で、これはドイツの地ビールというよりもむしろオランダのハイネッケンなどに近い味だったように思う。
食事を始めて十五分も経つと、さっきの仲居と一緒に店長らしい人が来て、
「フィニッシュ? フィニッシュ?」
と言い出した。
「まだ始めたばっかりなんだけど?」
と広岡が日本語で答えると、また、
「フィニッシュ? フィニッシュ?」
と言うので、少し変な英語だが、
「ノー、ノー、ノー、ウィー・アー・ノット・フィニッシュ!」
と広岡が大きい声を出して、手で追い払った。
しかし驚いた事に、五、六人の従業員が広岡たちのテーブル以外の椅子を全部ひっくり返してテーブルの上に積むと、モップに水を一杯に含ませて床の拭き掃除を始めた。拭き掃除というよりも、ただモップで床をビチャビチャに濡らしているような作業が始まった一方、食堂の隅では、別の男女の職員数名が賄い(まかない)の夕食を取りながら大きな声で雑談していた。
「やれやれ。何だか大変ですな」
「閉店時間まで、まだ三十分もありますよ」
「でも、食事を出したところで、彼らのサービスは終了なんだね」
「早く食べて部屋に戻りましょう」
「ホテルの隣に、焼肉屋とカラオケもありますよ」
「やあ、今日はもういいでしょう」
「ここと違って、全部韓国人の経営なので、サービスはいいですよ」
「韓国の資本が、もうそんなに進出してるんですか?」
「うん、だって土田さん、ソウルから青島まで、飛行機で一時間で着いちゃうんだから」
「そうなんだ」
確かに、地図で見るとソウルと青島はほぼ同じ緯度にあって、ソウルから西に真っ直ぐ一時間飛べば青島に着くようだ。土田は烟台に寄った疲れもあったので、カラオケを断ると直ぐに就寝した。
***
翌朝、土田は広い窓から差し込む明るい日差しで眼を覚ました。四月の中旬というのにかなり湿気があって、既に羽音がうるさいほどの蚊が飛んでおり、海の方に開いた窓と、ベランダに出られる木戸の両方に網戸がはめてあった。アメリカのソルトレークでもそうだったが、どうもモスキートという生き物は、濃度のある塩水を好むらしい。部屋の中もかなり蒸していたので、土田は朝食前に一人で海岸に出ることにした。
青島の海岸は広く遠浅で夏の海水浴でも有名らしいが、さすがに四月中旬の気候でまだ泳いでいる人はいなかった。ただ中央に設置された木製の桟橋の先に中国人のカップルが立っているようだったので、土田もそこまで歩いていった。遠浅の海岸は七、八百メートルも続いていて、バリ島にもいるナマコが沢山いるような感じだった。中国人のカップルは新婚さんのような印象で、男性は背が高く、黒縁の丸い眼鏡を掛けて灰色のスーツを着用、女性は白いワンピースだった。軽く会釈すると、手真似で写真を撮ってくれと頼まれた。渡されたのはゴツい二眼レフカメラで、上から覗き込むと、清楚な中国の新婚カップルが、白黒のファインダーの向こうで微笑んでいた。父の二眼レフカメラを土田がいじっていたのは子供の頃の話で、(中国の人は、まだこういうものを大事に使っているのか)
と土田は少し驚いた。
(日本でこれを使ってたのは三十年以上前だよな)
旦那さんの方が少し英語を話したので、色々聞いてみた。
「どこから来ましたか?」
「北京から来ました」
「じゃ、私と同じですね。今日は観光ですか?」
「はい、新婚旅行です」
「おめでとうございます」
「ありがとう」
「ハワイとか行かないの?」
「そこまでお金は無いです」
「青島に来る人は多いの?」
「はい、北京から新婚旅行で青島に来る中国人は、とても多いです」
というような話をした。
海水浴場は、大体日本と同じようにも見えたが、一つ違っていたのは、道路から砂浜に入る境目の辺りに、人が一人か二人入れるくらいの三角屋根の木製の小屋が沢山立っていることだった。海風からの腐食を避けるためか、水色や薄緑色やピンク色のペンキで塗装してあるのが、青島海岸の灰青色の淡い色と調和して、ターナーの水彩画を見るようだった。小屋の数は優に七、八十以上はあって、それが海外線と並行になる形で、砂浜の入口に等間隔で並んでいた。
「あれは何ですか?」
と聞いてみると、中国の新婚さんが、
「ジャーマン、ジャーマン」
と答えた。後で分公司の人に聞いてみると、ドイツ人が残した海水浴用の更衣室で、まだ使えるとの事だった。たしか青島は日本軍が駐留した事もあったはずだが、この当時はドイツの居留地の面影が色濃く残っていて、またそれが多少エキゾチックな風情となって、地元民にも抵抗なく受け入れられているようだった。
ホテルで朝食を取って広岡と土田が五金の分公司に向かった。
山東省五金公司は、青島市街の中心から少し外れたところにあって三階建ての小さな分厚いコンクリート造りの建物と、裏に原材料の置き場や簡単な作業場を備えていた。
「土田さん、朝、海の方に行かれましたな」
「いやあ、随分、蚊に咬まれてしまって…」
「ここは、暖かくて蚊が多いんですよ」
「虫刺されの薬、持って来て良かったです」
分公司の二階で先方を待つ間に、土田が虫刺されの白いクリームを使った。五分もしないうちに分公司の人間が入室した。
「おはようございます。分公司の崔英文と言います」
「刈谷鋼機の広岡です。こちらは土田建材の土田さんです」
崔の名刺には「主任」、と書いてあった。毛の太い、白髪混じりの短髪の下に、度の強い眼鏡と良く陽に焼けた生命力に溢れた身体が付いていて、人の好い、眼鏡を掛けたハナ肇のような印象だった。
「土田建材の土田さん…っていうと、社長さんですね」
「ああ、良くわかりましたね」
「だって会社と同じ名前だから」
「なるほどね。でも本当は、まだ副社長なんですけど…」
「まあ、今日は良く来られました。山東省の三○六の材料ですね」
「はい」
「裏の置き場に材料がありますが、すぐご覧になりますか?」
「はい。よろしくお願いします」
ということで、すぐに材料を見ることになった。
話が後先になるが、土田の会社は、所謂「建築用石材」といって、ビルの内部・外部の壁や床の仕上げに使う花崗岩、大理石、石灰岩などの天然素材を製作・加工して現場に取り付ける特殊建設業者だ。原材料は、簡単に言うと、長い年月をかけて地層が固まったもので、比重が二・五~三くらいの天然素材である。ガラスの比重が二・四くらいだから、それよりも少し硬くて色々な色がある。
「土田さん、あの、崔さんが、原石部の主任です」
「そうみたいですね」
「この人は、話が早そうですね」
「うん、話がわかりそうだ」
「とにかく材料の事は知ってるようなんで、現物見て話しましょう」
「そうだね」
という事で裏に出てみると、建物の敷地の五倍ほどの広さのバックヤードと別棟の小さな作業場があり、原石を揚重する八トンから十トンくらいの門型クレーンも設置されていてその下に五、六十個の原石が二段積みで並んでいた。土田はとにかく色目を見てみようと思って、石の目に沿って職人から借りた平ノミを振るい、手のひら大のコッパ(石の切れ端)を採取して原石番号を打ち、これを、一旦は水を張ったフネ(セメントなどの調合に使う平底で長方形の作業容器)に漬けた後、それらを取り出して太陽に当て、色の濃淡と紫からピンクに変わる色調の変化に従って、地面に並べてみた。
「土田さん、色の方は、結構揃ってるんじゃないですか?」
「はい、まずまずだと思います。石が少し小さいけどね」
日本の土田の工場にあるイタリー製の原石切断機(ギャングソーという鋸刃(SAW)が束(GANG)になっていて原石を大量の薄板に切断する基本的な機械)に掛けるには四~五立米くらいの大きさが欲しかったが、山東省のこの石の大きさは、まだ三立方米弱というところだった。
「でも日本の他社でも入れ始めているし、中国の材料では現状これくらいだから、品質が良ければ少し入れられたらどうですか?」
「そうだね。じゃ崔さん、呼んでください」
「はーい。崔さーん、こっち来てっ」
と広岡が大きな声を出した。崔が走って来た。
「崔さん、この八個のコッパの色の範囲で千トンそろえてください」
「はい。でもこの二十個の石は、品質はとても良いです」
「いや、でも、ほれ、他の石はピンク色が強いでしょう?この範囲でないと現場の仕事がまとまらないの。わかりますか?」
「はい。でも、千トンはすぐには出荷できませんが…」
「いいよ。一年以内に出来ますか?」
「それなら大丈夫です」
「それと、ウチの工場の人間が検品に行きます」
「それも大丈夫です。歓迎します」
「あと、キズとか大きな黒玉とか強い線の入るのも避けてください」
「大丈夫です。大丈夫、大丈夫」
「広岡さん、本当に大丈夫かね?」
「基本的には、真面目な人たちだと思うんで、とりあえず千トン、入れてみませんか?」
「そうだね」
いつの間にか七、八人の現場の作業員が集まって、土田と広岡の周りで一斉にタバコを吸い始めた。後で聞くと、買手が来たときは、タバコも食事代も会社の経費で落ちるのだそうだ。
「では、昼ごはんに行きましょう」
と崔主任に促されて、近くの食堂に向かった。食堂に到着すると、分公司の人間が十二、三人に増えていた。実際にこの商売に関係するのは二、三人で、後はタダ飯を頂戴に来たという印象だった。
「いやいや、昼間から大宴会ですな」
と、広岡。食事は肉と野菜が中心で、特に危険なものは無かったが、商談がほぼ決まりそうで、原石部の面々は、会社の経費でビールと茅台酒を飲みまくり、土田と広岡に、
「乾杯、乾杯」
と勧めるので、やや閉口した。飲めないときは、
「随意、随意」(注:随意契約の随意です)
と言って、飲めるところまでで止めても良いらしいのだが、先方は身体を使って仕事をしている親方衆で、それでは承知しなかった。土田は酔いを殺して何とか持ちこたえた。
昼食後、崔主任に、契約と船の話をしてみると、
「契約は貿易部と、船は運輸部と話してください。私たちは原石のこと以外は、自分の仕事ではありません」
と言われ、急に話が進まなくなった。この頃中国の政府系の会社は、極端な縦型組織というか、ピラミッドのような組織になっていて、土田は翌日は貿易部と、翌々日は運輸部と話をしたが、部門間のコミュニケーションが殆ど無く、常に最初から全部説明しないと話が進まなかった。後で聞いてみると、部長(経理)以上の共産党員の役職者が話をまとめることになっていて、下の人が横に連絡を取るのは禁止されているという、非常に効率の悪い組織だった。
「じゃあ、今日はこれ以上話しても仕方がありませんな」
と広岡が言うと、崔主任が、
「工場の方も見てください」
というので、バックヤード横の小さな建屋に向かった。
この頃土田のような日本の中小企業が中国と取引を始めたのには幾つかの理由があったと思われる。一つは、鄧小平の号令で自由化への道を歩んでいると思われた中国本土という巨大市場について、売る方でも買う方でも良いので、とりあえず取引してみようということ。そして二つ目は、中国の安価で勤勉な労働力を使って、自社の製品のコストダウンを図りたいという願望だった。土田の会社にしても、日本の賃金が上がると、まず台湾、次に韓国の工場を指導しながらモノを作るようになっていた。しかし韓国経済が財閥中心に伸長すると、同国の物価も賃金も日本の倍くらいのスピードで上昇し、当初は日本の半分程度だった彼らの賃金も、それこそあっという間に日本に追いついてしまい、少なくとも建設資材については韓国や台湾でモノを作る旨みは消滅した。日本の大手ゼネコンで、海外調達に長けた某社が、一時は韓国で建設用のH鋼を作らせて、輸入していたが、次第に採算が取れなくなった。
(だって、H鋼なんて嵩張る(かさばる)し、重過ぎてダメでしょ?)
と土田は思ったが、当時からゼネコンの海外調達は流行っていて、その値段は、日本の下請けメーカーの値引きの材料にも使われた。
とにかく、韓国や台湾では採算が取れなくなったので、
「さあ、次は中国だ」
ということになった。何しろ十四億の民がいるのだ。
(何でもできるじゃないか)
と土田は意気込んだが、モノを作らせるには、ある程度「下地」というか、何か曲りなりにも工場で組み立てたり加工したり、という経験のある人間を教える方が良かった。道で物売りをしているような人たちではなくて、モノ作りを始めたような人が良かった。
(しかし、ここは工場というよりは、軽作業場という感じだな)
と土田は思った。その小さな建屋に入ると、中央に丸鋸の付いた門型のフレームがあって丸鋸の下に小さな原石が据えられていた。
「これから切断します」
と崔主任が言うと、作業員が電源を入れて丸鋸を動かした。しかしそもそも建屋の土間にコンクリートもない土の上に直に機械が据えてあり、また「上海」という機械メーカーの名前の入った、国産と思われるイタリーの丸鋸に似せて作られた機械は、フレームが鋳物でなく、薄い鉄板を板金加工して作った如何にも軟弱な拵え(こしらえ)であって、そのフレームの中央で丸鋸が傾きながらゆらゆらと石に当たり、到底垂直に材料を切断できるとは思えなかった。丸鋸の先端には工業用ダイヤモンドのチップが付いているのだが、
「ダイヤの刃は輸入ですか?」
と聞くと、
「いえ、刃を買うと高いので、チップを買ってきています。切れなくなったら、裏のワークショップでチップを付け替えているんですが、ご覧になりますか?」
というので、機械の横の小部屋を覗くと、別の作業員二、三名で、チップの付け替えを行っていた。
「ううん、これじゃ大変だね」
「電気も安定しないし、当分は原材料、原石で買うしかないね」
「そうですね。やっと山から原材料が出せるようになってきたというところですね。工場の方は、先方にお金が出来てきたら、少しずつ教えていけばいいんじゃないですか」
「そうしましょう」
というような話をした。
材料を千トン買う方向で話が進んだためか、その夜は、分公司の経理と会食することになった。広岡と土田がレストランの小部屋に通されて、暫く待っていると、十分ほどして三十代前半くらいのスマートなビジネスマンが一人で入って来た。
名刺を交換すると、山東省五金公司の、
「経理 唐経国」
と名前が書いてあった。色白の、端正な顔立ちの上の短髪をオールバックにして、仕立ての良いグレーのスーツにカッターシャツと紺のタイを合わせ、広岡と土田に向かって慇懃に挨拶したが、仕事の内容には殆ど興味を示さず、自分から余りしゃべらなかった。
昼間の内に崔に聞いてみると、
「私の上司は若い共産党員で唐経理と言います。公司の管理職は、共産党の綱領とか方針を良く理解していなければなりません」
「唐さんはいい人ですか?」
「はい、私は、唐経理をとても尊敬しています」
という話だったが、会ってみると、気持ちがかなり驕った(おごった)印象の、
「どこがいいんだろう」
という感じの若者だった。
「崔さん、本当はこの人がそんなに好きじゃないんじゃない?」
「だよねえ」
と、日本語がわからなそうな唐経理の前で、広岡と土田が話した。
今でもそうなのかも知れないが、この頃の中国の政府系公司では管理職は殆ど共産党のエリート党員であって、仕事の事より共産党の綱領と方針に集中しているようだった。唐経国は部下も連れずに一人で会食に出て来ていて、
(分公司は、この商売にあまり力が入っていないんだな)
と土田は感じた。こちらから英語で話しかけてみても、
「数量は千トンですが、あまり急ぎません。工場の人間を検品に送るので、一年くらいかけて良い材料を出してください」
「それは原石部の人間と話してください」
「数量が一度に千トンまとまれば、バラ積み船に乗せた方が輸送費が安くなりますが、分けて運ぶ時はボックスコンテナでも…」
「そういう話は良くわからないので貿易部と運輸部の人間に話してください」
という調子で取り付く島も無い感じだった。端正な顔立ちは、中国の鉱物資源商社の管理職というよりも、土田が銀行員時代に遭遇したライバル行の上級管理職に少し似ていて、
「この人、普段からあんまり汗かいたことないんじゃないか」
と土田は思った。
後に土田がベトナムの会社と取引した時も「北爆の時の撃墜王」なんていう人が、会社の役員として出てくることもあったが、
(ベトナムの役員は、何とか仕事のことも話すし、あの頃の中国の管理職よりはずっとマシな苦労人だな)
と思った。とにかくこの夜は静かに唐経理と会食をして終了した。
幸いに、青島の分公司の材料は比較的品質が良く、土田は広岡の会社を通じてこの後の十年ほど、この材料を買い続ける事になる。その間に、五金公司の山東省分公司は北京の総公司から次第に独立し、というか、その後の数年の間に、中国の会社は急速に民営化が進んで、ビジネスのスピードも日本の会社が追い付けないほどの速さで変貌していく。




