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十七 上海再訪

 それから数年後の二〇〇八年春、上海市郊外の工業団地の一角に、土田晴彦の姿を見出す事ができる。詳しい経緯は省くが、建材会社閉店後の様々な処理を済ませた後、職安の紹介で自宅近くの機械メーカーY社の嘱託社員となった土田が、Y社の北欧の取引先N社の上海事業所の開所式に、英語の翻訳・通訳者として同席していた。

「ここ上海事業所では、中国国内市場の販売促進マーケティングという第一の目的だけでなく、当社の技術に精通した中国人エンジニアの育成を通じてアフターサービスを強化すること、更には中国、日本、オセアニアに東アジアを加えた計十五か国の市場を統括するハブ事業所としても機能いたします。地元政府の皆さまの、多大なご支援により、ここ上海の一等地に開所出来ました事に、深く感謝いたします」

 N社スウェーデン本社の役員が、来賓の中国政府高官に向かって、礼を尽くした挨拶の言葉を述べている。

土田がY社の総務部長に話しかけた、

「N社とはウチ(Y社)の方が古い付き合いなんですよね?」

「そうだね。もう二十五年くらいになるんじゃないかな」

「じゃ、何で、日本じゃなくて中国なんですかね?」

「そりゃしょうがないだろう。これから中国はN社の環境関連機器を全国で大量に買ってくれる見込みがあるだろう。それに引き換え、日本市場の方は、もうウチがだいぶ売り切っちゃったからなあ」

「でも日本のウチの会社にアジアのハブとしての仕事を任せれば、何も教えなくったってウチの社員は散々N社の製品なぶって来た訳だから、話が早いんじゃないんですか?」

「いや、中国の若い人たちがN社の技術はすぐ覚えちゃうでしょう」

「まあ、そうかもしれませんね」

「それは、土田さん、俺たちの心配する事じゃないよ」

「しかしN社の環境機器ってのは、直接モノを作る機器じゃなくて、工場に設置して排気ガスとか溶接の粉じんとかを吸い込んで、作業環境を良くするモンですよね。そういう直接生産量のアップに結び付かないような機械が、果たして中国で売れるんでしょうか?」

「いやそれも土田さんの心配する事じゃないけど、中国政府は今電気自動車の普及とか、何か大国として環境問題に真剣に取り組んでるでしょう。だからこういう機器への関心も高いんじゃないかな」

「結構、爆発的に売れますかね?」

「そりゃ十四億だか十六億だかの人間がいて、大きな工場もどんどん建ってるし、もう『最後のフロンティア』っていう事でしょう」

「それで、ウチも、上海に子会社作る事にしたんですね」

「そうそう。N社みたいな北欧の会社だけじゃなくて、フランスやイタリーやドイツの会社も上海に出て来てるでしょう。ウチの競合先のアメリカのW社だって、もう中国に立派な工場持ってるし…」

「あゝ、そうですね」

「W社みたいに工場を作るかどうかは別として、とりあえず販社は作っとこうか、っていうトコロが多いんじゃない?」

「何にしても景気の良いお話ですね」

「ウチも乗り遅れないようにしないとね」

という当時の空気の中で、土田の新しい勤務先であるY社も、数年前から中国に出していた駐在員事務所に一定の追加資金を投じて、北欧のN社と前後して上海に現地法人を設立した。

 あまりにも、政治体制や社会の仕組みが自由主義諸国とは異なる国ではあったが、とにかく十四億を超える人口を抱える巨大市場を前にして、その当時の各国の企業の気分は、

(とにかく乗り遅れちゃいけない)

というモノだったと思う。

土田が潰した中小企業のケースにしても、中国製品の値段にやられたという側面はあったにせよ、その点以外で、何か中国の存在によって直接的に苦しんだという事は無かったように思う。むしろ、共に働いたり、あちこちの旅先で出会った中国の人たちは、基本的に真面目な日本人以上に、勤勉で気の良い人たちだった。

ただ、中国で仕事をしていて、何となく、体制の違いによって、日本企業が同じ土俵で勝負しようとすると、やはり政府の政策とか補助金とか色々な規制でもって、フェアな競争をするのは難しいと思える事がしばしばあったし、また国家主席を頂点とする中央集権国家というのは、政府の中枢にいる人の決断でもって、どう状況が変わるかわからなかったので、中々信頼できるパートナーを作るのは難しかったのかもしれない。以前付き合っていた商社の大澤と、土田が会う機会があって、少し昔話をした時にも、

「そういえば、天安門事件から数年後のクリスマス・イブの夜に、二人で天安門広場に行ったら、すごい厳戒体制だったですよね」

「そうだったね」

「ああいうところが、中国のちょっとわからないところですね」

「だから、特に中国に地理的に近い日本だとか、日本に基地のあるアメリカが本社の企業は、中国の企業と付き合う時に、何となく、ある種の緊張感を感じてしまうんだろう」

「その点ヨーロッパの企業は、まず中国がヨーロッパを攻めて来る事はないだろうっていう安心感がありますよね。それでフランスでもイギリスでも経済優先で前のめりになっちゃうんじゃないですか」

「そうそう。そうすると、また、それに日本やアメリカの企業が引っ張られたりしてね」

「何にしても、各社の自己責任って事になるんでしょうけど、今の処は、中国市場である程度のプレゼンスを確保しておいて、様子を見るっていう事ですかね」

「それしかないんじゃないかな」

「欧米や日本を含む自由主義陣営っていうんですか、そういう国の企業や人間とずーっと付き合っていったら、結局中国の企業も人も、自由主義とか市場経済の方向にシフトしていくんじゃないですか」

「我々の方は、いつもそう思ってるんだけどね」

と、ほぼこんな内容の話をしていた。

とにかく、二〇〇八年頃の、中国に対する一般的なスタンスは、このようなものであって、どの国も企業も「一抹の不安」のようなモノは感じながらも、全体としてこの巨大な市場を見過ごす訳にもいかず、政治・軍事の国際間のバランスは、

(まあ、おそらく現状のままで、ここ数年は推移するだろう)

という、根拠の無い前提条件の下で、各社とも中国市場に進出して、何らかの果実を得ようとしていた。少なくとも、当時は、誰もが、現在のような強い警戒心を以て、この国と向き合ってはいなかったと思われる。

    ***

ところが…

二〇一二年を過ぎた頃から、明らかに「潮目」が変わって来た。Y社は大きな会社ではなかったので、土田は、契約書のチェックや翻訳の他、機械輸出の際に必要な輸出許可申請という業務も行っていた。何、その、こうした手続は、土田が入社する以前からずっと行われて来たのだが、どうも、二〇一二年頃から、輸出許可を出す経済産業省のスタンスが顕著に厳しくなったように感じられた。

 輸出を管理する法律は外為法(「外国為替及び外国貿易法」)と言って、その第一条には「この法律は、外国為替、外国貿易、その他の対外取引が自由に行われることを基本とし、対外取引に対し必要最小限の管理又は調整を行うことにより、対外取引の正常な発展並びに我が国又は国際社会の平和及び安全の維持を期し、もつて国際収支の均衡及び通貨の安定を図るとともに我が国経済の健全な発展に寄与することを目的とする」と謳われているので、これだけ読めば、基本的には自由貿易を促進する目的の法律と読めるのだが、その一方で、この法律は、軍事的に懸念のある物資の輸出については第四八条で、そうした懸念のあるサービスの提供について第二五条で、規制している。

 Y社の機械は小さいモノで、単価もそれほど高くはなかったが、生産効率が良く腐食にも強いという特性から、半導体や液晶画面を作る工場でも多用され、この点が軍事転用可能なデュアルユース品(軍事用と民生用の両方に使えるという意味)として、輸出規制の対象となっていたのだ。土田と総務部長が話をしている。

「最近どうなの? 経産省は?」

「いや、厳しいですよ。何か、前よりずっと時間かかってるし…」

「そう」

「今、何人くらいで審査されてるの?」

「はい。ウチの機械類のご担当はたぶん審査官三人くらいでやってると思いますけど…」

「随分遅くまで審査してるんでしょう?」

「そうですね。午後九時とか一〇時にメール送って来てますから、残業は多いと思いますよ」

「それでも足りないんだ」

「ええ、一生懸命やって頂いてますけど、この頃は担当の審査官が通ってもその上で引っかかっちゃうんですよね」

「どうして?」

「いや、同じ法律でやってるんですけど、毎年改正があるでしょう。結局、日中関係っていうか、大本は米中関係の悪化ですよね。そうなると色々その、敵というか、仮想敵国みたいな扱いになっちゃうじゃないですか」

 話しているうちに、中国であった楽しい人たちの事を思い出して、土田は何だか悲しくなって来た。

「とにかく、そうなると色々理由をくっつけて厳しくしちゃうって感じですね」

「しかし、元々半導体とか液晶パネルなんかは、普通の電機製品やクルマに使われてる訳だろう。それがどうして規制されてんのかな」「いや、だって、それ、戦車や飛行機にも搭載出来るでしょう」

「そんなの、言い出したらキリがないよな」

「ええ、ですから、一般の汎用の半導体は規制しないけど、軍用の先端半導体は規制したりしてます」

「先端半導体ですか。それはスペック(仕様)で区別してるの?」

「そうそう、そうですよ」

「何か屁理屈みたいな感じだね」

「スペックの方は、毎年の国際会議、レジームっていうんですけど、そこで参加国、大体日本とアメリカとEUの自由主義諸国っていう事ですけど、その意見を集約してアップデートしてるんですよ」

「だけど、結局あれだろう、例えば先端半導体っていうの?先端の半導体だけ規制したって、中東のテロリスト集団なんかは頭の良い技術者がいて、先端の機器類が手に入らなくったって、それじゃあ普通の汎用品の半導体で武器作りましょうって事になってるんじゃないの?」

「いや、そうなんですよ。だから国にしても会社にしてもいわゆる『善玉』『悪玉』っていうんですかね、使う人が良い国の人なのか悪い国の人なのかっていう『需要者』の素性みたいなトコロもチェックしなくちゃいけないんです」

「そんなの、ウチみたいな小さい会社じゃ、中々わからないんじゃないの?」

「まあ、経産省や外務省から色々資料を出していただいてますし、インターネットもありますからね。後は直接相手の国の輸入してる会社やエンドユーザーに質問を出したりもするんですよ」

「それじゃ申請作るのも大変だね」

「そうですね。で、申請してからでも、中国向けなんかだと、許可もらうのに、今は早くて一か月半、遅いと二、三ヶ月もかかっちゃうんですよ。マレーシアやシンガポールの工場向けなんかだったら一、二週間で許可されちゃうんですけどね」

「規制されてない汎用品だけじゃ商売にならないのかね?」

「いや、それだと、例えば『トロの入ってない寿司』みたいになっちゃいますから、汎用品も売れなくなっちゃうんですよ」

「そりゃそうだ」

「まあこういう『経済安全保障』っていうんですか、私もあんまり良く知らなかったんですけど、こういうお仕事が出来て来たんで、私のような中高年もこの会社で雇ってもらえたんですけどね」

「土田さん、そういう話じゃないよ。まあとにかく頑張ってね」

と、この当時はしばしばこんな話をしていたようだ。

 良い事をしたり悪い事をしたりするのが普通の人間だとすると、国や会社も同じような事で、為政者や会社のトップというか、その組織のリーダーの気分で政策が決まっていくのだとすると、本当に善玉、悪玉と区別するのは難しい事だと思う。現実に、アメリカの大統領と中国のリーダーが少しでも敵対的な発言をすると暫くして輸出規制が厳しくなるなんて事は良くあるのだ。

土田は、この機械メーカーに入ってからも中国で会った人たちの事を時々思い出す事があった。というのも最近は中国から日本に留学してくる中国の人が多くて、このメーカーにも中国の若い人が毎年のように入っていて、皆明るく勤勉で楽しい人たちだったからかもしれない。中国という国に限らず、土田の経験からいっても、日本の取引先の会社だって悪い人は沢山いた訳で、要は、強い立場に立った人が、下の立場の人に相対した時に、どう接するかという事が、世の中の幸せというか、安定というか、平和な社会というか、そういった事を決めていくんじゃないかと思うのだ。

そう考えると、「ノブレス・オブリージュ(高い社会的地位には義務が伴うこと)」という言葉が今ほど大切だと思える時代はないような気がする。上に立つ人たちにそういう事が期待できない、とするならば、自分の身は自分で守らなくてはいけないだろう。

それが国であっても企業であっても…


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