十五 マルタ島・海の音
話は遡るが、土田が岳父の建一から社長を引き継いだ一九九四年の春というのは、丁度前年の秋に建設バブルが弾けた直後に当たり、引継ぎ時にまとまった先の工事が殆ど入っていなかった事もあり、土田建材の売上げは、急に崖から突き落とされでもしたかのように半減してしまった。
しかし、この頃の土田の頭には、まだリストラという考えが無く、売上の元になる受注量を回復しようと必死になったが、バブルが崩壊して、日本経済はいわゆる「失われた三〇年」の入口にあった訳なので、日本国内の何処をどう探しても、土田建材の人員と設備を稼働させるのに十分な仕事量が確保出来なかった。
そこで、後になって考えてみると、意味のある行動であったのかどうかわからないが、というよりも基本的には愚かな行動だったが、土田建材は海外工事の受注も試みた。初めは上海、その次はマレーシアとベトナムの日系企業の絡む工事である。
上海では、後に、風水に基づいて上部に大きな穴を設けた設計が新聞やTVで話題になった、日本の不動産大手の高層ビルなどは、まだ計画段階であったが、他にも上海浦東地区での計画は複数あったので、土田建材も、日本の設計事務所からの幾つかの引き合いに対して、設計見積を提出した。実際にこうした計画は、中国地場のゼネコンが、地場の下請けを使って施工したので、土田建材が受注する見込みは当初から無かったのだが、この当時の土田の心境は、バブルの崩壊でいきなり半分になってしまった売上を、自らの営業努力で少しでも回復して赤字を減らしたいという一心であったので、あまり見込みの無い事案にも見積書を出していた。
営業の橋口と土田が話している。
「社長、上海の工事は、見積もり出してもしょうがないですよ」
「どうして?」
「いや、もう、オーナーと設計は日本の会社だけど、どうしたって中国のゼネコンがやるんだから、ウチに仕事が来る訳ないでしょう」
「じゃ、何で設計がウチに聞いて来たの?」
「そりゃ、全体の構成っていうか、仕上材の日本の材料代と現場の工賃をウチみたいな馬鹿正直な会社から取っとけば、全体の予算の中で仕上材の割合っていうか、バランスがわかりますよね」
「それで、中国の業者使ったら、どれくらい安くなるかってのも、わかる訳だ」
「そうそう。だから、そういう検討の材料に、ウチの見積書を使われてるだけです」
「なるほどね」
「なるほどねって、社長、感心してる場合じゃないですよ、時間の無駄ですから」
「はいはい。それで結局中国の下請けの単価とウチとじゃあどれくらい違いそうなの?」
「材料と工賃込みの平米単価で、少なくとも一万円以上違います」
「わかりました。結局、勝負にならないね」
「はい」
「中国で仕事するのは無理だとして、こないだ話のあった、マレーシアの空港の話はどうかね?」
「関口の親方の息子さんが持って来た話ですか。数量はすごくありますけど、難しいんじゃないですか。大体、いつ頃から形になるのかもわからないし…」
「まあ、しかし、D社の調達の飯島課長も、今ちょうど現地に行ってるんでしょ。知らない人じゃないから、ダメ元でも様子見に行って挨拶だけでもして、話にならなくても、それじゃあ、何か国内の小工事でもくださいって、お願いしても良いし…」
「いいですよ。でもね、会社も売上が足りないと当分赤字ですから、お一人で、エコノミーの一番安いヤツで行って来てください」
「わかった。会社からは僕一人で行くとして、外注の若い親方一人連れてくよ。彼は自費で行かせるから」
「そうしてください」
ということで、次にマレーシアに向かった。
***
マレーシアのクアラルンプール国際空港の建設プロジェクトは、日本の高名な建築家の設計に成るモノで、多国間の激しい受注競争の末に、海外調達に強い日本のスーパーゼネコンD社を幹事とする共同企業体が受注していた。空港自体の竣工は一九九七年末頃であったから、土田が若い親方の藤井を伴ってマレーシアを訪れた頃は、まだ材料の調達や、その置き場の確保、下請け業者の選定などに、D社の各職員は忙殺されていた。
「飯島さん、来週の月曜日に、クアラルンプールに着きますんで、火曜か水曜に一時間で良いので、お話伺えませんか?」
「やあ、来るのはいいけど、話にならんよ。だって君、単価が全然違うんだから…」
「でも数量ありますよね」
「そりゃ、仕上げ材の数量は都庁の時より多いかもしれないけど、とにかく君んトコは元が高いんだし、来たって時間の無駄だろう」
「いえ、もう日本の工事は、とりあえず取れるもんは取っちゃったんで、マレーシアのお話は『ダメ元』でも、材料から加工とか置き場とか色々工夫して、とりあえず取付までの出来上がりの単価で、少しでも使っていただけるトコロがあれば、と思ってますんで…」
「そう。まあいいや。それで、気が済むんだったら会いましょう。ゴルフでもするか?」
「いや、ゴルフは下手なんでお時間があればお付き合いしますけど、飯島さんにお任せします。とりあえず、よろしくお願いします」
「わかったよ。じゃあ、忙しいから、もう切るぞ」
「はい」
調達課長の飯島は、D社の海外調達を、当時ほぼ一手に任されていた人物で、ビジネスについては冷たいと感じるほどドライに決断を下したが、下請けの選定については私情を挟む事なく公平に対応してくれた。大学の野球部出身で、土田も一度だけ山梨のゴルフ場を一緒に回ったが、一八〇センチの長身から繰り出すドライバーショットがほぼ二五〇ヤード以上飛んでおり、二打目はピッチングかサンドで寄せてしまうという、健康な中年のスポーツマンだった。
気が変わらないうちにという事で、電話で面談の予約をした翌週には、土田はマレーシアのクアラルンプール国際空港に降り立った。
D社の現場事務所はもちろん空港の近くにあったので、その位置を探すのにさほどの苦労は無かった。
「あれ、随分早く来たねえ」
「はい。お忙しいところを申し訳ありません」
「まあいいよ。それで、数量はとりあえず置いといて、単価の方が追っ付くか、やってみたの?」
「はい」
「拝見しましょう」
主要な内外壁と床の各部位の単価を見積書の用紙に記載した紙を、飯島が一〇分ほど眺めていたが、
「これ、どのくらい絞って来たの?」
「はい、日本の材料と工賃込みのギリギリの単価を、マレーシアで色々工夫する手を考えて、あと三割ほど絞ってみたんですけど…」
「そう、ご苦労さん。でもね、こっちの値段は、その六掛けだよ。元々日本の材・工込みの価格の半値以下なんだから、悪い事は言わないから、もう早く帰れ!帰れ!」
調達課長の飯島は、何だか日本のD社の調達部で面談する時よりも随分と素っ気ない感じだったが、後になって考えてみるとこれが現実的なアドバイスだったのだと思う。
「いや、折角来たんですから…ウチも今のお話聞いてもう少し材料の置き場とか工夫してみますんで…」
「あゝ、その置き場の件はね、空港のすぐ近くの土地を押さえてる日系の造園屋もいるんだよ。まあどっちにしてもここはねえ、君んとこみたいな、品質でして来た会社が来るようなトコじゃないぞ。とにかく早く日本に帰んなさい」
「飯島さん、冷たいですね」
「いやあ、俺を頼って来てくれたのは良いけど、君の営業の方向性がおかしいぞ。こんなトコに来ても良い仕事は無いよ。ウチの会社じゃなくても良いから、日本の中小の仕事でも掘り起こしてみたらどうかね」
「御社は、ベトナムでも工事やってますよね」
「ダメダメ、あそこの単価なんてもっと酷いぞ。行くな!行くな!」
「ご忠告ありがとうございます。もう、大体、やらない方向で行きますが、今回はここまで来てしまったんで、一応ベトナムに寄ってから帰ります」
「そう、まあ、土田君の気の済むようにしなさい。じゃあ、今日の話はこれくらいで良いかな…」
「はい。では、今日のトコロは、これで失礼します」
と、マレーシアでは概略このような話になってしまった。この時は、飯島の忠告通りすぐ帰るべきだったかと思うが、このまま手ぶらで帰るのもどうかという事で、この後、D社の事務所があるという、ベトナム共和国南部のホーチミン市(旧サイゴン)を訪問した。
しかし実際に行ってみると、現地はほぼ飯島の言った通りの状況であって、建設工事も小粒で単価も話にならなかった。複数の工事を束ねる駐在事務所の流川という所長は、何というか、疲れ切ったというよりも、かなり「やさぐれた」雰囲気の人だった。
「俺はね、インドネシアやフィリピンでずーっと現場やって、それから流れ流れてベトナムまで来たのよ」
「日本にお帰りになった事は?」
「最初のうちだけね」
「今は?」
「今はもう、ない、ない。飛行機乗るのも疲れるし…」
「で、もう、どのくらいこっちの方面にいらっしゃるんですか?」
「そうねえ、もう十五年になるかなあ。若い頃は普通に日本で現場やってたんだけどね。今はずーっと東南アジアに『塩漬け』だよ」
「それはお疲れ様でした」
「もうね、本社は俺の事なんか、忘れちゃってるんだよ」
「そんな事ないでしょう」
「お前さんに慰められたって、しょうがねえよな」
「はあ…」
と、取りつく島もない感じで、更に彼の身の上話を少し聞いた後、
「日本の下請けにやる仕事無いし、昼から工事の打合せするから、悪いけど、もう帰ってくれ」
ということになり、極めて短時間で営業が終了してしまった。
土田にとってこの旅の収穫は殆ど何も無く、ただ、
(ゼネコンの監督さんも色んな境遇の人がいて、会社ん中で色々と大変な思いをしてる人もいるんだな)
という程度の事を再認識しただけだった。
***
しかし、悪い事ばかり続いたという訳でもなく、この数年後に、ベトナムでは唯一何とか黒字で終えられた小工事があって、それがハノイの日本国大使館のトイレ工事だった。引き合いをくれたのはゼネコンB社で新川のビール会社の本社新築現場の総括所長をしていた内海という人だった。土田建材は新川の現場でジンバブエ産の黒御影石を使用した外構工事を担当していて、その工事が完了して精算に伺った際にベトナムの話が出た。
「あゝ、土田君、僕、今度ベトナムの現場に行く事になったんだよ」「ベトナムですか。また随分と遠いトコロに異動ですね」
「いや、土田君まだ若いから、君んとこが一番良いと思うんだけど、小さいトイレの工事があるのよ。僕が落ち着いたら連絡するから、呼んだらすぐ来てくれるかな?」
「ええ、はい、ありがとうございます。すぐ伺います」
「これ、ウチの調達が絡んでるんでね、材料はマルタ島で作らせるから…」
「はあ、マルタ島って…あのう、地中海のマルタ島ですか?」
「そうそう。便所の間仕切りや何かだから、他との取り合いもあんまりないし、現地で製品にしてベトナムまで運ぶ予定なんだ。現場の取付はたぶん一週間か一〇日くらいで終わっちゃう量しか無いんだけど、いいかな?」
「もちろんです。それにしても、随分遠くで作らせるんですね」
「マルタ島、行った事ある?」
「いえ」
「いや、僕も無いけど、調達の話じゃ、安くて上手いんだってさ」
「はあ、そうですか…。それで、我々は、マルタ島でモノ作る方も見た方がよろしいんですか?」
「そうそう、ウチの調達の高柳課長を付けるから、マルタ島の方も一緒に行ってくれよ」
「あゝ、高柳さんですか。承知しました。すぐ連絡取ってみます」
「そうしてください」
総括所長の内海は仕事には厳しい人で、現場で大きな声を出す事もあったが、普段は笑みを絶やさず、下請けにも紳士的な人物であったから、現地ベトナムの職員の統率なども上手くこなし、大使館のような何かと特別な配慮が必要な現場にも適任だと、本社の方で判断されたらしい。
土田は、購買の高柳にすぐ連絡を取ったが、
「いや、竣工が二年先だから、まだ動かなくて良いよ」
「そうですか」
「マルタ島の工場はもう幾らか作らせた事もあるんで、そこを使うから、土田さんは図面見て製作の指導と工程管理やってください」
「わかりました。先の話って言っても、大体いつ頃行かれますか?」
「そうねえ。先に工場の指導も少しやるんだけど、それにしても、一年くらい先になるかねえ。その時になったら、また連絡するよ」
というような話で、内海のベトナム赴任から一年後の一九九七年の秋口に、漸くマルタ島に向かった。
***
マルタ共和国はイタリー南部のシシリー島と北アフリカのチュニジアとの中間辺りに位置する地中海に浮かぶ小さな島国で、一番大きなマルタ島とその北側に位置するゴゾ島、二つの島の間にある豆粒のようなコミノ島に人が住み、これに二つの無人島を合わせた五つの島が全ての領土であって総面積は淡路島よりも小さいらしい。一九六四年に英国から独立した比較的新しい国かと思ったが、実際にはギリシャやローマよりもずっと古い紀元前三〇〇〇年以上前の遺跡も残り、ローマ時代には、古代ローマとカルタゴのハンニバルが戦ったポエニ戦争の舞台にもなり、更に中世のオスマントルコと十字軍との戦いでは、彼のマルタ騎士団の本拠地にもなったという激烈な過去を持つ。一つには、地中海での位置的な要素に加えて、マルタ島自体が、深さのある欧州屈指の良好な港湾を持ち、吃水の深い大型船の停泊に適していた事が、古くからこの島が周辺の地中海諸国から戦略上の重要拠点と目された理由なのだそうだ。
成田からローマに飛んで一泊した翌朝に、ローマからマルタ島へ向かう飛行機を待ちながら、高柳と土田が話している。
「テラゾー(人造大理石)だったらイタリーでも作ってますよね。どうしてマルタ島なんですか?」
「いや、機械はイタリーと同じモノを使ってるんだけど、マルタの方が人件費が安いし、それに、真面目で良く働くんだよ、マルタの人は。モノが良くて、納期も正確ですよ」
「そうですか。何か日本から遠くの地中海の島で何となく観光地だと思ってましたけど」
「まあその、景色もきれいだし遺跡も沢山あるからもちろん観光もすごいんだけど、昔からずーっと色んな国に侵略されて来たでしょ。だから、小さい国だけど軍隊も全部あってね、勇猛果敢っていうか、皆真面目で良く働くんですよ。最近までイギリスの一部だったから、インフラもしっかりしてますよ」
「そうですか。それは楽しみですね。しっかり拝見します」
現在はスイスやドイツからも直行便が飛んでいるようだが、土田たちが向かった当時はローマからマルタの首都バレッタまでアリタリア航空(現在のITAエアウェイズ)の定期便があって、高柳と土田が朝の八時過ぎの飛行機でローマ・フィウミチーノ空港を離陸すると、一〇時前にはマルタ島の首都バレッタに到着した。
バレッタ空港に石材工場社長のグスマンが自ら出迎えに来ていた。
一応、旧イギリス領だったという事で、土田が、
「ハロー!」
と挨拶すると、
「こんにちは!」
と日本語で返して来た。
グスマンは、歳の頃六〇歳前後、背は土田より低い一六五センチ程度だが、八ミリ程度の短髪に刈り上げ、良く日焼けした赤ら顔の下に、分厚い胸板とたくましい二の腕の付いた筋肉質の体躯を保持していて、いかにも「現場たたき上げ」という印象の健康的な紳士であった。
「とにかく私の工場を見てください」
と言うので、グスマンの英国製の小型車に乗り込むとすぐに空港を出発した。道路の巾はさほど広くはなかったが、島内の道路網は、ほぼ完璧に整備されているようだった。
「日本と同じで、車は左側通行なんですね」
「そうそう、イギリスと同じだからね」
「言葉は英語なんですか?」
「うん、英語は皆話せるから、グスマンと話してみたら?」
というので、土田が少し話し掛けてみた。
「はい、公用語はマルタ語と英語ですが私もですけどイタリア語を話せる人は多いです」
「なるほど。ところで、グスマンさんは髪の毛が黒くて南イタリーの人に感じが似てると思うんですが、元々はイタリア半島から来た人が多いんですか?」
「そうですね。マルタは周りの国々から均等に離れていますから、もちろんイタリーの血も入っていますが、チュニジアともアラビア半島とも交流がありました」
「そうですか。それから、失礼でなければお聞きしたいのですが、車の外を歩いている人を見ると、皆さん髪の色が黒くて、それから、背の高い人があんまりいないような気がしますが…」
「まあそれはおそらく、マルタはヨーロッパからもアフリカからも離れているし、古くから周りの色んな国から攻撃を受けて来たので、マルタの人同志の結婚が続いて、その血が濃いと言われているからではないかと思います」
「周りの国の攻撃があったという事ですが、最近まではイギリスに保護されていたんですよね」
「そうですね。でも、そのイギリス領だったせいで、第二次大戦の時はイタリーとドイツの空軍の爆撃で随分やられてしまいました」
「その時日本はドイツとイタリーの味方だったんで失礼しました」
「いや、日本は爆撃に来なかったから、敵じゃないよ」
「ありがとうございます。そうすると、今は軍隊はあるんですか?」
「もちろんです。古代ローマの頃からマルタはずーっと他国の侵略の対象でしたから、自分たちの島は自分たちで守るという気概は、私の息子たちも含めてすべてのマルタ国民が持っています。だから、陸海空軍は全部あります。徴兵制はなくて志願兵ですけど、マルタの軍隊は勇敢ですよ。まだイギリス軍の指導も受けていますし…」
「それは素晴らしいですね」
と、そんな話をしているうちに、バレッタの空港から三〇分ほどで、グスマンの工場に到着した。
「どうぞ、お入りください」
と言うグスマンに促されて中に入ると、隅々まで清掃の行き届いた建屋の中で、イタリー製のダイヤモンドギャングソー(大理石用の原石切断機)四台が、巨大な豆腐のような人造大理石を枠内一杯に据えて、フル稼働で切断していた。
土田がとりあえず素朴な質問をぶつけてみた。
「日本のテラゾーは型枠に材料を流し込んで厚板を作るんですが、こちらでは大きな原石のブロックを作るんですね」
「はい、イタリーでもマルタでもテラゾーは大きなブロックを作ってそれを板に挽いて使います。逆に日本で厚板を打ち込むっていうのは、どうやってるんですか?」
「日本ではですね、木枠の型に補強用の鉄筋を入れておいた上から『アンコ』(ベーシック・マテリアルと訳した)という石灰を練った生地を装飾用の砕石と一緒に流し込んで、バイブレーターで均一にしながら打ち込んで仕上げるのが一般的です」
「それはとても面倒な作り方ですね」
「そうかなあ」
「ええ。こちらの原石の製作は、下地になる石灰質の材料と模様を作るガラス質の砕石に接着力の高い樹脂を混ぜて打ち込んでから、これを養生して(時間を置いて冷まして)、強度を出したら、後は、普通の天然大理石と同じように加工出来ます」
「へえ、それじゃ一度に沢山作れる訳だ。だけど養生はどれくらい時間がかかるの?」
「二日も置けば十分な強度が出ます」
「ふうん。そうすると原石の切断から製品の完成までに何日くらいかかりますか?」
「そうですね。お聞きした数量なら四日もあれば十分です」
「そりゃ早いね。原石は作り置きして在庫してあるの?」
「その通りです」
「日本のと比べると、地の色が真っ白で砕石も赤や緑のガラス質で綺麗ですね」
「ありがとうございます」
「でも、これって生地の白い部分とガラス質の砕石の部分とで硬さが違うんじゃないですか?」
「いや、それはどの部位も硬度を同じにしておかないと、原石から板に切断出来ないですから…」
「しかし、違う材質の硬度を揃えるのは大変なんじゃないですか?」
「そこは石灰質の天然石の粉とガラス質の砕石と、つなぎの材料や接着剤を混合して、切断や研磨に耐えられる均一な強度を実現しているんです」
「そうなんだ」
と、土田が少し怪訝そうな顔をすると、
「そこはシークレットだよ」
と言って、グスマンは微笑んだ。
「強度のデータはありますか?」
「はい。見掛け比重と圧縮強度と曲げ強度と、摩耗テストの結果もあります」
「土田さん、この工場、結構しっかりしてるでしょ。そろそろ図面見てもらったら?」
と、高柳が口を挟んだ。
「そうですね。グスマンさん、一応ベトナムのトイレの図面持って来たので、ちょっと見てください」
「OK!」
それから図面の詳細について質疑応答を一時間ほど行い、その後グスマンの二人の息子も加わって仕上げ工程のラインを見学した。
仕上げ工程についてはエンリケとブルーノというグスマンの二人の息子たちが説明したが、工場はほぼ北イタリーの真面目な加工場と同じようなラインナップの機械が並んで良く稼働しており、全体として引き締まったオペレーションという印象だった。
「よくわかりました。もう今回の仕事はこちらにお願いしますけど、出荷の前にもう一度だけ検査に伺いますよ」
「はい。お待ちしてます」
概ねこうした内容で工場検査が終了して、この二か月ほど後に、土田が出荷前の検査に再訪する事になるが、製品の精度と品質に、大きな問題は発生しなかった。
「マルタは小さい国だけど真面目に頑張ってる人たちがいるんだね」
「同じ島国だけど、日本よりもずっと厳しい国際環境で生き抜いて来た人たちだから、良い根性してますよね」
「そうだな」
「ところでグスマンさん、今作ってる製品はどこに行くんですか?」
「八割はイタリー向けですがイギリスやアメリカにも輸出してます。これからは日本にも売りたいですね」
と言って、グスマンが片目をつぶって見せた。
***
その日の夜は、
「マルタ島の魚、美味しいですよ」
とグスマン親子が言うので、バレッタの旧市街に戻って来た。港の近くの駐車場に車を止めて少し歩くと、薄いオレンジ色の石灰岩で作られた大きな橋のようなアプローチと、その先のアーチ型の城門が見えて来た。
「古い方の街は、全部同じ色の石灰岩で出来てるんですね」
「はい。マルタ島の建築材料は昔からこの地元産のライムストーンなんですよ。もうそんなに沢山は採れないので、島の外には出していませんけど…」
「奥の方にドームと尖塔が見えますけど、あれは教会ですか?」
「はい。あのドームと尖塔は、別々の教会です。マルタの人間は、私たちも含めて殆どがカソリックの信者です」
「グスマンさん、この石の所々に小さい銅板を貼って、何か書いてありますけど、これは何ですか?」
「あゝはい。バレッタは旧市街全体が世界遺産ですので、色々と説明が書いてあるんですよ。例えばこの板には『この下にはローマ時代の遺跡がある』って書いてあるでしょう」
「あゝ、そうですね」
「それにほら、こっちの板には『このすぐ下の石は紀元前三〇〇〇年頃の遺跡の一部である』って書いてあるでしょう」
「これ、そんなに古いんですか? それじゃ、古代エジプトの遺跡くらい古いって事なの?」
「もっと古いかもしれません。マルタは石器時代から文明があったと言われてますから」
「それにしても、そういう大切なモノを何で下に埋めちゃったの?」
「いや、この旧市街は、十六世紀にマルタ騎士団がトルコとの戦争に勝利した後で建設したんですが、勝ったとはいえまだ油断は出来なかったので、彼らが街の建設を急いだからです」
「なるほど。『勝って兜の緒を締めよ』って事か」
「土田さん、それ、英語にしてあげたら?」
「難しいですね。直訳しますか。グスマンさん、日本でも昔から、『勝って兜の緒を締めよ(Tighten your helmet after the winning)』って言うんですけど、わかりますか?」
「あゝ、わかる、わかる」
「そうですねえ、中世に建てられた街ですけど、確かに良く見ると、石の劣化の具合が微妙に違う部分がありますね。そうすると、日本よりマルタの方が随分歴史が古いのかもしれないね」
「いやいや、日本だって、エンペラーをいただいた古い歴史があるんでしょう」
「それはそうですけど…」
土田も高柳も、こんな小さな島に五千年を超える文明の集積があって、また周辺諸国の度重なる侵略にも拘らず、そうした時代毎の文明の痕跡が何とか保持されている事に、やや圧倒されていた。
「皆さん、歴史の話はまた後にしてそろそろ食事に行きましょう」
「旧市街の内側に美味しいレストランがあります」
昼間の労働で腹を空かせたグスマンの息子たちに促されて、漸く城門の下をくぐると、あまり間も置かずに「地中海料理」の店だという小さなレストランに入った。
土田の記憶では、ピサやカラーラなど北イタリーの石材産地近くでは、いつもスズキの塩焼きとパスタばかり食べていたような気がするが、マルタの周りの海では地元のタイやマグロも獲れるそうで、この日のメニューは、そうした魚にムール貝や太った海老などの魚介を合わせたブイヤベースだった。
「スペインやポルトガルではマグロが獲れるのは知ってましたけど、こちらでも獲れるんですねえ。イタリーの西海岸の方だと『スズキ』『スズキ』ってスズキの塩焼きをしょっちゅう食べてましたけど…」
「はい。マルタの周りの海は深さがあって水もキレイなので、タイやマグロが獲れるんです。タコも食べるんですよ」
「あゝ、ブイヤベースに入ってますね。でも、これって、フランス料理じゃなかったですか?マルタの料理もありますよね」
「はい。でも、マルタ料理の方は明日の昼にでも親父の家で食べてください。僕たち、マルタ料理は毎日食べてますから…」
「そりゃそうだ」
「ところで、皆さんは、カソリック教徒とお聞きしましたけれど、教会へは良く行かれるんですか?」
「はい。毎週日曜日には礼拝に行きますし、何かあると良く教会で祈りを捧げます」
「英国国教会ではないんですか?」
「いや、いや、あれはイギリス人だけですよ。私たちはアングロ・サクソンじゃなくてマルタ人です。イギリスとは今でも仲が良いと思いますが、マルタはマルタです」
「イタリーの影響はどうですか?」
「そうですね。宗教はカソリックだから、イタリーはマルタと同じです。それから今日ご覧いただいたように、工場の機械はイタリー製だし、そういうイタリーの技術は入ってます。それに、例えば、ガソリンスタンドなんかはイタリーのアジップ(AGIP=現ENI)が多いです。まあ、アジップのスタンドはチュニジアにもありますけど…」
厨房の反対側の壁際に小さな古いアップライトピアノがあって、初老のピアノ弾きが演奏を始めた。上手な人だった。
二、三曲弾いてから、
「どなたか、リクエストはありますか?」
と言うので、高柳が、
「じゃあ『チュニジアの夜(A NIGHT IN TUNISIA)』をお願いします。ここチュニジアじゃないけど、チュニジアの近くでしょ?」
「そうですね」
「それでは、『ア・ナイト・イン・チュニジア』プリーズ!」
とリクエストすると、
「OK、アイ・ライク・イット!」
と言って、軽快に弾き始めた。
「チャーリーパーカーも良いけど、僕はピアノの『チュニジアの夜』が好きなんですよ。食後に聴くのは、こういう軽い感じの方が良いでしょう」
「そうですね」
「あの人、上手いね」
「ええ、私たちも、彼のピアノが大好きです」
バレッタ旧市街の小さなレストランで「チュニジアの夜」を聞きながら、マルタ島の夜が更けていった。
***
翌朝は、再度グスマンの工場で、仕上げ工程について幾つか確認した後、島の南にあるビルゼブジャの港で、ボックスコンテナへの製品の積込みを見学した。
「製品の積込みまでは問題無いとして、マルタからベトナムまではどのくらいかかりますか?」
「はい、イタリーから出る船と同じで、スエズ運河を通しますが、ベトナムは日本よりだいぶ近いから、ビルゼブジャから二〇日ほどでハノイに着きますよ」
「ハノイに着いてからの通関の日数を入れても問題無いでしょう」
後の詳細は省略するが、打合せは無事に終わり、この後グスマンの自宅で昼食に提供されたのが、マルタ島の兎肉だった。
「岩盤が硬くて表土が薄いと牛が食べる牧草が育たないんで、イタリーのサルジニア島なんかは羊を食べてましたよね。ここは昔から羊じゃなくてウサギを食べてるんですか?」
「そうだね。ここで羊が育つかどうかは知らないけど、サルジニアは下が花崗岩でマルタは石灰岩だからね。その上の表土の質も違うんじゃないかな」
「そうですか。何か、ウサギを食べるの、ちょっと可哀そうな気もするんですが…」
「それは羊でも同じ事でしょう? とにかく、マルタじゃ昔っからウサギの肉だよ。ウサギの肉は軽くて健康にも良いんだよ。ウチの赤ワインも一緒にどうぞ」
「このワインはどこで作ってるんですか?」
「これはウチの裏のブドウ畑で採れたブドウで作った赤ワインだよ。マルタは島だから、手に入らないモノは何でも自分で作るんだよ。だから『マルタには何でもある』と私は思ってます」
「なるほど」
この赤ワインはラベルも無く、少し濁りもあって日本式に言うとむしろ「どぶろく」に近い感じだったが、これを兔肉と合わせて食すると、誠に野趣に溢れた地元の味だった。
昼食後は仕事も一段落したので、長男のエンリケと街に出かけた。
「エンリケさん、何か、小さくてお土産になるようなモノはありますか?」
「そうですねえ。それなら、ゴゾのグラスが良いんじゃないかな」
「ゴゾって、あの北にあるゴゾ島の事ですか?」
「ええ、マルタ島にも、ゴゾ・グラス売ってる店がありますから、ご案内しますよ」
エンリケの案内で、海辺の近くの小さな土産物店に入った。
「へえ、どれもきれいに彩色してありますね」
「そうです。僕は青い模様が横に入っているのがマルタ島の海のようで好きなんですよ」
「あゝ、良いですね」
エンリケの勧めで土田が手に取ったのも、水色と、海藻のような深い緑色と、一番下に深海のようなディープブルーを層状に配して、その上から海辺の砂を散らしたような模様の入った手のひらサイズの小さなグラスで、円筒形を横から少し潰して開口部を楕円にして、更にその開口部をすぼめた小さい一輪挿しのような形にしてあった。
「土田さん、この形には秘密があるんですよ」
「秘密ですか?」
「ええ、このグラス、上の部分が口笛を吹く時みたいにすぼまっているでしょう」
「はい」
「これ、耳に当てると、マルタの海の音がするんですよ」
「ええっ、本当?」
「ちょっと耳に当ててみてください」
「あっ」
エンリケの言う通りに、グラスの開口部を土田が左の耳に当ててみると、確かに「ヒューヒュー」「ザーザー」とでも言ったら良いのか、耳元で風の鳴るような音が、マルタの海の波の音のように、聞こえて来た。
「これにしましょう」
「土田さん、日本に帰っても、これ、耳に当ててマルタの海を思い出してくださいね」
「ありがとう」
現在のマルタはEUにも加盟してヨーロッパの一員になったけれども、グスマンたちが言うように、マルタはマルタのままである。ヨーロッパでもなくアフリカでもなく、チュニジアでもないのだ。そのマルタが古代から幾多の戦禍を経ても独立国として生き残ったのは、ある意味で奇跡のような事だけれども、周辺諸国もこの国のあまりの美しさに圧倒されて破壊をためらったのかとも思われた。
その後数年を経ても、土田が時折マルタを思い出す事があった。
(あれは一夜の夢のような時間だったな)
仕事に疲れた夜、土田がゴゾのグラスを左の耳に当ててみると、確かにマルタの海の音が聞こえるような気がした。そして、
(マルタの海と日本の海は、繋がっているんだな)
と思うと、何故か心が和んだものだ。




