十三 夜来香 (いえらいしゃん)
厦門の工場を使って土田が川崎の工事をやっていた頃というのは、品川に続いて汐留や丸の内地区でも複数の大型再開発工事が進んでおり、建設業界はバブル崩壊以降久方ぶりの活況を呈していた。
土田建材も、リストラの遅れとバブル以降の中国材の攻勢等々による施工単価の値崩れに押されて会社の体力は落としていたものの、そこはそれ、仕上げ業者の中では「老舗」の一つと言われ、一方で三代目の土田が社業を継いでから、特に同業者からは、
「技術は一流、経営は三流」
などと揶揄されてはいたものの、大手ゼネコンとの長年の実績から、ある程度のまとまったお仕事をいただいていた。
そうした工事の中に大手広告代理店本社の新築工事があり、施主も現場のゼネコンも土田建材と繋がりの強いチームではなかったが、この建物の基本設計者が、フランスとアメリカの著名な二つの設計事務所であって、施主も認めた彼らの意向として、
「日本の仕上げ業者のショールームを訪問して材料を決めたい」
とのメッセージが伝えられた。今は知らないが、当時の建設業界の人間は外国の設計者に「殊のほか」弱かったと思う。日本の下請けの技術的な提案などは殆ど聞かないが、外国特に欧米系の設計事務所が出て来ると「殆ど逆らわない」感じであった。
そういう訳で、営業的に劣勢であった土田建材の北関東のショールームにも、フランスとアメリカの設計者数名がゼネコンの責任者と共にやって来た。壁一面に見本材を貼り付けたショールームで、ゼネコンB社から来た板倉という副所長が土田に話しかけている。
「いやあ、先に東海地区の大手二社の方に行って来たんだけどさあ、奴らが薦めたのは中国材とかイタリーのサルジニア島のピンクとか、スペインの白とか、生産量が多くて色目が安定して、それで値段も安いっていう、要は業者の方でやり易い材料を出して来たんだよな。あれじゃ設計の先生方も全然納得出来ないのよ。わかるだろ?」
「いえ、副所長、今の単価で日本で作るとそれくらいしか出せないんですよね。サルジニア島の材料は実績もあるし良い材料ですよ」
「そんなんじゃ、別に各社のショールームに行く必要も無いだろ?フランスの先生もアメリカの先生も、何か面白いモンを探してるんだから…」
「はあ…」
「三社の中じゃ君んとこが一番小さいけど、ショールームは新しいみたいだな。何か思いつくモンは無いの?」
「そうですねえ。面白いかな?っていう事だと、ブラジルかインドの『ファンタジー・カラ―』ですかねえ?」
「『ファンタジー何とか』っていうの? 何それ?」
「ええ、はい。花崗岩の場合は、斑模様の大きさは色々あっても、基本的に石英と長石と黒雲母の結晶体なんで、模様の流れとか動きはあんまり無いんですが、ブラジルやインドの『ファンタジー系』っていうのは、地熱の影響とか地殻変動っていうんですか、英語だとタイタニック・ムーブメントって言うんですが、そういうのが加わって、花崗岩なのに大理石みたいな模様の流れがあるんですよ」
「何だか、君、随分と偉そうな言い方だな」
「いえいえ、そんな事では…」
「まあいいや。ちょっと見せてもらおうか」
「はい、まあ特殊な材料なんで、今はどこの日本の業者もあんまり在庫して無いんですがどれもイタリーの大手業者が使ってるモノなんで、ある程度の工事実績はあります。幾つか候補を選んでいただきましたら、生産量とか物性とか、この工事に使える材料かすぐ調べます」
「そんな事は当たり前だろ」
「はい」
この副所長は、色白で細面の比較的ハンサムな顔立ちの人で、首都圏の国立大の建築を出られた優秀な方だったが、どうも何かと突っかかって来る感じで、今まで別の業者をお使いになっていたのだろうという事は容易に想像出来たが、ここではそんな事を一々気にしている場合ではなかったので、土田は急いでブラジルとインドの大判のサンプルを十二、三種類ほども持ち出して来た。競合先で何れも東海地区に本社を持つ二社は、土田がリストラの遅れと資金繰りに悩んでいる最中でも何とか利益を確保していて、この競合先二社が中国材やヨーロッパ材でも割合に安価なイタリーのサルジニア島やスペイン産の花崗岩などを薦めていたのは、誠に「理にかなっていた」のであるが、土田としてはこの時のゼネコンの顔ぶれと雰囲気からして、
(まともに行ったのではウチに仕事は来ないぞ)
と見極めていたので、
(せっかく外国の設計事務所が来られている訳だから、ここは一つ他社が呈示しないような流行り始めの材料を推してみよう)
と思い立ち、模様の流れのはっきりしたブラジル材とインド材を、大きな見本で呈示してみたのである。詳細設計を担当するゼネコン設計部の人が通訳に入ったので、土田や大澤が直接外国の設計者と話をする事はなかったが、二時間ほどの滞在の終わり頃になって、
「君んトコの見本が一番気に入ったんだってさ!」
と、副所長の板倉が、つまらなそうな顔で言って来た。
「フランスの先生がインド産の緑色の流れのあるファンタジー系を外部に使って、アメリカの先生の方は、そのファンタジーとかいうヤツじゃなくてブラジルの暖色系の均一な模様の石を内装に使いたいそうだ。すぐ90センチ角の本磨きと水磨き(注・艶消しの磨き仕上げ)とバーナー仕上げの見本を四枚ずつ作って航空便で送ってください。一週間くらいで出来るか?」
「90センチ角は大きいですね。それを、四枚ずつですか。ええ、はい、何とかやってみます」
「何とかじゃなくて、必ずやりますだろ!」
「はい、大丈夫です。必ず間に合わせます。ただ値段の事を考えると、製品にするのは海外加工でないと無理だと思います」
「それはそれで良いよ。イタリーでも中国の工場でもどこでも使ってもらって良いけど、納期と品質管理はしっかり守れよ」
「それは当社で全部最終的に検品して出しますので大丈夫です」
「まあ、良いだろう」
と、まあ概ねこのような話の流れだったかと思うが、ファンタジー・カラーは少なくとも日本では大規模工事の実績が無かったのと、花崗岩の緑色は鉄分が発色して出来るとも言われていたため、その鉄分の変色のおそれ等も気になって、イタリーのロベルトに聞いてみた処、幸いにも、
「イタリーのキッチンの床は白大理石のビヤンコカララと黒大理石を市松模様に貼るのが一般的ですが、そのインド産の緑色花崗岩もかなり前からキッチンの床に使われているので摩耗耐久性も水がかかった後の変色のおそれについても基本的に心配はないでしょう」
との回答を得て、土田も安堵した。
「材料の手配はロベルトの知り合いの山で良いけど、製品加工の方は、今回は上海の工場にするよ。新しい会社だけど香港資本と中国との合弁で、かなりしっかりした会社なんでここでお願いします。検品の方も、近いんだからお客さんも連れて行きやすいでしょ?」
「わかりました。ただし一応事前に工場を見に行かせるんで、その生産能力と品質を確認しますんで、よろしくお願いします」
「それでいいですよ。外装の方が大体もらえるとしたら全体の半分くらいの量になりますね」
「そのように期待しております」
設計者と現場の副所長がお帰りになった後、商社の大澤と概ねこのような会話をしてスタートしたのだが、一か月も経たないうちに副所長の板倉に呼び出され、
「土田建材は外装仕上げ材の半分にして、内装の全体と外装の残り半分は別の業者にします。君んとこは最近決算が芳しくないんで、所長も心配してるから、しょうがないだろ」
と言われてしまい、数量は土田の期待値の半分ほどになってしまった。板倉が採用した別業者というのは、所謂「飲む・打つ・買う」の接待の上手な、それでも比較的実績のある西の方のブローカーで、土田建材とは対照的な会社だった。
「板倉さんには、やっぱりそういう業者が付いてたんだね」
「そうですね。最近B社の仕事は割と順調にいただいてたんですが、板倉さんはウチのこと露骨に嫌ってましたからね」
「前に何かあったの?」
「いえ、何もないんですが、彼とは一緒に仕事してないんで…」
「まあ、しょうがないね。今どきは、ブローカーみたいに身軽じゃないと接待の費用も出せないからな」
「はあ」
中国の工場の技術が上がって来ると、日本の工場は元々値段では太刀打ち出来ない訳だから、顧客にとってはこうした身軽なブローカーを使う方が現地の接待も含めて何かと好都合という事になった。一方の土田建材の方は、遊んでいる工場の固定資産税や償却負担にバブル期に借金で購入した原石在庫の金利、それに何よりリストラの遅れた社員の給料が重荷になり身動きが取れなくなって来ていた。実際に給料の支払いに少しずつ遅れが発生する事態となり、能力の高い社員から見切りをつけ他社へ転職する者が出始めていた。
「それにしても土田さん、今からでも日本に在庫や機械を安値でも処分して、人もモノも減らしていかないと…。中国で作るのはいいけど、何もしなくったって、日本の方で給料やら資産税やら借入金利やら出て行ってたら、何も残らないんだよ」
「はい。それは重々わかってます。今全力でやってるトコロです」
「従業員だって、出来る人だけに絞らないと、仕事が回らないぞ」
「いえ、今残ってくれてる人は、皆ウチで必要な人たちなんで…」
「そういう甘い事言ってるから、苦しくなっちゃったんだろ?」
「はい。とにかく工場の敷地売却と在庫の処分に注力します」
商社の大澤は、土田建材の最近の信用状態が気がかりで益々厳しい物言いになって来ていたが、それも当然の事だった。土田の方は、営業活動で売上を確保しながらリストラにも注力しよう、というのでは、結局どちらも身が入らないというか、腰を落ち着けて取り組める状況ではなかったが、
(とにかく、目の前の仕事に集中して、良い結果を残そう)
と思い直して、上海の工場の調査に向かった。
上海の合弁工場は市外の新しい工業団地の一角にあったが、全くの新工場との事で敷地内の舗装も無く赤土が剥き出しになっていた。一応加工工場の建屋と機械、原石を切断するギャングソーから出る廃水を処理する水槽等は完備していたので、工場の技術者を送り込んで原石切断から大板の表面仕上げ、仕上げた大板から製品を切り取る石取りの仕方、色合わせ等々ひと通りの技術を教え込み、彼らの手持ちの在庫を加工させてみると、意外に順調な製品の仕上がりを見せた。
土田は、
(やっぱり純粋な中国資本というよりも香港や台湾の資本を入れた合弁工場の方が、話が早くて使いやすいな)
という思いを深くした。
***
設計者による材料の決定から約一年後の二〇〇一年半ば頃より、上海の合弁工場を使った製品の加工が始まった。概ね加工が軌道に乗り始めた頃、現場副所長の板倉が施主の責任者を伴って製品検査にやって来た。当初土田が心配したインドのベルデマリーナ(イタリー語で緑の海という意味)という名前のファンタジー花崗岩の品質も比較的に安定していたので、ある程度地色を合わせておけば製品加工にさほどの困難は感じないで済んだ。
土田が初めて訪れた頃から十五年ほども経た上海の変容には目を見張るものがあった。政府主導の浦東新区開発が始まって一〇年が経過しており、浦西地区に従来からある虹橋国際空港に加えて、東地区の浦東国際空港も一九九九年に開業しており、リニア開通はまだだったが、黄浦江を挟んで西側から眺める浦東の風景も以前の牧歌的な印象とは一変して、高層ビルが林立する近代都市の様相を呈していた。
施主の広告代理店が今回上海に来られたのは、製品の出来映えの確認もさることながらこうした上海の発展に伴う中国での自社のビジネスの可能性を探る意味合いもあったようである。その意味もあってか、今回施主側の責任者である常務取締役は、製品検査前日に北京入りして、中国政府高官との面談後に空路で上海入りされるとの事だったが、諸事情の変更で飛行機が半日ほど遅れ、その常務の到着を現場副所長の板倉と下請けの土田がホテルでお待ちするという羽目になった。
ホテルは東京の老舗ホテルが経営する浦西地区の「桃園飯店」をゼネコン側で予約していた。常務の到着を待ちながら、板倉と土田が気の合わない会話をしている。
「二〇一〇年に上海で万博やるんで、日本の万博の話が聞きたくて中国政府が常務さんを呼んだらしいな」
「そうですか。それでお話が盛り上がって、長引いてるんですかね」
「そんな事は、お前が聞くことじゃないだろう」
「はあ、申し訳ありません」
「いや、俺は何も知らないぞ。飛行機の機材の故障だとか言ってる奴もいて、始めは二、三時間の遅れだって言ってけどな」
「副所長、お腹空きましたね。中華料理でも食べますか?」
「ふん、そうだな。しかし、お前と中華食ったって美味くないだろ」
「そうですか」
「まあ、いいや。じゃあ、トーストとコーヒーでも頼むか」
「上海で、トーストとコーヒーですか」
「お前、何か、文句あんの?」
「いえ、わかりました。小姐、トーストとコーヒーお願いします」
「承知いたしました」
土田の記憶では、この時のトーストはあまり美味しくなかった。話の相手が板倉だったというのもあったかと思うが、この当時中国で生産される食パンは、今ほどは美味しくなかったのだと思う。
それから二時間ほどして、また、
「まだ到着されませんね。また、トースト、頼みますか?」
「ふん、そうだな」
この時、ほぼ二時間ごとに、トーストとコーヒーを三回頼んだ。あまり美味くないトーストに黙って冷たいバターを塗りつけている板倉の多少苛立ったような横顔を見ながら、土田は、
(この人、俺とは絶対に親しくなりたくないんだな)
と思った。水気の少ないトーストが咽喉に詰まるような気がした。
結局、施主の常務取締役は、昼過ぎの到着予定から八時間ほども遅れた午後九時頃ホテルに到着された。ホテルのロビーに入って来た常務の方へ板倉が「すっ飛んで」行った。下請けの土田も何とか挨拶しようと思ったが、板倉他のゼネコンの一行が施主を取り囲むようにしてフロントの方へ誘導されたので、土田は取り残された。施主の常務の視界の範囲には土田も十分に入る近距離にいたのだが、最後まで声をかけられる事は無かった。
***
それから小一時間ほどして、板倉が何故か土田の処に戻って来た。少し笑顔を作って、
「今日はこれで終わりじゃないよな」
と言い出した。
「はあ、この後、何か?」
「この後、何か?じゃねえよ。これから『夜の空中戦』だ!」
「夜の空中戦?」
「お前、ホント鈍い奴だなあ。『夜の空中戦』だよ!ちゃんと手配してあんだろ?お前、上海まで来たんだから…」
「上海まで来てって、あゝ、はい、お待ちください」
「全く、お前みたいな動きの悪いメーカーじゃダメだな。やっぱりブローカーにしとけば良かったよ!」
「いえ、大丈夫です。すぐ連絡します」
「おう、早くしろ」
「はい」
土田は、
(あゝ、またこれか)
と思った。
(しかし、夜の空中戦とはね…)
(どこまで低空飛行なんだろう、この人は!)
「どこだったかな?電話番号、電話番号…」
「おい、ごちゃごちゃ言ってないで早くしろ。夜が明けちゃうぞ!」
「はい、もう少しお待ちください」
当然こういう事態も一応予測して事前に打ち合わせてあったので、土田は大澤に聞いておいた電話番号を漸く探し出して連絡すると、電話口の向こうで、
「ウェイ?」
と、少し低い女性の声が聞こえて来た。
「日本語わかりますか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「あゝ、良かった。大澤さんから頼んである件ですが、さっきお客さんから頼まれたんですが、今から来れますか?」
「ちょっと待ってください。ええ、はい、大丈夫ですよ」
「あゝ、良かった。謝謝! では、今からお願いします」
「はい、わかりました」
土田が手短かに要件を話して電話を切ってから、一時間ほども待っただろうか。桃園飯店のロビーに細身のチャイナドレスを纏った置屋の女将のような少し年配の女性が、若い人を二人連れて現れた。板倉に女将と若い人を紹介して板倉に好みの人を選ばせ、先に部屋に行かせてから土田は別のエレベーターで板倉が指名した若い人と後を追い、その子が板倉の部屋に入るのを見届けてから下に降りた。
ゼネコンの板倉は蛇みたいな男で、施主を交えた銀座の接待でも三軒四軒とハシゴしては接待する女性の手を握ったままで話し続けるような人間で、土田としてはどういう角度から評価しても好きになれる人物ではなかった。その日の「夜の空中戦」も、大変活発なモノであったようだが、それは土田の関知する事ではなかった。
(あの人、どこ行っても夜の空中戦なのかいな)
(まあ、いいや)
(きっと、現場で、すごくストレスが溜まってるんだろうな)
と思う事にした。今は知らないが、当時こうした接待の効果は確実にあったので、この現場にしても、結局後から振り返ってみると、空中戦の成果か戦果か知らないが、この後、板倉副所長から現場で深刻なクレームが出る事は無くなったのである。
***
板倉の部屋の前で大方の首尾を見届けてから、土田が階下に戻って来ると、上海の女将はまだロビーの隅に、ひっそりと佇んでいた。
「もう一人の子はどうしました?」
「あゝ、あの子はもう帰しました」
「そう、ありがとう。急にお願いして済まなかったですね」
「いいえ、お仕事ですから…」
「ご苦労様でした。謝謝! じゃ、精算も済みましたから、今日の処は、これで大丈夫ですか?」
「土田さん、良かったら少しバーで飲んで行きませんか?日本のお話も聞きたいですし」
「あゝ、そう、僕はいいけど…日本に行ったことあるの?」
「はい、昔、横浜の方に住んでいたことがあります」
「そう。それで日本語がうまいんだね」
「あんまりうまくないですけど…聞く方は大体わかります」
「それじゃあ、折角ですから、少しだけ飲みますか?」
「はい」
と、何となく、そういう流れになった。
桃園飯店には、低層の三階と、最上階スカイラウンジの二箇所にバーがあって、眺めの良いのは最上階の方だったが、
「上の方は、板倉さんの部屋も近いし、まずいよね」
という事になり、とりあえず二人で低層階の方のバーに入った。
「とりあえず、僕は水割りで…」
「スコッチ・アンド・ウオーターね。私はハイボールにします」
「ハイボールって言って、通じるの?」
「ええ、だって、ここ、日本のホテルですから…」
「あゝ、そうか」
このホテルは、浦西地区の旧フランス租界のあった辺りに建てられたもので、フランス式の庭園もある筈なのだが、低層三階のバーには窓も無く、二〇席程の広い座席が照明を落とした中に点在しているという造りで、奥の方にはグランドピアノもあった。
「これだと暗すぎて、貴方の顔が良く見えませんね」
「あら、私はおばあちゃんだから、あんまりはっきり見えない方がいいのよ」
「そんな事ない。今でも十分お綺麗ですよ」
「あら、ありがとう」
女将は歳の頃は丁度五〇前後といった処だろうか、土田より少し年上の落ち着いた感じの女性で、赤と黒の柄のチャイナドレスが、長身で細身の彼女の体躯に巻き付くように、良く似合っていて、
「お名前は?」
と、聞くと、
「蔡梅芳と言います」
と言って、角を丸くした薄紫色の名刺を差し出した。
「蔡さんは日本で何をしていたんですか?」
「あの、日本の男性と結婚して、横浜に住んでいました」
「へえ、そうですか。その人とは何処で知り合ったの?」
「はい、私が中国民航のスチュワーデスをしている時に知り合って、結婚しました」
「その人とは、まだ一緒にいるんですか」
「いいえ、もう一〇年前に別れました」
「どうして?」
「気持ちが続かなくなりました」
「その人が年取っちゃったから?」
「いいえ、たぶん私が年取ったから…。それに、スチュワーデスの制服じゃないと、あんまり綺麗じゃないって言われました」
「ひどい奴だね。相手の気持ちが変わったのは何時わかりました?」
「それは、彼が、浮気した時から…」
「何だ。結局、彼が悪かったんだね」
「まあ、良くある話でしょ」
「それで、すぐに中国に戻ったの?」
「はい、上海に帰って来て、商売を始めました」
「商売を始めるおカネはどうしたの?」
「それは、別れた亭主から少しおカネを貰いました」
「なるほど」
「でも、この商売は、あんまり元手はいらないのよ」
「そりゃそうだ」
「はい」
「じゃ、別れた亭主から出たおカネは何に使ったの?」
「中国に帰って、マンションを買いました」
「上海でマンションなんて、すごいね!東京より高いんでしょう?」
「いいえ、そんな市内のマンションなんて高くてとても買えないわ。ずっと田舎の方ですよ」
二人で少し話しているうちに、店の奥のスペースでジャズの演奏が始まった。ベース、ドラム、サックスと、ピアノのカルテットで、ナット・キング・コールの「アンフォーゲッタブル」とか「バードランドの子守歌」とか「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」などのスタンダードを小さな音で演奏していた。
「日本の客はあんな事ばっかりやって情けないね」
「あゝ、今日のお客さんね。でも男の人は皆女の人が好きだからしょうがないでしょう。中国の男も同じですよ」
「そうかもね。で、今の仕事はうまくいってるんですか?」
「ふふふっ、そうね。あゝいうお客さん、ずっと沢山いますから。今は、知り合いの女性の娘さんを数人預かって、やっています」
「ふうん」
「どの子も、色んな理由があって、私の処に来ているのよ」
「彼女たちの親御さんは近くにいるんですか?」
「いいえ、上海の子はいないです。大体の子は海から離れた内陸部が故郷で、田舎じゃ食べていけないから上海に出て来るのよ」
「でも、政府の一人っ子政策で、どこの家でも子供が一人だけだったら、皆、自分の子を大事にするんじゃないの?」
「いいえ、一人っ子政策って言っても、夫婦で暮らしてたら二人目、三人目が出来てしまう事もあるでしょ?」
「そりゃそうだ」
「だから仕事のある海の方に出て来て飲食店で働いたり、それで私の処に来る子もいるのよ。とにかく特に内陸の方では、親が頑張っても食べさせていけない家は沢山あります」
「昔は日本もそうでした。子供が集団就職で東京に出て来て働いて、親に仕送りしてたんだから…」
「そう。でもね、日本じゃ昔の話でも、中国では今の話なのよ」
「いや、これは、失礼しました」
「いいえ、いいのよ。中国でもね、始めからこういう仕事をしようと思って、出て来る子はいないです」
「それにしても、今日、蔡さんが連れて来た若い人たちは、大学の学生さんみたいな、綺麗な娘さんでしたね」
「そうかしら。中国は日本の十倍の人がいますから、綺麗な人も、十倍いるのかも知れないわね」
「蔡さん、面白い事、言うね」
「まあ、ウチの子は、見た目もありますけど、真面目な子たちです。何か昼間のちゃんとした仕事に就いたら辞めていきます。それまで私が預かっているのよ。だからね、どこでも大丈夫なように、礼儀作法とか常識を教えていますのよ」
「そりゃ、大事な仕事だね」
「そうでもないです。私もこれで商売してる訳だから…まあ、でも、家に帰りたくなっても、帰れる訳じゃないから、なるべく私の家の近くでアパート借りて、私の家族みたいにして暮らしてます」
「そうですか」
バンドの演奏が「ムーンライト・セレナーデ」に変わった。
「土田さん、少し、踊りますか?」
「いや、ダンスは上手く踊れない、けど…」
「私もよ。おばあちゃんだし…」
「いや、そんな事ない。大丈夫」
「土田さん、また、褒めるのね!」
「セレナーデなら、普通のブルースで踊れそうだね」
「そうよ。他に誰もいないんだから、少し楽しみましょう」
「そうだね」
蔡の長身の身体は、風に揺れる柳を掴むようにほっそりとして、何かふわふわと掴みどころが無かったが、土田が思い切って、腕を差し伸べてその肩を抱き寄せてみると、花のような甘い香りがした。
「何か、とっても良い香りがしますね」
「そうかしら」
「何か、白い花びらみたいな匂いですね」
「ええ。これ、中国の香水で『夜来香』っていうのよ」
と、蔡が耳元で囁いた。バラ科の夜来香は、夕方から夜にかけて、甘く濃厚な香りを放つ花らしいのだが、彼女が身に付けたこの香水は、ダンスの動きの中で、ほのかに漂って来るだけだった。
「チーク・トゥ・チークでもいいのよ」
と言って、彼女が頬を寄せて来た。
二人の影が、上海の夜の闇に溶けていった。




