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一 北京

 

紫禁城の一つ目の門を入ったところで、土田晴彦は風に吹かれていた。先ほど入って来た外門とほぼ同じ大きさの木造建築物が眼の前にあって、これが本殿かとも思われたが、その建物の両側には外門同様の高い塀が連なっていた。

(やん)さん、これが本殿ですか?」

「いいえ、今入って来たのが外側の門で見えているのは中門です。この奥に太和殿という名前の本殿があります」

「随分広いんですね」

「そうですね。今ある故宮の面積はおよそ二十五万坪ほどですが、昔からの内陣や外陣を全部入れるともっとずっと大きくなります」

「どのくらい大きいのですか?」

「ええっと、ずっと大きいです。時間が無いので行きましょう」

「はい」

明の時代から皇帝の住まいとして使われていた故宮を紫禁城ともいうのは、皇帝の住居を意味する「紫宮」と庶民の入れない場所を意味する「禁城」とを合わせた造語なのだとものの本に書いてある。この頃ベルナルド・ベルトルッチ監督の「ラストエンペラー」はまだ公開前だったので、写真なども含めて土田が故宮内部の姿を見るのは初めてだった。昔の宮廷建築といえば日本にも京都や奈良がある訳だが、中国のそれはスケールの大きさが全く違っていて、

(故宮の中に京都の街がすっぽり入ってしまうようだな)

と土田は思った。従って、外門から中門、中門から本殿への距離もかなりあった。

「午前中に廻らないといけないので、少し急ぎましょう」

「はい」

通訳の(やん)偉琳は、北京大学を卒業したばかりの二十三歳で、五金砿産輸出入公司という鉱物資源や産業用の様々な金属を扱う、国営大手商社の北京総公司から派遣された通訳である。白のカッターシャツに裾の開いた薄茶色のチェックのロングスカートと茶色の革のビジネスシューズを合わせ、長い髪をポニーテールにまとめた、質素だが清潔感のある、お嬢さんだった。一九八六年四月中旬の北京の気候は土田にはまだ肌寒い感じだったが、この若い人は、寒い気候に慣れているようだった。当時人気のあった女優の秋吉久美子に少し似ていて、少し色黒の活動的な顔を土田の方に真っ直ぐに向けて、話をした。

「楊さんの楊は、楊貴妃の楊なんですね」

「私はそんなにすごい人じゃありませんよ」

「でも名前にも『偉い』っていう字が入ってますよね?」

「はい。でもこれ、両親が付けた名前ですから」

「日本語は誰に習いましたか?」

「大学で覚えました」

「随分お上手ですが、日本に行ったことは?」

「まだありませんが、いつか行きたいと思っています」

この後土田は青島や上海、厦門などで男性や女性の様々な日本語通訳に会ったのだが、皆殆ど日本に行った事が無いのに、この国の通訳の日本語はほぼ例外無く訛りの無い標準語で、中国の外国語教育のレベルは相当なものだと、土田は感心した。

五金公司から土田が買おうとしていたのは、当時日本で少し流行り始めていた山東省の建設資材である。土田は前の月の三月末に十年勤めた金融機関を円満退職して、妻の実家の建設資材メーカーに再就職していた。山東省の材料を買うのならば、最初から山東省に行けば良いようなものだが、この当時は何でも北京の総公司の許可を取らないと話が前に進まなかった。

中門を過ぎて速足で十五分も歩くと、漸く太和殿の前に着いた。

「しかし、本当に何もありませんね」

蒋介石が毛沢東との戦いに敗れて台湾に逃れた際に、この故宮の財宝をすべて持ち去ったということで、この巨大な構築物の内部はほぼがらんどうと言っても良い状態だった。

「はい。蒋介石が持ち去った中国の財宝は、現在台北の故宮博物院にありますが、あれは故宮ではなく、ここが本当の故宮です」

と楊が説明した。

「何も無くても綺麗ですね」

「ありがとうございます」

「日本人は木造建築が好きですが、こんな大きいのは初めてです」

土田たちの他には誰もいない、広大な平日の故宮を、朝の静寂が支配していて、

(何も無い方が却って広く感じるな)

と土田は思った。

「土田さん。ここに一つ、台湾に持って行かれなかったものがある

んですが、どこにあるか、わかりますか?」

「うーん、ああ、えーと、ああ、あれの事ですか?」

「はい」

太和殿の正面の両側に昇殿するための大階段があり、この二つの階段に挟まれるように

大きな龍の彫り物を施した白大理石の石板が、斜面に沿って何枚も据えられていた。

「見事な石板ですね」

「この石板群は、巾が三メートル以上もあって、一番大きいものは縦の長さが八メートルはあります。継ぎ目の無い一枚の大理石で出来ていて、世界最大の大理石彫刻と言われています」

「そうなんですか」

「皇帝が昇殿するとき、階段の両側に御輿を担ぐ家来が居て、皇帝は御輿に乗って、この大理石の上を通って玉座に登ったのです」

「皇帝はすごく偉い人だったんですね」

「ええ、たぶん」

紫禁城は明朝の後の清の時代にも使われたので、西太后に指名された幼い愛新覚羅溥儀が玉座に就いた時も、御輿に乗ってこの上を通ったはずである。

雲を従え髭を貯えた大きな龍が掘られた白大理石は、イタリーのカララ地区の代表的な白大理石より少し青みがかった青灰色のように見えたが、石板群自体はキズの無い健全な材料であって、中国の歴史と奥ゆかしさの感じられる落ち着いた造形物だった。

「この石は中国内陸の大理という村で採れたのですが、土田さん、これ、どうやって運んだと思いますか?」

「うーん、昔の日本のやり方だと、縄を結んで、牛と人間が大勢で引っ張ったりしたようですけど…」

「いいえ。この石は、冬の河が凍っている時期を選んで河の上を滑らせて運んだんです」

「へえ、昔の人は、すごいことやりましたね」

「まあ、大理から北京までの道路も無かったですからね」

「なるほど。それで、大理という地名が、大理石の語源になったのですよね」

「はい、その通りです」

この頃の中国は今よりずっとお金やモノが無かったと思う。通訳の楊偉琳の初任給が、確か四千円くらいで、どういう計算なのか良くわからなかったが、二、三年すると八千円くらい貰えるようになるのだと言っていた。

それにしても…

「本当に『眠れる獅子』だな」

と土田は思った。今はモノが無いけれど、中国四千年の歴史は伊達じゃない。すごい地力のある国だと、土田は思った。

紫禁城を出て、土田と楊が人民広場に戻って来た。

「人民広場の英雄記念碑を見に行きましょう」

「はい」

今では「天安門広場」というのが一般的だが、この日本人にとっては必要以上に広いと思われた人民広場の中央に「英雄記念碑」が建っていた。土田はこの記念碑に彫られた労働者を讃えるメッセージを見たかったのではなく、その太めのオベリスクのようなモニュメントに使われている材料が、例の山東省の建設資材でできていたため、その出来映えを見ようと思ったのである。

英雄記念碑の周りには何もない、平面度の高い、石畳みの空間が広がっていた。正面に見える天安門が大き過ぎて目立たなかったが、英雄記念碑自体も高さ三十メートルを超える大きなもので、本体は、山東省の「中国三○六」という薄紫色の天然素材を、機械を使わずに職人がノミを振るって平面に仕上げたもので、「叩き仕上げ」というこの技法は、八十年代半ば当時の日本の職人の技術水準と比較してみても、卓越していた。

「うーん、素晴らしいですね」

「そうですか。ありがとうございます」

「この記念碑を作った職人さんは今でもいるのでしょうか?」

「さあ、どうでしょうか。文化大革命がありましたから…」

楊が少し言葉を濁したようだった。

「文革の時の『下放(かほう)』なんかで、技術者や知識のある人達が、地方の農地で働かされたんですよね?」

「いいえ、皆、自分から喜んで地方に行ったと聞いています。それ以上詳しい事はわかりませんが、今こういう職人を中国で探すのは難しいと思います」

「そうですか」

英雄記念碑なのだから、中国が独立した一九四九年以降に出来たもので、その頃はまだこうした高い技術を持った職人が残っていたようなのだが、一九六〇年代の文革だの下放(かほう)だのといった、政治や思想に第一の価値を置いた国を挙げての運動で、建築工芸に限らずこうした技術が散逸してしまったようなのだ。

「昔は、中国が日本の先生だったんじゃないのかなあ」

「そうですか?でも今は、何でも日本の方が先生みたいですよ」

土田が小学四年生の頃だったか、日教組の先生が中心になって、「赤いネッカチーフ」という中国映画を東京の公立学校で上映した。「少年先鋒隊」という、後の紅衛兵になる少年少女が沢山出て来て、まだ年端も行かない子供たちが、黄色い制服に赤いネッカチーフを首に巻いて、毛主席を礼賛しながら大活躍するという何とも異様な映画だった。この頃公立の小学校で何故こういう映画が上映されたのか、土田には勿論わからなかったが、この数年後に、文化大革命のニュースが中国から毎日のように入って来るようになる。

(しかし、あの頃は、右も左も、日本の将来の事を真剣に考えて、資本主義か、社会主義かなんて、真面目に議論してたよなあ)

(でもあの映画は、ちょっとどうなんだろうって言う感じだったな)

などと土田が思い出していると、楊が、

「お腹空きましたね。お昼にしましょうか?」

というので、二人で王府(わんふう)(ちん)通りの入口近くの大きな食堂に入った。

「少し暗いですね」

「はい。昼間は節約して電気を付けていないんです」

「停電はありますか?」

「毎日ありますよ」

「発電所は火力発電ですか?」

「はい」

「石油ですか」

「いえ、石炭と少し石油ですけど、電気はどこも足りないんです。今、発電所を沢山作っているところです」

「何でもこれからなんですね」

「はい」

なんていう会話をして、チンジャオロースと青梗(ちんげん)(さい)のような昼食を頂いた。中華料理というより薄味の中国の家庭料理という感じで、健康には良さそうな味だった。多分五十人くらいは入れそうな広い店だったが、昼間の店内は閑散として、土田たちの他には二、三組の客しかいなかった。良く見ると、暗い店内の角で昼間からビールを飲んでいる男たちがいた。

「あれは?」

「ああ、あれは、自由な人たちです」

三人の三十代くらいの男たちが、ビールの大びんを五、六本空けて、昼食を取っているところだった。皆、白のカッターシャツにグレーや茶のズボンという地味な服装だったが大きな声で沢山のつまみを注文して、盛んに気勢を上げていた。

「昼間っからビール飲んでて、いいんですか?」

「はい、あの人たちは自由な人たちだからいいんです」

「自由な人っていうのは、民間の会社の人っていうことですか?」

「はい、最近は自分で商売をすることが許されるようになったので、あの人たちは好きな時間に好きなことをしてていいんですよ」

「ああいう自由な人たちが沢山いるの?」

「いえ、この頃、ああいう人が少しずつ増えているんです」

「そうですか」

「自由な人たち」は、まだそんなに豊かそうではなかったし、政府との結びつきがある訳でも無いようだった。

鄧小平(てんしゃおぴん)が「改革開放」政策を推し進めて、確か、

「白い猫でも黒い猫でも、ネズミを捕る猫は良い猫だ」

という名言を残した。

この頃、土田を含めて日本の一般人の多くは、

(中国はきっと大丈夫だ)

と思っていた。つまり、

(結局、我々と同じように、自由に生きるようになるだろう)

という、根拠は無いが、漠然としたイメージを持っていた。

(だから、助けなくちゃいけないんだ。色々教えてあげよう)

と思っていたのだが…

一時間ほどで軽い昼食を終えると、午後から五金公司の総公司で、本社の管理職と面談した。本来の目的は、山東省の建設資材を買う事だったのだが、この頃は何でも総公司の許可が必要だった。

「それで、どのサンプルですか?」

総公司の趙という科長が、小さい見本が沢山並んだ木製のシェルフの前に立って尋ねた。見本は少しホコリを被っているようだった。

「はい、少し赤っぽいですが、たぶんこれだと思います」

薄紫のきれいな材料が見られるのかと期待していたが、こちらの見本は古いものばかりのようで、土田は少し落胆した。五金公司は当時の中国で三番目か四番目に大きい商社で鉄鋼以外の非鉄金属(五つの金属)を主体に扱っており、同じ鉱物資源ということで外装用の天然素材やセメントにする石灰なども扱っていたが、非鉄金属等の商売に比べると、明らかに力が入っていないようだった。

「確かにこの材料ですが、本当はもっと紫色のが良いんです」

「そうですか。それは、私には、良くわかりません」

と、この趙という中年男は、素っ気ない生返事だった。

「とにかく、山東省のこの材料が欲しいのですね?」

「はい。山東省の方に連絡をお願いしたいのですが?」

「わかりました。後は青島の分公司で話をしてください」

ということで、総公司の許可が出て、北京での話は簡単に終わった。どうも銅とか鉛とかの金属の商談ほど熱が入らないようだった。

商談室を出て階段を下りながら、楊に聞いてみた。

「あんなんで、大丈夫ですかね?」

「大丈夫、私がちゃんと連絡しておきます」

「よろしくお願いします」

「はい。どうぞ私にお任せください」

「まあ、いいかな」

と今日のところは諦めたので、結局午後の四時前には、もう商談が終わってしまった。

総公司の外に出ると、

「夕方まで時間がありますから、王府(わんふう)(ちん)に行きましょう」

と楊がいうので、付いて行くことにした。

「これが、北京の『銀座通り』と言われている王府井です」

「さっきも来ましたよね?」

「ええ、はい。お昼をご一緒しましたね」

「それで、ここはどんなお店があるのですか?」

「はい、食べ物や洋服や家具とか何でもありますけど…」

「今日は観光ばっかりですね」

「そうですね。観光客に人気なのは、お茶とか墨と硯とか月餅とか、ああ、一番人気なのは北京蜂王精ロイヤルゼリーですね」

「ああ、それにしましょう」

楊が「銀座のような処」と言った王府井は、少なくとも当時は、とても銀座通りという雰囲気ではなく、現在の大田区の戸越銀座にも遠く及ばないほど閑散としていた。思ったより選択の余地もなく、とりあえず北京蜂王精を少し購入した。

土田が、

「夕食は如何ですか?」

と誘ってみたが、

「いえ、明日は大学院の講義がありますので、ここでお別れします」

と断られてしまった。

「そうですか。残念ですね。じゃ、次は東京で逢いましょう」

「そうなるといいですね」

「東京に来ることになったら会社に連絡してください」

「はい。北京にもまた来てくださいね」

「頑張って、ちょっと偉くなったら日本に来てください」

「そうなるといいわ。ではまたね」

そう言うと楊偉琳は宿舎の方へ歩き始めたが、一度振り返ると、少し微笑んでこちらに向かって手を振った。

この頃の中国はまだ静かで、豊かではないが清く正しく美しい、何の悪い印象も抱かせない国であったように思う。日本の製鉄会社の技術で上海の宝山製鉄所の一号高炉に火が入ったのが前年の一九八五年九月であって、政治体制は日本人には良くわからなかったが国が豊かになれば自然と西側諸国のような体制に変わっていくのだろうという、今となっては根拠のない漠然とした期待感が、土田のような平均的日本人の感情であったと思う。

楊偉琳と別れてホテルに戻った土田は、一人で軽い夕食を取ると、翌朝の飛行機で青島に向かうことにした。


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