第15話 プリズム星人との遭遇
展望デッキの透明な壁に手のひらを当てると、冷たさが指先から手首へと這い上がってきた。
ミレイは自分の手の跡が、薄い水蒸気となって壁に残るのを見つめている。
その跡は、数秒で消えてしまう。
太陽系を離れてから三日目。もう地球の光は見えない。あるのは、無数の星々が放つ冷たい光だけ。その光景は美しすぎて、同時に恐ろしい。まるで、自分がとても小さな存在であることを、宇宙全体から突きつけられているようで…
「初めて見ると、圧倒されるだろう?」
背後から響いた声に振り返ると、キャプテン・トーマス・リードが立っていた。
左腕だけが機械化された、60歳の男性。軍服の袖から時々漏れる微細な機械音が、この静寂の中では妙にリアルに響く。ウィーン、という小さな音。まるで、彼の感情が機械を通じて外に漏れ出ているみたいに…
「はい…想像していたのと、全然違いました」
実際には、想像したこともなかった、というのが正しい。
「綾羽タケシ。君のお父さんも、きっと同じことを言っただろうな…」キャプテンの目が、わずかに細められる。
アヤハ・タケシという名前を口にするキャプテンの声に、微かな敬意が込められているのをミレイは感じた。機械化された左腕の関節部分が、かすかに光る。ピッ、ピッ、という音。その光は、まるで彼の心拍数を表しているようにも見えた。
「優秀な人だった。そして、正しすぎた…」
正しすぎた、という言葉の重さが、ミレイの心に沈んでいく。その言葉の選び方に、キャプテンの複雑な思いが込められているのを感じた。この世界は、正しいことが、必ずしも良いことではない世界なのか?
「正しすぎると…父の様に、殺されてしまうのですか?」
その問いは、ミレイ自身も驚くほど率直に、口から出た。キャプテンの表情を見ていると、遠回しな質問では答えてもらえないような気がしたのだ。
「この世界では、そういうことも起こるんだ」
キャプテンの答えは曖昧だったが、その曖昧さの中に、言葉にできない複雑な事情があることをミレイは感じ取った。彼の機械化された左腕が、また小さく光る。まるで、過去の記憶に反応しているみたいに。
突然、船内に響いた警報音が、二人の会話を遮った。
—ピーッ、ピーッ、ピーッ。
規則正しい電子音が、展望デッキの静寂を破る。
「全乗組員に告ぐ、未確認飛行物体接近。レベル2警戒態勢に移行する!」
アナウンスが響いた瞬間、キャプテンの表情が、まるでスイッチが入ったように、一瞬で軍人の顔に変わった。
「ミレイ、自室に戻りなさい!」
「でも、私は…」
「これは命令だ!」
展望デッキから廊下に出ると、船内の空気が一変していた。
—カツ、カツ、カツ。ウィーン、ガチャ、ピッ。カツ、カツ、カツ。ウィーン、ガチャ、ピッ。
上層階を歩く機械化された富裕層の住民たちの足音が、普段よりも早いテンポで響いている。表面上は冷静だった。でも、歩く速度が微妙に早くなっている。普段よりも機械音が多く聞こえるのは、緊張で機械部分が敏感になっているからかもしれない。
一方、下層階からは、押し殺されたようなざわめきが聞こえてくる。機械化されていない人たちの不安は、隠しようがない。
自室に向かう途中、ミレイは胸の奥で何かが騒いでいるのを感じた。ドクン、ドクン、と心臓の鼓動が、いつもより少し早い。それは恐怖とは違う。むしろ、期待に近い感情。まるで、何か重要なことが始まろうとしていることを、体のどこかが知っているような。
—なんだろう、この感じ?
怖いはずなのに、わくわくしている。それが不思議だった。
自室のドアの前に立った時、キーカードを持つ手が微かに震えていることに気づいた。ピッ、という認証音と共にドアが開く。部屋の空気が、なんだかいつもと違って感じられる。
ミレイは床に座り、いつものように瞑想の姿勢を取った。足を組んで、背筋を伸ばして、手をディアンムドラーの形に整える。親指と中指を合わせると、もう一つの世界と繋がる感じがする。
父から教わった呼吸法。吸って、止めて、吐く。スー、ハー。意識を内側に向けて、心の騒音を静めていく。
最初は、船内の警報音や人々のざわめきが気になった。ピーッ、ピーッ、という機械音。ざわざわ、という人の声、でも、呼吸に集中していると、だんだんと、それらの音が遠くなっていく…
—静寂の中でのみ、真実は見える。
呼吸を続けていると、意識がだんだんと深いところに向かっていく。そして、その時だった。
意識の深いところで、何かが光った。
それは言葉ではなかった。音でもなかった。光の波動のような、今まで経験したことのない感覚。暖かくて、優しくて、同時にとても古い智慧を含んでいるような。体の中から湧き上がってくるような、でも確実に外からやってきているような、不思議な感覚。まるで、光そのものが話しかけてくるような。
"人間の子よ"
その声は、ミレイの心に直接響いた。外から聞こえたのではない。内側から湧き上がってきたような。でも、確実に自分以外の存在が語りかけている。その確信は、理屈では説明できないけれど、疑いようがなかった。胸の奥で、何かが共鳴している。
"あなたの種族の分裂を、私たちは深く憂慮している"
ミレイの心臓が早鐘を打った。ドクン、ドクン、ドクン。これは幻覚ではない。間違いなく、何者かが自分に語りかけている。その声には、深い悲しみが込められていた。まるで、人類のことを本当に心配してくれているような。そんな存在がいることが、嬉しかった。
"あなたは橋となることができる。光と闇を繋ぐ橋に"
光の存在の声には、深い悲しみと、同時に希望が込められていた。その複雑な感情が、ミレイの心にもそっくりそのまま伝わってくる。まるで、感情そのものが言葉よりも先に伝わってくるような。温かくて、包み込まれるような感覚。
"恐れることはありません。私たちはあなたを通じて、理解し合いたいと願っているのです"
ミレイは瞑想を続けながら、その存在に意識を向けた。すると、もっと鮮明に感じ取ることができた。それは確かに、人間とは全く異なる生命体。光そのもので構成されているような、でも、とても古くから存在している智慧を持った存在。悲しみと希望を同時に抱えている、複雑な存在。
“私の名は、ルミナス・プリズム。我々は探査官として、あなた方との交流を求めてここに来ました”
その名前を聞いた瞬間、ミレイは立ち上がっていた。体が勝手に動いたような感じだ。
手のひらが汗ばんでいることに気づいた。




