公爵夫人見習いの生活
レベッカはすぐにでも出ていこうとしたが、ラルエット家との婚約締結の書状を準備するのには時間がかかるということで、それまでは花嫁修行中の未来の公爵夫人という建前で生活をすることとなった。
レベッカと、夫であるヴァレリアン公爵との新しい生活が始まり、二週間が経った。
護衛の手配が整うまで、しばらくは屋敷の外に出ないようにとレベッカは厳命されていた。
屋敷内では好きに過ごしても良いということだった。
しかし、レベッカは途方に暮れた。
(やりたいこと……? やらなければいけないこと、じゃなくて?)
洗濯、掃除、馬の世話、後妻や義妹の雑用、そういうことに追われた生活で染みついた時間感覚がレベッカをそわそわとさせた。
だが、すぐにレベッカはやりたいことを見つけたのだった。
ヴァレリアン領の屋敷は静かで、レベッカが植物研究に没頭できる環境に恵まれていた。
何よりも素晴らしいことは、広大な庭園や畑が屋敷の敷地内にあることだった。
(そうだ、門の近くに咲いていたロゼッタの世話をしよう)
レベッカは朝の食事を済ませると、散歩と称して庭園に出るのが日課となった。
先代の夫妻は仲は良かったらしい。しかし、なかなか子が授からず、歳をとって諦めていた頃に独り子のシャルルが産まれた。
成人するなり、父に公爵位を譲られたシャルルは、名実ともにこのヴァレリアン公爵家の主となった。
信頼する使用人を置いて、高齢の先代夫妻はヴァレリアン領内の小さな島へ移住し、隠居して余生を送っているらしい。
それを教えてくれたのは、通いの庭師だった。
この老人は不定期でこの屋敷に通ってくるらしい。
常駐の庭師たちや屋敷の使用人たちにも一目置かれているベテランだ。
レオ爺さんと呼ばれているが、年齢不詳でいつからいるのか誰も知らないようなので、きっと先代か、もしかするとその前からこの屋敷と縁があるのかもしれない。
このお爺さんはあなどれない……とレベッカが思うことには、レオ爺の剪定した樹木はどれだけ弱々しくとも翌日には蘇って生き生きとすることだった。
きっとさぞかし名のある庭師なのだろう。
レオ爺はひけらかすことはしないが、明らかに他の庭師と違った風格があった。
レベッカは心の中で彼を師と仰いでいた。
この技術をいつか盗みたい。
「いやぁ、時々領内をお忍びで回っておられるようですけどね。昔からお熱いことで有名でしたけれど、今でも仲はよろしいですよ」
パチン、と、レオ爺の剪定鋏の軽やかな音が鳴る。
レベッカは庭師の鮮やかな手さばきを見ながら、年の功というものへの尊敬の念を深めていた。
「レオ様は、先代の公爵夫妻をよくご存知なのですね」
「え、ええ、まあ。この歳になりますとなあ。昔の話も色々と増えますよ」
レベッカはロゼッタの接ぎ木に勤しんでいた。文献によると、折れたロゼッタを接ぐことは難しいが、不可能ではないらしい。
「いやあ、それにしても、奥様が手ずから庭仕事とは驚きました」
と、レオ爺は言った。
「いえ、私は奥方といっても、一時的な者なのです」
「一時的?」
レベッカは土をふるいにかけながら、これまでの経緯を説明した。
「ラルエット家の……ほお、なるほど。妹殿は聖女試験に参加なさるのですね」
「ええ。妹は社交界の皆様に気に入られていますし、魔力もありますから」
「そう甘い世界ではありませんがねぇ……まあ、どうなるかは神のみぞ知るですな」
「本当に。それにしても、このロゼッタは見事ですね。庭師の方々の技術がよろしいんですね」
大ぶりの花弁。
色つやも良く、朝方になると葉には水滴がつく。健康なロゼッタには、土から吸った水分が朝露のようにつくのだ。
この見事な花を見ていると、レベッカは幸せだなあと感じ入る。
太陽を受けて輝き、飛び交う虫に自分こそが美だと全身で訴える花たちは、生命のエネルギーに満ちあふれていた。
「そう言ってくださるとありがたい。これは私の弟子たちが丹精こめて咲かせた花なんですよ」
と、老いた庭師はしわの刻まれた顔をほころばせた。
レベッカはレオ爺や庭師たちと話す中で植物についての知識を深めながら、庭園の美しさに癒されていた。自分の庭いじりスタイルを確立し、古びた麦わら帽子とほっかむり、汚れていいワンピースと下履き、泥のついた手が基本装備だ。
そのとき、庭にいるレベッカの元にメイドが駆け寄ってきた。
「レベッカ様!」
エレーヌという名の若いメイドは、レベッカと年も近いということで専属の世話係になった。
レベッカにしてみれば、今まで全てを自分でしてきたのに、世話をされるのはどうも気恥ずかしい。
そして、エレーヌは自分の仕事に忠実な良いメイドだった。
つまりは――とても、口うるさい。
「あっ……エレーヌだわ……」
見つかってしまった。
「散歩に行くと言い残して二時間は経っております、レベッカ様。ティータイムですがまだ庭におられる気ですか? それはともかく、なぜ、あれだけ言っておいたのにまたこのように質素な格好をなさっているのですか? これは……何です? 麦わら? 穴あいてますよ? まだ使える? レベッカ様? お分かりでしょうか? あなた様は公爵夫人なのですよ?」
疑問符が飛びすぎていて怖い。
エレーヌが作業服と称して用意してくれる服は、全て裏地に高級布がついている新品で、レベッカとしてはどうしても着たくなかった。服の無事を考えながら庭仕事はできない。
「使用人たちでさえもっと仕立ての良い洋服を着ているではありませんか! 何ですかそのゴワゴワしたお手洗いのタオルよりも固そうな布は!」
「こちらのお手洗いのタオルは余りにもフワフワし過ぎていると思うのですが……」
と、レベッカは控えめに意見を述べたが、エレーヌは取り付く島もなかった。
「レベッカ様! そういう話をしているのではございません! 質素な生活様式は素晴らしいことですが、ときには自分自身を輝かせることも大切です。ご主人様が誇りに思われるでしょう」
「いや、シャルル様は……どうかと」
彼が激務であるということは初日からレベッカにも理解できた。
朝はレベッカよりも早く起きて、夜はレベッカが寝るよりも遅く帰ってくる。
「どうもこうもありません。新婚の奥方が着飾らなくてどうしますか。特に今日は週末、ご主人様もお早くお帰りになるでしょう。きちんといたしますよ、きちんと!」
というと、エレーヌは庭師のレオに会釈をして、レベッカを引きずっていった。
レオ爺も慣れたもので、にこやかに手を振っている。
レベッカも申し訳なく思いながら挨拶を返した。
公爵夫人というのはなかなかに大変だ。