婚約
食卓にはくるんと巻いたきつねの尻尾のような形のパンが品良く積まれていた。
その隣には、丸く白いパンや、クルミやレーズンを挟んだパン、小さく切られたケーキが見栄え良く並べられている。
金色の大きなボウルに、鮮やかなフルーツが何種類も、まだ水滴をつけたまま載せられている。
目の前のプレートには、湯気のたつスクランブルエッグやこんがりと焦げ目のついたソーセージが良い匂いをさせている。茹でた野菜には生のおろしたてチーズがかかっている。その横には小洒落た白い小皿がついていて、食欲をそそるオレンジ色のドレッシングが入っていた。
これまで実家では、野草をおかずに余ったパンをかじっていたレベッカは、どれから食べればいいか迷い、手を伸ばし、引っ込め……を延々と続けていた。
切り出したのは美貌の公爵だった。
「さて、ラルエット嬢。こちらに貴方のお父上から頂いた婚姻の申出書がある」
レベッカはギクリとして公爵を見上げた。確かにラルエット家の家紋が刻印されている。
父の名前ではあるが、その実は義母が仕組んだに違いない。
嗜虐癖のあるという男に嫁がせる嫌がらせ。
断られたとしても、裸同然の娼婦のような格好で突撃したという醜聞を広める嫌がらせ。
いったいあの義母には嫌がらせのレパートリーが何種類あるのだろう?
レベッカは恥ずかしさで消え入りたくなった。
「……私の身内がご迷惑をおかけし、お詫びのしようもございません」
「いや、あるのだ。詫びの方法は」
「えっ」
「婚姻を約束しよう。ラルエット嬢」
「は」
レベッカがあまりにも呆けた顔をしていたのか、メイドは笑いさえしないものの口に手を当てた。
「なんだ、俺が相手では不満か?」
公爵が片眉をあげる。
レベッカは慌てて否定した。
「いえいえいえいえ! 滅相もありません!」
「では、ここに署名を」
「あ、はい……ではなく! お待ち下さい! 私はともかく公爵様にメリットがございません」
「ほう」
ヴァレリアン公爵シャルルは、執事に目配せをした。
「失礼ながら申し上げます」
執事は言った。
「ラルエット様が街に出ていかれた場合、ラルエット家からヴァレリアン家へ、強烈な問い合わせが来ることが予想されます。おそらく令嬢を逃がした賠償金を払えというような」
(確かに)
あの義母のヒステリーを思い出したレベッカは納得した。強烈も強烈だ。
「今回、ラルエット様とヴァレリアン家とが婚姻を約束した場合、婚約者が勝手に逃げ出したということで、こちらがラルエット家の方へ賠償を請求できます」
「なるほど……!」
実家を貶められて怒るでもなく、その手があったか、と目を輝かせるレベッカだった。
「と、いうわけで、賠償金云々の諸々を回避するための策だ。婚約を書面で締結し、後々破棄すればよい」
シャルルは淡々と述べた。
納得したレベッカは、そういうことなら、と書面に記載をした。
レベッカ・ラルエット。
このときレベッカは、この名前を直筆で書くのがこれで最後になるとは、全く思ってはいなかった。