ヴァレリアン公爵邸
レベッカは身がすくんで声が出なかった。
さっき天使だと思ったのは見間違いだった。見惚れてしまった自分を、レベッカは思い切り後悔した。
羽は羽でも、あれは猛禽類だ。
感情の一切を排除し、眼の前の物をどう扱うか見定めている。
人間を人間とも思わない、物として見る眼差しだ。
圧倒的な強者だけが持つ威圧感が、レベッカの全身にぶわりと鳥肌を立たせた。
「不審者か?」
美丈夫は胡乱げに眉をひそめた。
喋っていて動いているのに、男の姿形が彫像のように整い過ぎていて、現実感が湧かない。
レベッカは足に力を入れて、声を発した。
「夜分に突然、このような訪問、申し訳ありません。レベッカ・ラルエットと申します」
声が震える。
「婚約の件か」
公爵は片眉をあげた。
「俺は妻は娶らん。断る、と、ラルエット家には書状を届けたはずだが……」
「承知しております」
レベッカは言った。
「ではなぜ貴方がここにいるのだ」
何もかも見透かされそうな感情のない瞳がじっとこちらを見る。
レベッカは一瞬怯みながらも、特に隠すことなどここに来ては無いので、淡々と事実を述べた。
「私も抵抗したのですが、馬車に押し込められ、気付けばこちらの門前に置き去りになっていました」
「置き去り?」
「はあ、恥ずかしながら、義母は何と言うか、かなり直情型な性格で……」
レベッカは肩を震わせた。
さすがに、この背中の開いた薄いドレスは秋風がこたえる。
「恥を忍んでお願いがございます」
「ほう?」
ヴァレリアン公爵は皮肉げに笑った。
普通の十代の令嬢であれば、その美貌と嗜虐的な表情、圧倒的な威圧感に怯んでいたかもしれない。
しかし、レベッカに怯えはもう無かった。なぜなら、生きるか死ぬかの瀬戸際だったからだ。
(ここで話を聞いてもらえなければ、良くて風邪、悪くて凍死だわ)
レベッカは追い込まれていた。
(でも死んだって、いいえ、生まれ変わったってあの家には戻らない)
人間、腹を決めれば胆力というものがつく。レベッカは覚悟した表情で言い放った。
「一晩の温情を頂けませんか」
ヴァレリアン公爵はつまらなさそうだった。またか、と言わんばかりだった。
「俺にはその手は通じん。諦めろ」
勿論、公爵が言いたかったのは、『一夜の情』『一夜の関係』などに絆されはしない、という意味である。
しかし、豊満なプロポーションのレベッカは、残念ながらその成長した体に見合うほどの、『知識』を身に付けてはいなかった。
(……その手?)
内心、?が飛び交っていたが、レベッカは諦めずに言った。
「あ、あの! 困ります! 馬小屋の隅でも良いんです!」
このまま凍死するのだけは避けたい。
せめて室内の温度が高いところで夜を過ごし、朝になれば平民街へ歩いて逃げ出すのだ。
レベッカは食い下がった。
「馬小屋……で『一晩の温情』を?」
「はい! 藁の寝床があれば十分です」
ヴァレリアン公爵は彫像のような顔を歪ませ、本当に嫌そうに言った。
「馬小屋……というのは……初めて言われたが……勿論嫌だが……」
「馬小屋がだめなら厨房の端でも!」
「厨房!? 正気か?」
一晩、泊まりたいだけのレベッカは必死だった。
「いっそ使用人の皆様の大部屋でも構いません!」
「いや、待て、さすがにそれはないだろう!」
騒ぎを聞きつけたのか、公爵の背後から数人の使用人がやって来た。
非常にスムーズなところを見ると、こうして押しかけてくる客人は少なくないのかもしれない。
「いかがいたしましたか」
その中でも上背のある、若い執事が凄い顔になってレベッカの無惨なドレスを見、そして赤面した。
年嵩の執事が呟く。
「坊ちゃま……法を司る者として、レディに対してドレスを引き裂くというのは……しかも野外で……」
「違う」
公爵は即座に否定した。