婚約の予定外
聖女試験の一月前のことだった。
シャルルはいつものファンシーな隠れ部屋でゆったりとカウチに背をもたれさせていた。
「明日でこの関係も満了か……」
思えばレベッカはよく働いてくれた。
公爵家に届く些末な書類は、内容としてはたいしたことはないが量が多く、家令を筆頭に処理にあたる時間が多く割かれていた。レベッカが来てからは、そのほとんどを一手に引き受けてくれるため、
「レベッカ様がいらっしゃってから、正直ものすごく、楽なのです……!」
とエレーヌたちは感激していた。
自分にとってみてもそうだ。
シャルルにはこれまで女人は忌避の対象だった。
容貌を理由に勝手な幻想を抱いては自分勝手な欲望をぶつけてくる。
それにどれだけこちらが振り回されてきただろう?
だが、レベッカは違った。
シャルルのこの隠れた趣味にいやな顔一つしない。
いい年をした成人男性が、可愛いもの綺麗なものに囲まれながら安らぐのが好きだなんて噴飯ものだ。
自分でも自覚はある。
だが、王都で流行のスイーツも、メルティの絵も、やめられないのだ。
もしも簡単に手放せるのなら、自分はもっと早い段階で『まとも』になっていたはずだ――。
そういう卑屈めいたシャルルの考えを、レベッカはその笑顔でいとも簡単に打破した。
「終わってしまうのか……」
平民としてレベッカが街に出てしまえば、この関係が終わってしまう。
シャルルは婚約者を失った者として、ラルエット家に正々堂々と請求ができる。
レベッカは鬼のような義母のいる実家から逃げ出せる。
それが最適な解だと今まで信じてきた。
「それなのにどうして……」
こんなに胸が苦しくなるのだろう?
シャルルは宝石のような菓子を一つつまんだ。
これだってレベッカが好きだと言ったから取り寄せたのだ。
もちろん自分が食べたい思いもあったけれど、レベッカと一緒に食べたかったから。
(俺はもしかして、執着しているのか? レベッカに? なぜ)
病室に飛び込んできた、血の気の引いた顔が脳裏に浮かぶ。
美しく気高い容姿のくせに、少女のように純真なレベッカ。
もう永遠に自分の元からいなくなってしまう、と認識した瞬間、シャルルは指先ではさんでいた菓子を取り落としていた。
控えめなノックが響いたのは、まさにその時だった。
「シャルル様……? 入ってよろしいですか」
猛禽類と表現されることの多いヴァレリアン公爵シャルルは、あたかも蛇に見つかった小鳥のように慌てた。意味もなくジタバタしたシャルルは、居住まいを正すと、
「……ああ」
と短く返事をした。
「あら? 綺麗な色のお菓子ですね。まるでロゼッタの花びらの色のよう。ですが、そちらに一つ落ちていますよ」
レベッカは優しく指摘すると、何でもないことのように言い添えた。
「ところで、シャルル様に一つお願いがあるのです」
「なんだ」
「率直に言いますと……私と結婚して下さい」
拾い上げられていた菓子はシャルルの手によってもう一度床に落とされた。
さらに変な力がかかったために半分が粉々になってしまった。
(ああ、もうだめだ、これは庭にまこう。うちの庭の蟻は贅沢を覚えてしまうな……ってそうではない!)
我に返ったシャルルはレベッカに視線を合わせた。
ほんのりと上気した頬。優美だが凜とした瞳。
コルセットを外した夜着であるはずなのに、なめらかに弧を描く身体の線。
いつも愛らしいが今日は殊の外美しく見える。
(結婚? 結婚して下さいって言ったのか? レベッカが? いや、それは俺が言いたかったけど、えっ、何、ん……何なんだ? 何が起こっている?)
ヴァレリアン公爵シャルルは混乱していた。
レベッカは黙ったシャルルにも怖じ気づくことなく、自分の要求をはっきりと口にした。
「私とシャルル様が結婚すれば、私はヴァレリアン公爵夫人となります。あのアデルという娘を私たちの養子にするのです。そうすると、彼女は聖女選抜への参加資格を得ることができる。あの娘が聖女になれば、シャルル様は聖女の父となります。そうなれば公爵家の繁栄と隆盛は約束されたも同然。もちろん、目的が達成されたあかつきには離縁して下さって構いません。すぐに私は出て行きますので、シャルル様は後妻という形になりますが、お好きな令嬢とご結婚下さい」
「待て、目的というのは」
(それに離縁なんかしないぞ。一度したらレベッカとの結婚をやめるなんて俺はしない!)
と、シャルルが内心で一人盛り上がっている中、レベッカは淡々と言った。
「シャルル様を殺しかけた犯人――異母妹を懲らしめるのです。もう二度と誰も、ヴァレリアン公爵に手出しなどする気が起きないように」
暖を入れている室内に、ビュォォォと風が吹き込んだような気がした。
シャルルは思わず自分の肩を抱きしめた。
レベッカから絶対零度の冷気が流れ込んでくる。
たのもしい。が、怖い。
女人の恐ろしさとはこういうものなのか。
今はバカンスを楽しんでいるであろう、実の母の顔がうっすらと浮かんで消えた。
(でも、俺のためにレベッカが怒ってくれるというのは、なんだかこそばゆいものだな)
と、サディストで名の知れたヴァレリアン公爵は、砕けたマカロンを拾い集めながら、密かに頬を染めた。
そして翌日。
レベッカは、名実ともにヴァレリアン公爵夫人となった。
そしてレベッカの『復讐』は、ここから始まった。